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死の神と一輪の花 ―― それでも、君を呼ぶ  作者: 己己己己
第三章【それでも、名はここに在る】

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第19話『触れられない名前』


 気づけば、空気が冷たくなっていた。


 並木道の葉は色づき始め、風が吹くたびに、乾いた音を立てて地面を転がる。

 隼人はそれを見ながら、季節が変わったことをぼんやりと受け止めていた。

 いつから変わったのかは、分からないまま。


「もう秋だね」


 花が言う。


 隼人は少し考えてから、うなずいた。


「そうだね。寒くなってきた」


 それだけ言って、歩き出す。

 最近、言葉が少なくなった自覚はあった。

 何かを隠しているわけではない。ただ、うまく言葉にできない。


「ねえ、隼人」


「ん?」


「名前ってさ」


 花は前を向いたまま、続ける。


「なくなったら、どうなると思う?」


 隼人は一瞬、足を緩めた。


「……急だね」


「うん。自分でもそう思う」


 花は小さく笑った。


「でも最近、呼ばれない名前って、どこに行くんだろうって考えるんだ」


 隼人はすぐに答えられなかった。

 何かを言おうとして、やめる。


「……どうだろう」


 少し間を置いて、そう言った。


「でも、忘れられても、なくなるわけじゃない気がする」


 自分でも、なぜそんなことを言ったのか分からない。


「そっか」


 花はそれ以上、深く聞かなかった。


 横断歩道の信号が変わる。

 一人の女性が、車道へ踏み出した。


 その瞬間、隼人の視界が歪んだ。


 見えてしまった。


 女性の上に重なる、はっきりとした終わり。

 今。

 ここで。


 胸の奥が、ひやりと冷える。


 ――いつもなら。


 そう思ったところで、言葉が止まる。

 「いつも」が何なのか、説明できない。


「……隼人?」


 花の声がした。


 振り返ると、花が少し不安そうにこちらを見ている。


 それだけで、足が動いた。


 考える前に、身体が前に出る。


「――っ」


 女性の腕を掴み、引き寄せる。


 次の瞬間、車が横を通り過ぎた。


 悲鳴。

 ブレーキ音。

 周囲のざわめき。


 女性は座り込み、何度も頭を下げた。


 助かった。

 それは確かだった。


 けれど――


 隼人は、しばらく動けなかった。


 胸の奥が、すうっと軽くなる。

 何かを落としたような感覚だけが残る。


「……隼人」


 花が、そっと声をかける。


「……うん」


 それ以上、言葉が出てこなかった。


 帰り道、二人はあまり話さなかった。

 夕暮れが、思ったより早く訪れる。


 しばらくして、花が足を止める。


 胸ポケットを探り、紙を取り出した。


「……あれ」


 小さな声。


 隼人は、それを見た瞬間、胸がざわついた。

 理由は分からない。

 ただ、見てはいけないものを見たような気がした。


 花は紙を見つめ、首をかしげる。


「前より、薄くなった気がする」


 問いかけではなかった。

 確かめるような、独り言。


 隼人は何も言えなかった。


 それは花のものだ。

 自分の持ち物ではない。


 そう分かっているのに、

 触れてはいけない、という感覚だけが強く残る。


 花は少し考えてから、紙を胸に戻す。


「これ持ってるとね、なんだか落ち着くんだ」


花の顔は切なげで、それでいて暖かく、とても綺麗だった。


 隼人は、ゆっくり息を吐いた。


「……うん」


 それしか言えなかった。


 夕焼けが、二人の影を長く伸ばす。


「ねえ、隼人」


 花が、静かに言う。


「もし誰かを助けることで、自分が消えるなら……それでも、やる?」


 隼人は、しばらく考えた。


「……どうだろう」


 少し困ったように笑ってから、続ける。


「でも、助けられるなら……助けたい、かな」


 自分でも驚くほど、自然な言葉だった。


 この秋の日。

 彼は初めて、

 終わらせなかった。


 その選択が何を削ったのか、

 まだ、分からないまま。

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