第11話『名を刻む者』
放課後の空は、やけに低かった。
雲が垂れ下がっているわけでも、雨が降りそうなわけでもないのに、
なぜか胸の奥が重い。
そんな日は、決まって、ろくなことが起きない。
校門を出たところで、隼人は足を止めた。
そこに、花乃が立っていた。
「……あれ?」
いつもなら、この時間、彼女はもう帰っているはずだ。
「隼人」
名前を呼ばれて、背中がわずかに強張る。
「どうしたの?」
「……今日は、一緒に帰ろう」
花乃は、そう言って、ほんの少しだけ視線を伏せた。
「一緒に?」
「うん。
なんとなく」
理由は言わなかった。
けれど、隼人はなぜか、断れなかった。
二人で並んで歩き出す。
春はもう終わりかけている。
風の匂いが、少しだけ変わっていた。
その時だった。
横断歩道の向こうで、
一人の老人が、ふらりとよろけた。
白い杖が、アスファルトに落ちる。
「……っ」
老人は喉を押さえ、膝から崩れ落ちた。
荒い呼吸。
胸が、大きく、異様なほど上下している。
「が……は……っ」
息を吸うたびに、乾いた音が混じる。
まるで、空気がうまく肺に入らないような――。
顔色が、みるみる青白くなっていく。
「大丈夫ですか!?」
誰かの声。
だが、老人は答えない。
ただ、苦しそうに喉を鳴らしながら、もがいている。
隼人の胸の奥が、ひどく冷えた。
このままでは。
この人は、きっと、長い時間、苦しみ続ける。
そして、やっと――
その“先”が、なぜか、はっきりと見えた。
頭の中に、紙とペンの感触が浮かぶ。
――書かなければ。
強い衝動が、胸を突き上げる。
「……隼人?」
花乃の声が、遠い。
震える指で、いつの間にか手にしていた紙に、文字を書く。
見知らぬはずの、
けれど、なぜか“正しい”と分かる名前。
その瞬間、老人の荒い呼吸が、ふっと、途切れた。
胸が、静かに上下し、
そして、それきり動かなくなった。
歪んでいた顔から、苦悶の色がすっと消える。
まるで、深い眠りに落ちたような、穏やかな表情だった。
周囲のざわめきが、遠ざかる。
世界の音が、薄くなる。
なぜか、涙が溢れた。
理由は分からない。
ただ、胸が裂けるように痛い。
「……ごめん」
隼人は、震える手で、その紙を何度も折り畳んだ。
ぐしゃぐしゃになるほど、強く。
そして、
涙で滲む視界の中、
その上から、さらにペンを走らせた。
野咲 隼人。
自分の名前。
何度も、
何度も。
花乃が、息を呑んだ。
「……隼人?」
けれど、隼人は答えられなかった。
夕焼けの中、
足が思うように動かない。
――何かを、失った。
確かな感覚だけが、胸に残る。
けれど、それが何かは、もう分からなかった。
夜。
アパートの部屋で、隼人は机に突っ伏していた。
頭が痛い。
涙が、止まらない。
机の上に、
くしゃくしゃに折り畳まれた紙が一枚、置かれている。
畳まれた紙には、自分の名前が書いてあった。
それを開くと、
そこには、かすれた文字で、
知らない誰かの名前が書かれていた。
――この名前を、書いたのは、僕だ。
そう思うのに、
どうして書いたのかは、思い出せない。
その夜、隼人は、理由もなく泣き続けた。
そして翌朝。
昨日の出来事の輪郭は、もう曖昧だった。
ただ、胸の奥の痛みだけが、消えていなかった。
まるで、
世界が、ほんの少しだけ、欠けてしまったかのように。




