第16話『体温』
その日は、朝から身体が重かった。
花は、夏のせいだと思うことにした。
窓の外はすでに明るく、蝉の声が絶え間なく響いている。
少し息が浅いのも、胸の奥がざわつくのも、
暑さのせいだと、自分に言い聞かせた。
それでも今日は、会いに行くつもりだった。
鏡の前に立ち、しばらく迷ってから服を選ぶ。
いつもより少しだけ、時間をかける。
派手なことはしない。
けれど、髪を整えて、
日焼け止めの匂いが残らないように気をつけて。
「……変じゃないよね」
誰に聞かせるでもなく呟いて、
花は家を出た。
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待ち合わせは、近所の小さな公園だった。
日曜日の昼下がり。
人はまばらで、木陰だけがかろうじて涼しさを残している。
隼人は先に来ていて、
ベンチのそばで日陰を選ぶように立っていた。
花の姿を見つけると、
一瞬、言葉に詰まったように目を瞬かせる。
「……暑くない?」
それが、会って最初の言葉だった。
「大丈夫。夏だもん」
花はそう言って笑う。
額には、うっすらと汗が滲んでいた。
二人は並んでベンチに座る。
他愛もない話をしながら、
時間はゆっくりと過ぎていった。
花は、最後まで普通にしていた。
⸻
けれど、途中で視界が白く滲んだ。
蝉の声が、急に遠くなる。
言葉を続けようとしても、喉がひくりと鳴るだけで、声が出ない。
息を吸おうとすると、
胸の奥が熱を帯びたまま固まったように動かなかった。
花は俯き、ベンチの縁を掴む。
「……花?」
呼ばれているのは分かる。
けれど、返事を返す力がなかった。
次の瞬間、身体から力が抜け、
前に倒れかけたところを、隼人に支えられる。
「おい、しっかり――」
その腕の中で、花は必死に首を振った。
救急車、という言葉が出る前に、
震える指で、隼人の服を掴む。
声は出ない。
けれど、拒否だけは必死に伝えようとしていた。
隼人は周囲を見回し、
それから花の顔を見て、歯を食いしばる。
「……分かった。呼ばない」
そう言って、花を抱き上げた。
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花の家は知らない。
今から頼れる場所も、思い浮かばない。
隼人は、そのまま自分の部屋へ向かった。
花を部屋に入れるのは、これが初めてだった。
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◇
冷房をつけ、花を布団に寝かせる。
水を少しずつ含ませ、額を冷やす。
外はまだ明るいのに、
部屋の中は夜のように静かだった。
花の呼吸は浅く、
時折、苦しそうに眉を寄せる。
その様子を見ているうちに、
隼人の胸が、嫌な音を立て始める。
動悸。
目眩。
——書かなきゃいけない。
理由は分からない。
ただ、そうしなければならないという衝動が、
内側から押し寄せてくる。
名前を書けばいい。
書けば、終わる。
何が終わるのかは分からない。
けれど、それをしてはいけないという感覚だけが、
同時に強く、身体を縛りつけていた。
隼人は、ペンに伸ばしかけた手を引っ込める。
書いたら、戻れない。
そんな気がしてならなかった。
夜になるまで、
ただ看病を続けた。
⸻
次に目を覚ましたとき、
窓の外は白み始めていた。
隼人は、椅子に座ったまま眠っていたらしい。
身体を起こすと、布団の方から声がする。
「……おはよう」
花が、こちらを見ていた。
顔色はまだ良くないが、
呼吸は落ち着いている。
「ごめんね」
少し掠れた声だった。
「もう、大丈夫だよ」
隼人は、深く息を吐いた。
花は少し間を置いてから、布団の端をつまむ。
視線は合わせない。
「でも……」
「もう少し、こうしていたいなって」
一拍置いて、
照れたように付け足す。
「今日は……学校、さぼっちゃおうかな」
隼人は一瞬、言葉を失った。
「……隣で、寝てほしい」
冷房の音だけが、部屋に響く。
「……分かった」
⸻
同じ布団に入る。
シングルの布団は狭く、
横になると、自然と距離が決まってしまう。
互いに意識して、動かない。
それでも、片側だけが触れていた。
腕か、肩か、はっきりとは分からない。
けれど、確かに体温があった。
しばらくして、
花の呼吸が、ゆっくりと整っていく。
眠りきる前の、短い静けさ。
⸻
どれほど経った頃か、
隼人はふと目を開けた。
外はまだ明るくなりきっていない。
隣を見る。
花は目を閉じたままだった。
その頬が、濡れている。
声はない。
嗚咽もない。
閉じた瞼の隙間から、
静かに涙が流れていた。
触れ合っている片側から、
花の体温が伝わってくる。
それでも、
花は泣いていた。




