第10話『残ったもの』
いつもと同じ朝だった。
目覚ましが鳴り、止めて、起き上がる。
制服に袖を通し、顔を洗い、歯を磨き、家を出る。
朝ごはんはいつも食べない
朝は決まって少しだけ心が落ち込んでいるような感じがして、食欲がない。
特別な夢を見た気もしない。
何かを思い出せない感じもしない。
昨日のことを思い返そう、
そんな発想自体が浮かばなかった。
なのに。
胸の奥だけが、妙に重かった。
理由は分からない。
痛いわけでも、苦しいわけでもない。
ただ、何かが引っかかっているような感覚。
それが何なのかを考えようとして――
気づけば、もう学校に着いていた。
家を出た時に蹴り出した小石を校門の隅へ追いやる
今日も、何事もなくいつもが終わる。
授業を受け、昼を過ごし、誰とも話さずに帰り道へ向かう。
いつもと同じ帰り道。
いつもと同じ空気。
いつもと同じ、独りぼっち。
「隼人」
呼ばれて、足を止める。
声の方を向くと、そこに花がいた。
いつもの場所。
あの一輪の花のそば。
「昨日、来なかったね」
それだけだった。
責めるようでもなく、
不思議がるようでもなく、
ただ、事実を口にしただけの声。
「……あ、そうだっけ」
そう答えた自分の声が、やけに他人事に聞こえた。
昨日。
何をしていたか。
ここに来なかった理由。
考えようとして――
何も浮かばなかった。
「ごめん」
とりあえず、そう言った。
謝る理由も、よく分からないまま。
花は、少しだけ目を細めた。
何かを確かめるような、あからさまに困ったような表情。
「ううん。いいの」
すぐに、いつもの柔らかい笑顔に戻る。
「……今日は来てくれたから」
その言葉に、胸の奥が微かに疼いた。
どうしてかは分からない。
ただ、申し訳なさと、安心が、同時に押し寄せてきた。
「なんか……大丈夫?」
花が、そう聞いた。
どうして、そんなことを言われたのか分からなかった。
自分では、いつも通りのつもりだったから。
「え? 別に……」
そう答えながら、
無意識に、ポケットに手を入れていた。
何かが、入っている。
紙のような感触。
折り畳まれた、薄いもの。
取り出そうとは思わなかった。
中を確かめようとも。
ただ、それがそこにあることが、
なぜか当たり前で、
失くしたくないもののように感じられた。
「そっか」
花は、それ以上何も聞かなかった。
でも、視線が一瞬だけ、
僕のポケットに向いた気がした。
気のせいかもしれない。
春のピンク色の風が吹く。
一輪の花が、小さく揺れる。
その光景を見ていると、
胸の奥の重さが、少しだけ和らいだ。
「じゃあ、また」
別れ際、花はそう言った。
その言い方が、
“また来る”と最初から、決めているみたいだった。
花と別れ、
一人で歩き出す。
ふと、路地の奥に目が向いた。
昨日――なのかどうかも分からない。
行かなければならない気がした場所。
足が、ほんの一瞬だけ止まる。
でも、理由が分からなかった。
分からないものに、
向かうほどの勇気は、僕にはなくて。
そのまま、歩き続けた。
夜風が、少し冷たい。
ポケットの中で、
折り畳まれた紙が、静かに触れている。
それが何なのかを、
知りたいとは思わなかった。
けれど。
これで終わりだとは、
何故か、思えなかった。
そんな確信だけが、胸に残っていた。




