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死の神と一輪の花 ―― それでも、君を呼ぶ  作者: 己己己己
第三章【それでも、名はここに在る】

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第18話『名を呼ばない距離』


 病院を出てから、まだ半日も経っていなかった。

 それでも花は、何事もなかったかのように駅前の通りを歩いている。


 隼人が歩幅を少し緩めると、花も自然に速度を落とした。

 急ぐでも、遅れるでもない。

 花は、そうやって人に歩調を合わせるのが上手かった。


「外、やっぱりいいね」


 花はそう言って、少し大げさなくらいに伸びをする。

 胸いっぱいに空気を吸い込む仕草は、元気というより――

 元気であろうとしているように見えた。


「……もう少し、ゆっくり歩く?」


 隼人は、前を向いたままそう言った。

 注意でも忠告でもない。ただの提案。


「大丈夫だよ」


 花は即座に答え、にこりと笑う。


「経過観察なだけだし。ほら、ちゃんと歩けてるでしょ」


 確かに、足取りは安定している。

 息も乱れていない。立ち止まる様子もない。


 それなのに、隼人の胸の奥には、説明のつかない違和感が残っていた。


 花はよく笑っていた。

 入院前よりも、ずっと明るく、よく喋る。

 「平気」「大丈夫」という言葉を、必要以上に口にしている。


 ――少し、頑張りすぎている。


 そう思ったが、口には出さなかった。

 それを指摘する資格が、自分にある気がしなかった。


「隼人こそ、顔、固くない?」


「……そうかな」


「せっかく外に出たんだからさ。もうちょっと楽しもうよ」


 花はそう言って、ほんの少しだけ歩調を早めた。

 けれど隼人がついていける範囲を、きちんと分かっている速さだった。


 不思議だ、と隼人は思う。

 守られているのは、いつも自分の方なのかもしれない。


 胸の奥が、じくりと痛んだ。


 重いわけではない。

 何かが減っているような、薄くなっているような感覚。


 距離が近づいたのではなく、静かに遠ざかっている。

 音が消えたのではなく、最初から無かったかのように。


「……花」


 名前を呼んだところで、言葉が途切れた。

 続くはずだった何かが、見つからない。


「なに?」


「いや……」


 隼人は小さく首を振った。


「なんでもない」


「変なの」


 そう言いながら、花はそれ以上追及しなかった。

 代わりに空を見上げて、ぽつりと言う。


「もう夕方だね。今日、早くない?」


 隼人も同じ空を見る。

 確かに、思っていたよりも日が傾いている。


「……そうだね」


 時間の進み方が、少しだけ狂っている。

 そんな気がしてならなかった。


 別れ際。

 花はいつもより大きく手を振った。


「じゃあ、またね」


 その声は明るく、迷いがない。

 けれど隼人は、その「また」という言葉を、素直に受け取れずにいた。


 帰り道。

 隼人はポケットに手を入れる。


 何も入っていないはずなのに、

 指先には、紙の感触だけが残っている気がした。


 書かれていない名前。

 呼ばれないまま、消えていないもの。


「……まだ、だ」


 何が“まだ”なのかは分からない。

 ただ、今はまだ――

 名を呼ぶには、早すぎる。

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