6
――世界を渡る苦しさは、言葉にしようがないものだった。
数秒にも、数時間にも感じられるような時間の中で、何も考えられないような程の痛みが駆け抜けて。
聴覚を圧迫し、視覚を塗りつぶし、触覚を麻痺させ、痛覚が崩壊し。
そして、それは唐突に終わった。
「――っ、あ、がっ……げほ、」
身体の中を掻き混ぜられるような不快感に、思わず口元を押さえる。
背筋を伝う冷や汗を感じながら、悲鳴を口から零すと、どこからか大声が聞こえてきた。
何かを問う声が耳をすり抜けていく。
ぼやけた視界がぐらりと歪んで、それでも自分が倒れ伏している床に焦点を合わせる。
見た事のない素材、嗅いだ事のない程の埃臭さ。
「ここ、は」
力が上手く入らないながらもどうにか上体だけ起こすと、そこはどこかの荘厳な――宮殿のような場所だった。
自分の家以外の建物を見るのは初めてだけれど、本に載っていた挿絵にこんなような場所はあった。
けれど、それが今、目の前に広がっている理由が分からない。
訳も分からず周囲を見回すと、僕に剣を向ける男達が複数人居た。
「貴様!一体何処から現れた!」
「………ああ、そっか。ここは」
大声で問われたその言葉は、幸いにして意味が通じる。
異世界に跳んだのなら、最悪言葉が通じるかどうか怪しかったのだけれど、どうにか言語調整についても過不足なく魔術が働いたようだ。
……そう、僕は世界を渡ったんだ。
どういう流れで渡ったんだ。僕はどんな場所に渡ったんだ。ここでなら魔術師が受け入れられるんだろうか。
どこかまだぼんやりとしたまま、ふと自分の身体を見下ろし――一気に現実に引き戻された。
「帰らなくちゃ」
この世界に渡った経緯が、脳裏に一気に蘇る。
血塗れのメイリー、追い詰められた家の中、発動しないはずの魔術人、そして、捧げられたのは。
……あの次元に戻り、あの時間軸に戻り、メイリーを救わなくちゃ。
服を染め抜いた赤黒い液体が、彼女の身体から流された血の量を物語ってる。
急いで止血をして、治癒魔術をかけて、どこか安全な場所に連れ出さなくちゃ。
「治して、一緒に逃げて、」
でも――命を、代償に捧げたのに?
身体の損傷は癒せても、命を取り戻す魔術なんてありはしないのに。
頭を鈍器で叩きつけるような痛みが、不可能を可能にする魔術なんて存在しないのだと囁いているようで。
ひくり、と震える身体に、男達の怒声が次々と降り注ぐ。
「答えよ!」
こんなにも誰かに怒鳴られたのは初めてで、いつもの僕ならただそれだけで萎縮していたはずだ。
でも、今は。
「………うるさい」
口の中で唱えた呪文が魔力に乗り、轟、と炎柱を巻き起こす。
熱波に驚いたように後ずさる彼等に指を差し向けると、炎柱は兵士達の間をぬって前方に進んでいく。
邪魔をしないで。
メイリーを助けに行かせて。
「どいてください」
炎の進んだ場所だけ、人々が避けて道が出来上がった。
重い身体をどうにか一歩一歩進めようとすると、動き出した僕に向かって走り寄って来る兵士が居た。
水球を掌の中に創り上げ、兵士に向けて振り上げる。
男の顔に纏わりついた水が頭部全体を覆うと、息が出来なくなった男は剣を落としてもがき苦しみ始めた――意識が落ちれば解放しよう。
暴れる男の横をゆっくりと移動すると、残っていた兵士達が増援を呼べ、と騒ぎ始めていた。
ずきり、と胸の奥を刺すような痛みがして、僕の身体がふらり、と傾いた。
世界を渡る魔術を使った上で、魔術を使用しているからだろう、身体の中に残っている魔力が足りてない。
このままじゃ捕まるのも限界だ。
そうなる前に早く移動しなくちゃ――でもその前に。
周囲に目当ての物が落ちていないかを見回し、それを見つけて拾い上げる。
世界を渡る時の負荷に耐えきれなかったのか、表紙を開いた瞬間に崩れ落ちて行った。
魔導書に書かれている内容は膨大で、その文字一つ一つが欠かせない要素ばかりなのに。
……書き直さなくちゃ。
どれだけ時間がかかろうが関係ない。
覚えている限りのことを書き直して、足りないところを付け加えて、そして元の状態まで戻すんだ。
「貴方達に危害を加えたい訳じゃないんです。だから、道を開けてください」
魔導書の残骸を放り投げ、もう一度魔術を練り上げる。
ゆらり、と立ち上がった僕の背後で炎柱が蠢くのを見て、僕を囲もうとしていた兵士達が眼に怯えの色を浮かべて後ずさる。
今はとにかく増援を呼ばれてしまう前に、此処から逃げ出さなくちゃ――けれど、僕のそんな要求が通るよりも早く、男の低い声がその場に響き渡った。
「こっちはクソ忙しいっつっただろうが。不審者なら騒いでないでさっさと首落としとけよ。使えねえなあ」
慌てて目線を声のした方向に向けると、炎で作り上げた道の先から男が数人を従えて歩いてきていて。
金属の擦れる音と、折れる事の無さそうな自信に溢れた声。
豪奢な装飾は血に汚れて、錆びているようにすら見える。
けれど、男の目はどこまでも鋭かった。
「城の中で火を使うのは止めろって。ただでさえ老朽化進んでんだぞ」
自分の足元と、そして、その黒く煤けた道を一瞥すると、男は大きなため息を吐きながらそんな事を言った。
なあ、と、此方に向けられた色鮮やかな瞳が、僕の姿を捉えて細められる。
その瞳に浮かぶ敵意にはっとして指先を男に向けると、威嚇の意味も込めて指先に炎を灯す。
「どいて、ください」
戻らなくちゃ。
メイリーが倒れている場所に戻らなくちゃ。
魔術書は炭になってしまったけれど、大体のところは覚えてる。
足りない知識は書き加えて、急げば。
そう、急げばきっと。
――命を代償として捧げているのだから、助からないのに?
自問自答で揺れる感情が、炎球の大きさを想定以上の大きさに成長させてしまっていた。
「陛下、お下がりください!この者は妙な技を使います!」
男の警戒の声に思わず発してしまった炎球が、狙いを誤って男から少しだけ離れた場所に落ちて燃え上がる。
轟、と燃え上がる炎柱は僕の制御下にいられないのか、想定以上に揺れる。
威圧感のある男は面白い物でも見たと言わんばかりに、その炎と僕の事を見比べる。
「……へえ、確かに。こりゃ面白い」
「お下がりください!ここは我等が……っ」
なんで。
どうして、こんなに。
大気に魔力が伝達され過ぎてる。
――僕の居た世界よりも、遥かに魔術に適してる。
僕の動揺に同調して更に揺れ始めた魔力で燃え上がる炎が、数人の身体に触れそうになる。
慌ててどうにか火勢を弱めると、距離を取って退いた男達に睨まれていた。
その後ろから、弓を番える者達の姿も見える。
まずい。
早く移動しなくては多勢に無勢だ。
それに、いつまで僕の魔力が持つか分からない。
そんな風に一瞬気を取られたのがいけなかったのだろうか。
いや、それでも僕には男の動きを目で捉えきる事は出来なかったのだろうと思う。
だって、僕は気が付いた時には尻餅をついた衝撃と、肩口に鈍い痛みを感じていたのだから。
「狼狽えるな。妙な術を使う直前、こいつは必ず唇を動かしてる。つまり、だ」
こうしちまえば妙な術を使われる前に無効化出来ちまう。
僕の肩を蹴りながら剣先を喉に向けて、男は何でもない事であるかのようにそう言った。
……信じられない。
彼等の反応を見るに、魔術を実際に見たのは初めてだったんだろう。
それなのに何処に隙があるのかを見破り、すぐさま無効化させてしまうなんて。
「お前、首を斬り落とされたくなければ俺に忠誠を誓え」
「……、え?」
にい、と笑う男の顔は、いつか図鑑に描かれていた猛獣の顔のようだった。
首筋に突き付けられた剣先は、ひやりとしている。
この距離じゃどんなに簡単な魔術だろうと、呪文を詠唱しきる前に確実に殺される。
「陛下……犬猫のように軽々しく拾われては困ります!」
「咬んだら躾けりゃ良いだけだ」
ぎょっとしたようにいけません、と大きな声をあげる兵士達の言葉から、この男が僕を【拾う】つもりなのだと分かった。
一体、何のために?
窺うように男の後ろを見遣ると、そこに居た者達は、男の言葉に納得したのか剣を納める者と、何とも言えないような顔をしたまま剣を構えたままな者達に分かれていた。
けれどその誰もが何の為になんて問う事はなかった。
「こいつが妙な真似をする前に首を切り離す事も出来ないって言いたいのか?」
男達の抗議に鋭い目を一瞬だけ向けると、それだけで場は静まり返った。
誰も反論しない。
魔術を扱う僕よりも確実にこの男が強いのだと、この場に居る誰もが信じているのだ。
背を伝う冷や汗が、思わず動いた喉が、目の前の男に対する恐怖心を煽る。
この男に逆らえば、僕は、その瞬間。
けれど。
恐怖で震える身体に、脈打つ胸が、赤く濡れた衣服が、此処で死ぬわけにはいかないと主張する。
……そうだ。
まずは情報を手に入れて、安全な環境を手に入れて、魔導書を書き直さなくちゃなんだ。
死ぬ事だけは避けなくちゃいけないのだから、むしろこの男の言葉は有り難いものだ。
問答が途切れた隙をついて、僕を品定めするように見下ろす男を睨んで、どうにか震えそうになる声を発した。
「……この国、とは。此処は一体どこですか」
「エスメラルダ王国」
けれど、僕の身体をより強く踏みつける男から発された言葉に虚勢は剥がれ落ち、身体が固まった。
「―――え?」
ここは異世界のはずだ。
けれど、男が口にした国名は自分の記憶の中にはっきりと残っている。
そんなはずはない。
だって、エスメラルダという国はあった。
水の聖域の完成と共に自然崩壊した国だ。
もっと正確に言うならば、実質的に聖域が乗っ取った国――そして、聖域が狭まった後はその名残さえも隣国に併合された。
「い、まは、王国歴、何年……ですか」
身体から血の気が引いていくのを感じながら、どうにか言葉を紡ぐ。
まさか。
この世界は。
「エスメラルダ王国歴32年……このお方は、第三代エスメラルダ国王陛下」
訝しげに答えてくれた男は、この方こそが、と目を伏せて。
けれど、国王と呼ばれたた男は目を爛々と輝かせながら、自らの名を力強く音に乗せる。
「俺の名は、アリオラ・エメルダ」
その名は、かつて何度も何度も書物に登場した。
そう。
この王の名を持つ者が生きた時代は――僕が産まれた時代より、三百五十年を遡る。
御伽噺に謳われる英雄王の時代。
玉座を追われかけた王が自らの覇権を取り戻し、世界にその国の名を轟かせる事になる華やかな時代。
―――そして、初めて魔術師が歴史に登場する時代。
「あ、ああ、あ、」
口から零れ落ちた声は、何の意味もなさない。
頭を掻きまわす指先が痛い程に爪を立てているのに、手を止められない。
分かってしまった。
理解、してしまった。
歴史に急に現れた魔術師という存在。
魔術発展の歴史を考える上であってはならないはずの魔術書。
そして。
メイリーが願った、【魔術師が受け入れられる世界】
間違いなく、ここは彼女が願ったとおりの場所だ。
だって、ここは。
この時代は。
「陛下。場所も暦も、……ましてや今や賞金首の貴方様の顔すら知らぬと言うのは、あまりに怪し過ぎます」
「怪しいな。だが、俺達には戦況を一気にひっくり返すだけの力が必要だ」
怪しむ男の声と、王の声が耳に届く。
歴史上で魔術師が地平線を埋め尽くす程に人を屠った戦いは、二度だけだ。
一度は炎獄の魔女の手によって起きた、魔術師が迫害される原因の一つとなった戦い。
それよりも以前に起きた戦いは――英雄の行いとして讃えられる余りに惨い戦い。
「その妙な力、俺の為に振るえ。出来ないと言うのなら、今ここで死ね」
王が口に出す言葉は最後の選択肢だ。
全てを断ち切るのなら、全てを変えるのなら、此処しかない。
それだけは理解できる。
けれど、この言葉を僕が今聞いている――その事実が意味するのは。
そういう、事か。
「は、っは、はは……最初から、こんな……こんな終わり方しかっ……」
英雄王の隣に現れたのが、魔術師の祖先だと言われている。
その以前の歴史には魔術なんて言葉は一言たりとも出てこない。
幼い頃から適切な教育を受けなければ発現する事のない能力だ。
始まりの存在がなければ脈々と受け継がれるはずの無い力なのに、この時代にいきなりその存在は現れる。
「僕が、始まり?」
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
世界を渡るのではなく、魔術師を必要とする時代に渡った。
最期の存在が、最初の存在へと巻き戻る。
なら、僕は。
此処に居る僕は、一体何度この世界を。
一体何度魔術師の歴史を繰り返し、……一体何度メイリーを死なせた?
「さあ、選べ」
拒絶の言葉が口元に浮かび、そして空気を震わせる事なくただ吐き出した息と共に霧散する。
――英雄王の隣には、魔術師が居続けたという。
今ここで僕が死ねば、王は内乱を制する事が出来ず、エスメラルダ王国は滅びる。
最後の魔術師たる僕がここで死ねば、歴史に魔術師が現れる事もない。
水の聖域も、魔術師の迫害も、何もかもが無い未来。
でもそれは。
メイリーが産まれない未来なんだ。
どんな未来が待っているかなんて、もう僕は知っている。
どんな結末が待っているかなんて、嫌になる程味わった。
沢山の人が泣いて、泣いて、苦しみ、絶望する未来だ。
そんな選択をするなんて間違ってる。
そんな未来を選ぶなんて狂ってる。
それでも僕は――きっと、ずっとずっと【前】から狂ってる。
「……わかりました」
了承の言葉を口に乗せた瞬間、僕はどんな顔をしていたのだろうか。
頬を伝う雫は冷たく、腹の奥底から絞り出す声は地を這うように低い。
感情に引き摺られて溢れだす魔力が、言葉に纏わりつく――ああ、これじゃあ呪文だ。
「何をしてでも、もう一度会いたい人が、居るんです」
ずっと、ずっと先の未来に。
たとえそれが彼女を失う未来だとしても。
彼女が涙する未来だとしても。
それでも、会いたい。
それでも、もう一度彼女に命を与えたい。
「その為なら、貴方に手を貸して差し上げましょう」
どれだけの人々が斃れようとも。
どれだけの人々が涙しようとも。
そんなもの、知るものか。
「一度でも俺に逆らえば、その首は地に落ちると知れ」
満足気に笑う王の剣が、肌にぷつり、と傷を作り出す。
逆らえば、この人はきっと容赦なく貫くのだろう。
そして、僕はきっとこの王に逆らって死ぬ事は生涯無いのだろう。
「俺を玉座から引きずり降ろせるなどと馬鹿げた夢想に生命を賭ける者を、赦しはしない。例え、飾りとして掲げられたのが幼い者だろうとな」
その言葉が意味するのは。
「幼子を殺せ、と言うのですか」
「そうだ。子供だろうが、女だろうが、立ちはだかる者は全て」
英雄の歩く道は、血の河となる。
この王が歩んだ先にあるのは、一時の覇権と魔術師の絶望の未来だ。
その先に産まれた僕は、それがどんなに凄惨なものとなるのかを知っている。
けれど。
「それも含めての了承です」
そこに倒れ伏すのは誰だって良い。
ここは未来で、過去で、そして現在だ。
何度も。何度も何度も何度も繰り返す未来。
僕が今、此処に居る。
それはつまり、その先で自分が選ぶのはいつだってこの選択だったんだ。
「良いだろう。お前、名は」
王は嗤い、歓迎しよう、と良く通る声で後ろに控えた兵士達に聞かせるように僕の名を問うた。
呼ばれ慣れた愛称を口にしようとし、動かしかけた唇を閉じる。
もう僕を愛称で呼ぶ人は何処にも居なくて、そんな風に呼ばれる資格もありはしない。
「――僕は魔術師。名を、ルージルと言います」
それは、最期の魔術師の名にして、最初の魔術師の名となる。
「ルージル……ルージルか。おあつらえ向きな名じゃなねえか」
目を細めた王は、笑いながら剣で僕の頬を――頬に付いたメイリーの血を撫でる。
彼の創り上げる国の末裔の血で、始まりの王が赤く彩られていく。
まだ微かに濡れていたそれが、王の白銀の剣を赤く染めた。
「俺の国を取り戻す――お前はその希望となれ」
記憶の中で、ずっと昔から読み続けていた歴史書がゆっくりと頁が捲られていく。
口から笑い声が漏れ出て、頬を生暖かい涙が伝っていく。
希望なんかじゃない。
この名前は、絶望に繋がって行く。
それでも、僕は。
「この国と貴方様の未来に、僕の名を捧げましょう」
君に会いに行こう。
君に生命を与えよう。
君に一瞬でも笑顔で居て欲しい。
僕と一緒の時間を生きて欲しい。
もう一度、何度でも。
「だから、どうか。僕を貴方の描く未来の先へ、連れて行ってください」