第18話『名を呼ばない距離』
病院を出てから、まだ半日も経っていなかった。
それでも花は、何事もなかったかのように駅前の通りを歩いている。
隼人が歩幅を少し緩めると、花も自然に速度を落とした。
急ぐでも、遅れるでもない。
花は、そうやって人に歩調を合わせるのが上手かった。
「外、やっぱりいいね」
花はそう言って、少し大げさなくらいに伸びをする。
胸いっぱいに空気を吸い込む仕草は、元気というより――
元気であろうとしているように見えた。
「……もう少し、ゆっくり歩く?」
隼人は、前を向いたままそう言った。
注意でも忠告でもない。ただの提案。
「大丈夫だよ」
花は即座に答え、にこりと笑う。
「経過観察なだけだし。ほら、ちゃんと歩けてるでしょ」
確かに、足取りは安定している。
息も乱れていない。立ち止まる様子もない。
それなのに、隼人の胸の奥には、説明のつかない違和感が残っていた。
花はよく笑っていた。
入院前よりも、ずっと明るく、よく喋る。
「平気」「大丈夫」という言葉を、必要以上に口にしている。
――少し、頑張りすぎている。
そう思ったが、口には出さなかった。
それを指摘する資格が、自分にある気がしなかった。
「隼人こそ、顔、固くない?」
「……そうかな」
「せっかく外に出たんだからさ。もうちょっと楽しもうよ」
花はそう言って、ほんの少しだけ歩調を早めた。
けれど隼人がついていける範囲を、きちんと分かっている速さだった。
不思議だ、と隼人は思う。
守られているのは、いつも自分の方なのかもしれない。
胸の奥が、じくりと痛んだ。
重いわけではない。
何かが減っているような、薄くなっているような感覚。
距離が近づいたのではなく、静かに遠ざかっている。
音が消えたのではなく、最初から無かったかのように。
「……花」
名前を呼んだところで、言葉が途切れた。
続くはずだった何かが、見つからない。
「なに?」
「いや……」
隼人は小さく首を振った。
「なんでもない」
「変なの」
そう言いながら、花はそれ以上追及しなかった。
代わりに空を見上げて、ぽつりと言う。
「もう夕方だね。今日、早くない?」
隼人も同じ空を見る。
確かに、思っていたよりも日が傾いている。
「……そうだね」
時間の進み方が、少しだけ狂っている。
そんな気がしてならなかった。
別れ際。
花はいつもより大きく手を振った。
「じゃあ、またね」
その声は明るく、迷いがない。
けれど隼人は、その「また」という言葉を、素直に受け取れずにいた。
帰り道。
隼人はポケットに手を入れる。
何も入っていないはずなのに、
指先には、紙の感触だけが残っている気がした。
書かれていない名前。
呼ばれないまま、消えていないもの。
「……まだ、だ」
何が“まだ”なのかは分からない。
ただ、今はまだ――
名を呼ぶには、早すぎる。




