第17話 『それでも、名はここに在る』
朝の病室は、静かだった。
花はベッドの上で、胸元に手を当てる。
確かめるように、ゆっくりと。
そこに、紙がある。
小さく折り畳まれたそれは、
いつから持っているのかも分からないのに、
「失くしてはいけないもの」だという感覚だけが、最初からあった。
指先に触れる感触が、落ち着く。
理由は分からない。
分からないのに、
これがないと、何か大事なものまで消えてしまいそうで。
「……大丈夫」
誰に向けた言葉か分からないまま、花は小さく呟いた。
*
廊下に出ると、窓から光が差し込んでいた。
「今日は、空が高いね」
隣を歩く隼人が、そう言った。
花は頷く。
「うん。なんか……遠くまで見える気がする」
そう言いながら、無意識に胸元を押さえてしまう。
隼人の視線が、そこに向いた。
ほんの一瞬。
けれど、その一瞬に、はっきりとした迷いがあった。
「……それ」
「これ?」
花が紙に触れると、隼人はすぐに目を逸らした。
「また、触ってる」
「落ち着くんだ。なんでか分かんないけど」
花は困ったように笑う。
隼人は、何も言わなかった。
言えなかった、という方が近い。
その沈黙は、責めるものではなく、
どこか――祈るような静けさだった。
「大事なものなんだね」
代わりに、そう言う。
「うん。……多分」
“多分”としか言えないのが、少し悔しい。
名前も理由も分からないのに、
大事だと分かってしまうことが。
隼人は空を見上げた。
その横顔は、いつもより少しだけ硬い。
まるで、
在ってはいけないものが、ここに在る
そんな現実を、受け止めているみたいに。
*
夜。
消灯後の病室で、花は紙を広げた。
そこに、何かが書いてある。
それだけは、はっきり分かる。
線がある。
インクの跡がある。
誰かが、意志を持って書いたものだということも。
なのに。
「……?」
花は首を傾げた。
読もうとした瞬間、
視線が、文字の上を滑った。
形は見えている。
けれど、それが何の文字なのかが分からない。
ひらがなでもない。
漢字でもない。
知っているはずの形に、
どうしても結びつかない。
考えようとすると、
頭の奥で、何かが静かに止まる。
拒まれているわけじゃない。
忘れているわけでもない。
ただ――
そこに意味がないみたいに。
「……文字、だよね」
そう呟いてみても、答えは返ってこない。
花は、ふっと息を吐いた。
「そっか……」
読まないんじゃない。
読めないんだ。
最初から。
それでも、不思議と怖くはなかった。
むしろ、胸の奥があたたかい。
誰かが、
「分からなくていい」
そう言っている気がした。
花は、そっと指で線をなぞる。
なぞるたびに、
理由のない安心と、
理由のない寂しさが、同時に押し寄せる。
涙は出なかった。
ただ、心臓の奥が、きゅっと縮む。
「……ありがとう」
誰に向けた言葉かは、やっぱり分からない。
それでも、
確かに誰かがいた、という感覚だけが残る。
呼べなくても。
理解できなくても。
それは、そこに在った。
世界に受け入れられなかったとしても。
名は――
確かに、ここに在った。




