第13話『選ばれる側』
その日は、朝から胸の奥がざわついていた。
理由は分からない。
けれど、何かを“見過ごしてはいけない日”だという感覚だけが、
ずっと消えなかった。
駅前の通りを歩きながら、
隼人は、何度も立ち止まりそうになった。
それでも、足は、ある方向へ向かっている。
——行かなければならない。
そんな気がしてならなかった。
*
川沿いの道に出た時、
ベンチに腰掛けた男の背中が、目に入った。
少し丸まった肩。
季節に合わないほど、薄い上着。
隼人は、なぜか、その横顔を通り過ぎることが出来なかった。
「……あの」
自分でも驚くほど、自然に声が出た。
「こんにちは。少し……歩きませんか」
男は、少し目を丸くしたあと、
困ったように笑った。
「俺と、か」
「はい」
理由は、説明できなかった。
けれど、言葉にした瞬間、
それが“正しい”と、分かってしまった。
*
二人は、並んで歩き始めた。
川の音が、一定のリズムで続いている。
「……いい天気だな」
男が言う。
「そうですね」
それだけの会話。
それなのに、
胸の奥が、ひどく苦しい。
*
しばらくして、男が口を開いた。
「君……名前は」
その声に、隼人の肩が、わずかに震えた。
「……」
男は、少し黙ってから、
「いや……」
と言いかけて、
続きを飲み込んだ。
そして、まるで、何かを諦めるように、
小さく息を吐く。
「……俺の名前は――」
そこまで言って、
男は、口を閉じた。
隼人は、その横顔を見て、
なぜか、急に、息が詰まった。
喉の奥が、熱くなる。
男の唇が、もう一度、動く。
「――」
言葉にならない音。
その瞬間、
隼人の視界が、滲んだ。
「……隼人、です」
声が、重なった。
男の言葉を、かき消すように。
気づいた時には、
頬を、涙が伝っていた。
男は、息を呑んだ。
それから、ゆっくりと、目を閉じる。
「ああ……君は……」
小さく、笑うように。
「そうか」
そして、深く、頭を下げた。
「……ありがとう」
その声は、ひどく、穏やかだった。
*
しばらく、沈黙が落ちる。
やがて、男は、遠慮がちに口を開いた。
「もし……よければ」
隼人は、顔を上げる。
「最後に、したいことが、ある」
その言い方は、
あまりにも、謙虚だった。
「……墓参りに、行きたい」
それから、少し間を置いて。
「帰りに……あんぱんを、ひとつ」
それだけだった。
隼人は、迷わず、頷いた。
「……はい」
*
墓地は、静かだった。
男は、長い時間、
一つの墓石の前に立っていた。
その背中は、
ひどく、小さく見えた。
帰り道、
二人で分けた、あんぱんは、
不思議なほど、甘かった。
*
男の家は、古いアパートの一室だった。
「……ここで」
男は、静かに言った。
部屋の奥に敷かれた、
よく手入れされた布団。
「……長い間、妻と、一緒に眠っていた」
それだけで、十分だった。
「……ここで、お願いします」
その言葉に、
隼人の胸が、強く締めつけられる。
涙が、止まらなかった。
*
——君が、背負う必要はない。
ふいに、男の声が、重なった。
それは、
懇願のようで、
赦しのようでもあった。
隼人は、答えなかった。
ただ、泣きながら、
そっと、男の手を握った。




