第19話『触れられない名前』
気づけば、空気が冷たくなっていた。
並木道の葉は色づき始め、風が吹くたびに、乾いた音を立てて地面を転がる。
隼人はそれを見ながら、季節が変わったことをぼんやりと受け止めていた。
いつから変わったのかは、分からないまま。
「もう秋だね」
花が言う。
隼人は少し考えてから、うなずいた。
「そうだね。寒くなってきた」
それだけ言って、歩き出す。
最近、言葉が少なくなった自覚はあった。
何かを隠しているわけではない。ただ、うまく言葉にできない。
「ねえ、隼人」
「ん?」
「名前ってさ」
花は前を向いたまま、続ける。
「なくなったら、どうなると思う?」
隼人は一瞬、足を緩めた。
「……急だね」
「うん。自分でもそう思う」
花は小さく笑った。
「でも最近、呼ばれない名前って、どこに行くんだろうって考えるんだ」
隼人はすぐに答えられなかった。
何かを言おうとして、やめる。
「……どうだろう」
少し間を置いて、そう言った。
「でも、忘れられても、なくなるわけじゃない気がする」
自分でも、なぜそんなことを言ったのか分からない。
「そっか」
花はそれ以上、深く聞かなかった。
横断歩道の信号が変わる。
一人の女性が、車道へ踏み出した。
その瞬間、隼人の視界が歪んだ。
見えてしまった。
女性の上に重なる、はっきりとした終わり。
今。
ここで。
胸の奥が、ひやりと冷える。
――いつもなら。
そう思ったところで、言葉が止まる。
「いつも」が何なのか、説明できない。
「……隼人?」
花の声がした。
振り返ると、花が少し不安そうにこちらを見ている。
それだけで、足が動いた。
考える前に、身体が前に出る。
「――っ」
女性の腕を掴み、引き寄せる。
次の瞬間、車が横を通り過ぎた。
悲鳴。
ブレーキ音。
周囲のざわめき。
女性は座り込み、何度も頭を下げた。
助かった。
それは確かだった。
けれど――
隼人は、しばらく動けなかった。
胸の奥が、すうっと軽くなる。
何かを落としたような感覚だけが残る。
「……隼人」
花が、そっと声をかける。
「……うん」
それ以上、言葉が出てこなかった。
帰り道、二人はあまり話さなかった。
夕暮れが、思ったより早く訪れる。
しばらくして、花が足を止める。
胸ポケットを探り、紙を取り出した。
「……あれ」
小さな声。
隼人は、それを見た瞬間、胸がざわついた。
理由は分からない。
ただ、見てはいけないものを見たような気がした。
花は紙を見つめ、首をかしげる。
「前より、薄くなった気がする」
問いかけではなかった。
確かめるような、独り言。
隼人は何も言えなかった。
それは花のものだ。
自分の持ち物ではない。
そう分かっているのに、
触れてはいけない、という感覚だけが強く残る。
花は少し考えてから、紙を胸に戻す。
「これ持ってるとね、なんだか落ち着くんだ」
花の顔は切なげで、それでいて暖かく、とても綺麗だった。
隼人は、ゆっくり息を吐いた。
「……うん」
それしか言えなかった。
夕焼けが、二人の影を長く伸ばす。
「ねえ、隼人」
花が、静かに言う。
「もし誰かを助けることで、自分が消えるなら……それでも、やる?」
隼人は、しばらく考えた。
「……どうだろう」
少し困ったように笑ってから、続ける。
「でも、助けられるなら……助けたい、かな」
自分でも驚くほど、自然な言葉だった。
この秋の日。
彼は初めて、
終わらせなかった。
その選択が何を削ったのか、
まだ、分からないまま。




