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死の神と一輪の花 ―― それでも、君を呼ぶ  作者: 己己己己
第二章【それでも、名を呼べずに】

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第15話『書かれない名前』


 朝から強い陽射しが差し込んでいた。

 窓を開けると、熱を含んだ空気がゆっくりと部屋に流れ込んでくる。


 花はカーテンを押さえながら、今日は外に出られそうだ、と思った。

 理由は分からない。ただ、身体が昨日よりも少しだけ軽かった。


 約束の時間より少し早く、花は待ち合わせ場所に着いた。

 アスファルトの照り返しが眩しく、自然と日陰を選ぶ。


「お待たせ」


 背後から声がして振り返ると、隼人がいた。

 いつもと変わらないはずなのに、なぜか今日は、少しだけ遠く感じられる。


「暑いね」


「夏だからね」


 そんな当たり前のやり取りを交わしながら、ふたりは歩き出した。


 目的地は決めていなかった。

 ただ、人の少ない道へ、影の多い方へと足が向く。


 川沿いの遊歩道では、伸びた夏草が風に揺れ、蝉の声が遠くで響いていた。

 水面は陽を受けてきらきらと光り、時間だけが緩やかに流れているように見える。


「ね、隼人」


 花が、不意に口を開く。


「名前ってさ。どうして、そんなに大事なんだと思う?」


 隼人は足を止めた。


「……どうしたの、急に」


「急じゃないよ。前から考えてた」


 花は川から目を離さずに言う。


「名前が分からなくても、その人が誰か分かることって、あるでしょ。

 声とか、話し方とか、ちょっとした癖とか」


 胸の奥が、わずかに軋んだ。

 その理由を、隼人は言葉にしない。


「でもね」


 花は少し間を置いて、続けた。


「それでも、名前を呼ばれなくなるのは……やっぱり、怖い」


 その声は、夏の空気の中で、はっきりと残った。


 隼人の脳裏に、白い紙が浮かぶ。

 何度も触れたはずの紙。

 けれど、そこに何が書かれていたのかは思い出せない。


「……名前は」


 口にした瞬間、喉の奥が詰まった。


「名前は、その人が“ここにいた”って証拠なんだと思う」


 花は、ゆっくりと隼人を見る。


「証拠?」


「呼ばれることで、思い出される。

 書かれることで、消えずに残る」


 なぜそんなことを知っているのか、自分でも分からない。

 ただ、昔から知っていたような感覚だけがあった。


 花は、少し困ったように笑った。


「じゃあさ、隼人は自分の名前、好き?」


 不意を突かれた質問だった。


「……嫌いじゃない、かな」


 本当は、はっきりしない。

 その名前が、どこまで自分のものなのか分からなかった。


「そっか」


 花は、どこか安心したように頷く。


「だったら、忘れないでね」


「何を?」


 花は、ほんの一瞬だけ言葉を探すようにしてから、静かに言った。


「……私の名前」


 隼人は、返事ができなかった。

 笑おうとして、上手くいかなかった。


 その夜。


 昼間の熱がまだ部屋に残り、窓の外から虫の声が聞こえる。

 隼人は一人、机に向かっていた。


 白い紙。

 黒いペン。


 いつもなら、迷わず手が動くはずだった。


「……誰の名前だ」


 小さく呟いても、答えは返らない。


 ペン先が紙に触れ、黒い点がひとつ落ちる。

 そこから先へ、どうしても進めなかった。


 名前を書けば、何かが終わる。

 名前を書かなければ、何かが始まらない。


 そんな感覚だけが、胸を締めつける。


 隼人は、ペンを置いた。


 そして、はっきりと理解してしまう。


 ――自分は、名前を書くことを、恐れている。


 夏の夜風がカーテンを揺らした。

 それはまるで、まだ終わらせてはいけない時間を、静かに引き留めているようだった。

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