第20話『それでも、笑ってほしくて』
その朝、花は目を覚ましたまま、しばらく天井を見つめていた。
息は少し浅い。
けれど、苦しくはない。
胸の奥に残る鈍い痛みも、今日は不思議と静かだった。
ゆっくり身体を起こすと、指先がわずかに震えているのに気づく。
花はそれを見なかったことにするように、布団の上でそっと手を握った。
「……大丈夫」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
枕元のケースを開き、薬の残りを確認する。
今日の分はある。予備も、まだ少し。
――これなら、きっと。
そう思い込むように、花は静かに息を吐いた。
最近の隼人は、少しだけ元気がない。
落ち込んでいるようには見えない。
言葉数が減ったわけでもない。
それでも、どこか――心だけが遠くにあるような気がしていた。
(……やっぱり、私の身体のことだよね)
自分の体調が揺らぐたび、隼人は何も言わず、ただ傍にいる。
その優しさが、花には少しだけ怖かった。
けれど、それだけじゃない気もしていた。
ふと、以前の出来事が頭をよぎる。
二人で、見ず知らずの誰かの最期に立ち会った、あの日。
あの場に流れていた、静かな空気。
隼人は取り乱すこともなく、けれど確かに、深い悲しみを抱えていた。
まるで――
人の死に、慣れているみたいに。
(……私には、聞けないことがあるんだろうな)
隼人には、花に言えない何かがある。
それは秘密というより、踏み込ませない場所のように感じられた。
でも、不思議と怖くはなかった。
(知らなくても、いい)
無理に知りたいわけじゃない。
ただ、少しでも楽になってほしいだけだ。
(……元気、出してほしいな)
その気持ちが、胸にすっと落ちた。
花は布団の上で膝を抱え、考える。
どこか、楽しい場所。
自然に誘えて、理由をつけられる場所。
最初に思い浮かんだのは、映画だった。
暗い中で、並んで座る。
それなら、きっと不自然じゃない。
けれど、すぐに首を振る。
(……だめ)
映画館では、隼人の顔が見えない。
暗闇の中では、話もできない。
今、花が欲しいのは、そういう時間じゃなかった。
視線が合って、
笑って、
何でもない会話ができる時間。
そう考えたとき、自然と一つの場所が浮かんだ。
「……遊園地、とか」
口に出した瞬間、心臓が小さく跳ねた。
『今度の休み、空いてる?』
『たまには、気分転換しない?』
頭の中で、何度も同じ場面を繰り返す。
(変じゃないかな)
(重いって思われないかな)
(断られたら……)
胸が落ち着かなくなる。
そして、はっきりと気づいてしまった。
(……私、緊張してる)
隼人の反応が怖い。
どう思われるかが、気になって仕方がない。
(……好き、なんだ)
認めた瞬間、胸の奥が熱くなった。
同時に、冷たい不安が広がる。
「……こんな私なんかが」
声に出すと、少しだけ泣きそうになる。
自分は、長くは生きられない。
隼人には、これから先の時間がある。
(……ううん)
花は、ゆっくり首を振った。
(伝えない)
これは、決めていることだ。
伝えてしまえば、隼人は苦しむ。
自分の存在が、
これからを生きていく隼人の重荷になってしまう。
(その時が来たら……)
本当に終わりが近づいたら、理由をつけて姿を消そう。
転校でも、何でもいい。
思い出になれたら、それでいい。
――でも。
花は、胸の奥を押さえた。
(……今は)
今は、まだ。
もう少しだけ、傍にいたい。
隼人が、何も考えずに笑っている顔を見たい。
その時間が、少しでも続けばいいと願ってしまう。
花は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
「……よし」
指先の震えは、まだ消えない。
それでも、立ち上がることはできる。
今日なら、きっと大丈夫。
花は、隼人を誘う決意を胸に、
静かに部屋を出た。




