第14話『境界の先』
病院を出たあと、ふたりは少し遠回りして帰ることにした。
「ね、今日の空、きれいじゃない?」
花が楽しそうに空を見上げる。
「うん。澄んで見えるね」
「でしょ。こういう日は、まっすぐ帰るのもったいないよ」
歩道橋の上で、花は足を止めた。
夕方の光が、正面から差し込んでくる。
やわらかくて、あたたかくて、街の輪郭を少しずつ溶かしていく色。
その光の中に立つ花を見た瞬間、隼人は思わず息を止めた。
――綺麗だ。
理由は分からない。
特別なことは何もない。
ただそこに立っているだけなのに、夕日の色が彼女の輪郭を淡く曖昧にして、現実から少し浮いて見えた。
声をかけなければ、
このまま光の中に溶けてしまいそうな気がして、胸の奥がざわつく。
「……なに、そんなに見て」
花が振り返る。
「あ、いや」
少し困ったように笑って、視線を逸らす。
「夕日が、よく似合ってるなって思って」
「なにそれ」
花はくすっと笑った。
「急にどうしたの。褒めても何も出ないよ?」
「本当だよ、凄く……綺麗」
言い切った瞬間、隼人は自分で驚いた。
少し間が空く。
「……ん?」
花がきょとんとした顔で見返してくる。
次の瞬間、ゆっくりと頬が赤くなった。
「……なに、それ」
照れたように視線を逸らし、誤魔化すみたいに髪を耳にかける。
「急に真面目な顔で言うの、反則なんだけど」
「……ごめん」
そう言いながら、隼人自身も視線を外す。
耳のあたりが、少し熱い。
「別に、困らせるつもりじゃ……」
「分かってる」
花は小さく笑った。
「でも、びっくりするでしょ」
短い沈黙が落ちる。
夕方の光が、少しずつ角度を変えていく。
さっきまで花を包んでいた色が、ゆっくりと薄れていく。
それだけのことなのに、
この時間が、どこか終わりに向かっている気がした。
「ここ、好きだな」
花は欄干にもたれて、下を覗き込む。
「なんか落ち着くし、見てて飽きない」
「うん……分かる気がする」
赤いテールランプが、一定の間隔で流れていく。
「みんな帰ってるんだなあって思うとさ」
花はいつもの調子で言った。
「ちゃんと日常があるんだなって感じる」
「花も……そうじゃない?」
「うん。……今はね」
花はそう答えて、少しだけ笑った。
けれど、その笑顔がほんの一瞬、揺らいだ気がした。
夕方の光のせいかもしれない。
きっとそうだ、自分に言い聞かせて視線を外す。
沈黙が落ちる。
風の音と、遠くの車の音だけが残る。
このまま何も言わずに歩き出したほうがいい。
そんな気がした。
でも、胸の奥に引っかかったもののせいで一歩が出なかった。
一度、息を吸ってから、ゆっくり口を開く。
「……さ」
言いかけて、少し間を置く。
「……終わりのこと、考えたりする?」
花はすぐには答えなかった。
欄干に置いた手に、ほんの少しだけ力が入る。
それに気づかれないように、花はいつもの調子で笑った。
「急だね」
明るい声。
けれど、どこか無理をしている。
「ごめん」
隼人はすぐに言った。
「ううん」
花は首を振る。
「大丈夫」
少しだけ間を置いてから、続けた。
「考えるよ。そりゃ」
「……そっか」
「でもさ」
明るい声のまま続ける。
「終わりがあるのって、そこまで悪くないと思うんだ」
いつもの調子なのに、言葉だけが真っ直ぐだった。
「終わりがあるから大事にできるし、
終わりがあるから頑張れるでしょ?」
隼人は、すぐに答えられなかった。
「……怖くない?」
「怖いよ」
即答だった。
「今はね」
花は笑って付け足す。
「だから今をちゃんと楽しまないとでしょ」
その明るさが、逆に胸を締めつける。
夕方の光の中で、花の横顔がひどく静かに見えた。
「選ぶとか、選ばれるとかさ」
花が、ふと思い出したみたいに言う。
「そういう立場になったら、どうする?」
「……分からないかな」
少し考えてから、正直に答えた。
「考えたこと、なかった」
「そっか」
花はそれ以上踏み込まず、歩き出す。
「じゃ、帰ろっか」
その背中を見ながら、隼人は思う。
今の会話は、
ただの雑談だったはずなのに。
歩道橋を降りたとき、胸の奥に小さな確信が生まれた。
――この時間は、長くは続かない。
理由は分からない。
ただ、夕方の光が完全に消える前に、
何かが静かに終わりへ向かっている気がした。




