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死の神と一輪の花 ―― それでも、君を呼ぶ  作者: 己己己己
第二章【それでも、名を呼べずに】

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第16話『体温』

 その日は、朝から身体が重かった。


 花は、夏のせいだと思うことにした。

 窓の外はすでに明るく、蝉の声が絶え間なく響いている。

 少し息が浅いのも、胸の奥がざわつくのも、

 暑さのせいだと、自分に言い聞かせた。


 それでも今日は、会いに行くつもりだった。


 鏡の前に立ち、しばらく迷ってから服を選ぶ。

 いつもより少しだけ、時間をかける。


 派手なことはしない。

 けれど、髪を整えて、

 日焼け止めの匂いが残らないように気をつけて。


 「……変じゃないよね」


 誰に聞かせるでもなく呟いて、

 花は家を出た。



 待ち合わせは、近所の小さな公園だった。


 日曜日の昼下がり。

 人はまばらで、木陰だけがかろうじて涼しさを残している。


 隼人は先に来ていて、

 ベンチのそばで日陰を選ぶように立っていた。


 花の姿を見つけると、

 一瞬、言葉に詰まったように目を瞬かせる。


 「……暑くない?」


 それが、会って最初の言葉だった。


 「大丈夫。夏だもん」


 花はそう言って笑う。

 額には、うっすらと汗が滲んでいた。


 二人は並んでベンチに座る。

 他愛もない話をしながら、

 時間はゆっくりと過ぎていった。


 花は、最後まで普通にしていた。



 けれど、途中で視界が白く滲んだ。


 蝉の声が、急に遠くなる。

 言葉を続けようとしても、喉がひくりと鳴るだけで、声が出ない。


 息を吸おうとすると、

 胸の奥が熱を帯びたまま固まったように動かなかった。


 花は俯き、ベンチの縁を掴む。


 「……花?」


 呼ばれているのは分かる。

 けれど、返事を返す力がなかった。


 次の瞬間、身体から力が抜け、

 前に倒れかけたところを、隼人に支えられる。


 「おい、しっかり――」


 その腕の中で、花は必死に首を振った。


 救急車、という言葉が出る前に、

 震える指で、隼人の服を掴む。


 声は出ない。

 けれど、拒否だけは必死に伝えようとしていた。


 隼人は周囲を見回し、

 それから花の顔を見て、歯を食いしばる。


 「……分かった。呼ばない」


 そう言って、花を抱き上げた。



 花の家は知らない。

 今から頼れる場所も、思い浮かばない。


 隼人は、そのまま自分の部屋へ向かった。


 花を部屋に入れるのは、これが初めてだった。




 冷房をつけ、花を布団に寝かせる。

 水を少しずつ含ませ、額を冷やす。


 外はまだ明るいのに、

 部屋の中は夜のように静かだった。


 花の呼吸は浅く、

 時折、苦しそうに眉を寄せる。


 その様子を見ているうちに、

 隼人の胸が、嫌な音を立て始める。


 動悸。

 目眩。

 ——書かなきゃいけない。


 理由は分からない。

 ただ、そうしなければならないという衝動が、

 内側から押し寄せてくる。


 名前を書けばいい。

 書けば、終わる。


 何が終わるのかは分からない。

 けれど、それをしてはいけないという感覚だけが、

 同時に強く、身体を縛りつけていた。


 隼人は、ペンに伸ばしかけた手を引っ込める。


 書いたら、戻れない。

 そんな気がしてならなかった。


 夜になるまで、

 ただ看病を続けた。



 次に目を覚ましたとき、

 窓の外は白み始めていた。


 隼人は、椅子に座ったまま眠っていたらしい。

 身体を起こすと、布団の方から声がする。


 「……おはよう」


 花が、こちらを見ていた。


 顔色はまだ良くないが、

 呼吸は落ち着いている。


 「ごめんね」


 少し掠れた声だった。


 「もう、大丈夫だよ」


 隼人は、深く息を吐いた。


 花は少し間を置いてから、布団の端をつまむ。

 視線は合わせない。


 「でも……」

 「もう少し、こうしていたいなって」


 一拍置いて、

 照れたように付け足す。


 「今日は……学校、さぼっちゃおうかな」


 隼人は一瞬、言葉を失った。


 「……隣で、寝てほしい」


 冷房の音だけが、部屋に響く。


 「……分かった」



 同じ布団に入る。


 シングルの布団は狭く、

 横になると、自然と距離が決まってしまう。


 互いに意識して、動かない。


 それでも、片側だけが触れていた。

 腕か、肩か、はっきりとは分からない。

 けれど、確かに体温があった。


 しばらくして、

 花の呼吸が、ゆっくりと整っていく。


 眠りきる前の、短い静けさ。



 どれほど経った頃か、

 隼人はふと目を開けた。


 外はまだ明るくなりきっていない。


 隣を見る。


 花は目を閉じたままだった。


 その頬が、濡れている。


 声はない。

 嗚咽もない。


 閉じた瞼の隙間から、

 静かに涙が流れていた。


 触れ合っている片側から、

 花の体温が伝わってくる。


 それでも、

 花は泣いていた。


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