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死の神と一輪の花 ―― それでも、君を呼ぶ  作者: 己己己己
第三章【それでも、名はここに在る】

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第17話 『それでも、名はここに在る』


 朝の病室は、静かだった。


 花はベッドの上で、胸元に手を当てる。

 確かめるように、ゆっくりと。


 そこに、紙がある。


 小さく折り畳まれたそれは、

 いつから持っているのかも分からないのに、

 「失くしてはいけないもの」だという感覚だけが、最初からあった。


 指先に触れる感触が、落ち着く。


 理由は分からない。


 分からないのに、

 これがないと、何か大事なものまで消えてしまいそうで。


「……大丈夫」


 誰に向けた言葉か分からないまま、花は小さく呟いた。



 廊下に出ると、窓から光が差し込んでいた。


「今日は、空が高いね」


 隣を歩く隼人が、そう言った。


 花は頷く。


「うん。なんか……遠くまで見える気がする」


 そう言いながら、無意識に胸元を押さえてしまう。


 隼人の視線が、そこに向いた。


 ほんの一瞬。

 けれど、その一瞬に、はっきりとした迷いがあった。


「……それ」


「これ?」


 花が紙に触れると、隼人はすぐに目を逸らした。


「また、触ってる」


「落ち着くんだ。なんでか分かんないけど」


 花は困ったように笑う。


 隼人は、何も言わなかった。

 言えなかった、という方が近い。


 その沈黙は、責めるものではなく、

 どこか――祈るような静けさだった。


「大事なものなんだね」


 代わりに、そう言う。


「うん。……多分」


 “多分”としか言えないのが、少し悔しい。


 名前も理由も分からないのに、

 大事だと分かってしまうことが。


 隼人は空を見上げた。


 その横顔は、いつもより少しだけ硬い。


 まるで、

 在ってはいけないものが、ここに在る

 そんな現実を、受け止めているみたいに。



 夜。


 消灯後の病室で、花は紙を広げた。


 そこに、何かが書いてある。


 それだけは、はっきり分かる。


 線がある。

 インクの跡がある。

 誰かが、意志を持って書いたものだということも。


 なのに。


「……?」


 花は首を傾げた。


 読もうとした瞬間、

 視線が、文字の上を滑った。


 形は見えている。

 けれど、それが何の文字なのかが分からない。


 ひらがなでもない。

 漢字でもない。


 知っているはずの形に、

 どうしても結びつかない。


 考えようとすると、

 頭の奥で、何かが静かに止まる。


 拒まれているわけじゃない。

 忘れているわけでもない。


 ただ――

 そこに意味がないみたいに。


「……文字、だよね」


 そう呟いてみても、答えは返ってこない。


 花は、ふっと息を吐いた。


「そっか……」


 読まないんじゃない。

 読めないんだ。


 最初から。


 それでも、不思議と怖くはなかった。


 むしろ、胸の奥があたたかい。


 誰かが、

 「分からなくていい」

 そう言っている気がした。


 花は、そっと指で線をなぞる。


 なぞるたびに、

 理由のない安心と、

 理由のない寂しさが、同時に押し寄せる。


 涙は出なかった。


 ただ、心臓の奥が、きゅっと縮む。


「……ありがとう」


 誰に向けた言葉かは、やっぱり分からない。


 それでも、

 確かに誰かがいた、という感覚だけが残る。


 呼べなくても。

 理解できなくても。


 それは、そこに在った。


 世界に受け入れられなかったとしても。


 名は――

 確かに、ここに在った。


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