第12話『白い気配』
「……ねえ、ほんとに付き合ってくれていいの?」
病院へ向かう途中、花が言った。
少しだけ早足なのは、気持ちのせいだけじゃない。
「ちょっと顔見るだけだから」
「……うん」
隼人はそれだけ答えて、歩調を合わせた。
「ありがと」
花は、軽く笑った。
その横顔を見ながら、隼人は、なぜか胸の奥が、ひどく静かになるのを感じていた。
◇
病院の建物が見えたとき、隼人は、ほんのわずか、足を緩めた。
理由は分からない。
ただ、ここに近づくほど、世界の音が、薄くなる。
自動ドアが開く。
消毒液の匂い。
白い空気。
「うわ、やっぱ寒い」
「……上着、ある?」
「あるある。心配性だね」
隼人は、それ以上、何も言わなかった。
◇
病室は、明るかった。
「ほら、元気そうでしょ」
花が笑う。
「足の骨折だって。全然、命に別状なし」
ベッドの上の女性は、少し照れたように手を振った。
「ごめんね、心配かけて」
「ほんとだよ。びっくりしたんだから」
隼人は、短くうなずく。
「……よかった」
それだけで、十分だった。
◇
数分の雑談。
軽い冗談。
笑い声。
そのすべてが、ひどく遠くに感じられた。
「じゃ、帰ろっか」
病室を出たとき、花が言った。
白い廊下。
同じ色の床と壁。
「……あ」
隼人は、足を止めた。
「先、ロビーで待ってて」
「え?」
「少しだけ、用事ある」
花は、すぐには返事をしなかった。
隼人の顔を見る。
ほんの、数秒。
「……うん。
私は……ロビーで、待ってるね」
その声は、さっきより、少しだけ、静かだった。
「すぐ、戻る?」
「……たぶん」
「そっか」
花は、軽く笑った。
◇
背中を向けた瞬間、胸の奥が、ずしりと重くなる。
歩いているうちに、足が、勝手に別の方へ向かう。
曲がるつもりのない角を曲がり、
乗るはずのないエレベーターに乗る。
階数を見て、ここがどこなのか、分からなくなった。
(……おかしい)
それでも、止まれなかった。
◇
開いた扉の先は、ひどく静かなフロアだった。
機械の音だけが、遠くで鳴っている。
その一室。
扉の前に立った瞬間、
ここだと、分かった。
◇
病室。
痩せた女性。
浅い呼吸。
ベッドの脇に立った瞬間、
胸の奥が、きつく締めつけられる。
隼人は、ポケットの中のペンの感触を、確かめた。
なぜ、これを持っているのか。
いつから、持っているのか。
分からない。
ただ、これが“必要なもの”だということだけは、疑えなかった。
白い紙を、机の上に置く。
ペン先を乗せた瞬間、指が、わずかに震える。
一画、一画、引くたびに、部屋の音が、遠のく。
機械の電子音が、水の底に沈むように、鈍くなる。
——お願いだから。
声にならない願いが、胸を満たす。
最後の一文字を書き終えた、そのとき。
女性のまぶたが、わずかに動いた。
ゆっくりと、目が開く。
その瞳は、ひどく澄んでいて、苦しみの色が、どこにもなかった。
そして、ほんの少し、微笑む。
「……ありがとう……」
その言葉は、感謝と言うよりも、祈りに近かった。
かすかな声が、空気に溶けた
次の瞬間、呼吸が、とても静かに、ほどけた。
その顔は、長い旅を終えた人のように、安らかだった。
◇
胸の奥が、焼けるように痛んだ。
息が、苦しい。
視界が、にじむ。
理由が、分からない。
けれど、涙が、止まらない。
「……ごめんなさい……」
誰に向けた言葉なのかも分からないまま、
隼人は、ただ、肩を震わせた。
◇
——書け。
そんな衝動が、胸の底から、湧き上がる。
何を。誰を。
分からない。
ただ、ペンを持つ手が、震える。
だが、隼人は、それに従わなかった。
◇
ロビーに戻ると、花が、ベンチから立ち上がった。
「遅い」
「……ごめん」
「いいよ!」
そう言ってから、花は、自分のつま先を見つめた。
「……先輩、元気そうでよかった」
その言葉が、胸に刺さる。
◇
外に出ると、夕方の風が、少しだけ暖かかった。
「ねえ」
花が言う。
「ここ、ちょっと苦手」
「……そうか」
「静かすぎるんだよね。
人いるのに、いないみたいでさ」
隼人は、答えなかった。
◇
夜。
机の前で、白い紙を見る。
なぜか、そこに“自分の名前”を書きそうになる。
——どうして?
理由は、分からない。
けれど、それをすると、何かが、消えてしまう気がした。
だから、書かなかった。




