Observer
浴槽を満たす水の透明は思春期の代償のように青だけを散乱し、緑がかったそれに皮を貼り付けた僕の骨が浸かっていた。
水面に映る誰かの顔が禁じられた何かに作用してしまいそうで、思わずそれに顔を沈める。親譲りの骨格が僕の無骨を嘲笑う。
先輩へタメ口を利いてシメられたこと、クラスメイトの陰口を言っていたのがバレて疎遠になったこと、後輩にイキって嘘を吐いていたこと。友達と喧嘩して泣き喚いたこと、好きな女の子の前で失態を犯したこと、先生に勘違いされて濡れ衣を被ったこと。ゴミを片付けながら音楽でも聴いていれば、何を考えていたかさえ忘れてしまうような卑屈なこと。黒歴史と呼ぶにはひどく陳腐で、話のネタにもならないような些末なこと。フロイトにでも聞かせたら、その無聊を鼻で笑われるような低劣なこと。
自分以外誰も覚えていないような失敗の記憶が頭の中をぐわんぐわんと巡って、思い出したくもない過去の遺恨を奇声で制する時のように、ブクブクと鼻から空気を出し続ける。
「死にたいのかな」
浮力が優しく腕をとって、僕をどこかに連れて行こうとしている。
今この目を開いたらどんな景色が広がっているだろう、とか、考えつくと途端に現実の退屈を思わせる空想?
無限の想像力は心を疲弊させる。でも、僕らはそれに夢を託さずにいられない。
ファストで、インスタントで、エッセンシャルな、物質的で、即物的で、やっぱり本質的な、海、海、青い海、情報の、仮初の、表象、虚飾が、その先に、待っているとして、それが仮想の、虚偽の、現実であると、分かっていたとして、あぁこの、小宇宙に身を、委ねた、ら、どれほど幸、せであるのだ、ろうと、ど、れほ、ど解放さ、れるのだろ、うと次、第に心、臓の音が、大き、くなっ、て、あぁ生きて、いる、んだな、っ、てお、前は生き、た、がって、いるん、だな、っ、て、都、合、の、い、い、嘘、ば、っ、か、り、
だから僕はそこから顔を捻り出して、風呂場の空気を胸いっぱいに吸い込んだのだ。
仄かに香った世界の腐臭、痛めつけるように僕らを愛す――巡礼の欲望。
浅い呼吸、拍動の叱咤、暖色蛍光灯。
ぼう、ぼう、ぼうっ、と、腹の虫のように鳴る警鐘が血中を巡る酸素の快楽に取り込まれて、あぁこのままずうっ、と、ぼうっ、と。
生まれてこなければよかった、なんて葛藤。
何者でも無くなるこの時だけが永遠に続けばよいのに、なんて祈祷。
生きたくても生きられない人だっているんだよ、なんて劣等。
リンスの隣に閃くナイフの自己主張が鬱陶しくって、僕は徐に浴槽を出て、外にあるスイッチを勢いよく叩いて、君の髪色のように黒い水の透明を抱いて、40℃、光のない世界へそう、放蕩。
「恐れずに踏み出して」
浴槽は重力みたいに僕の腕を、胴を、脚を、頭蓋を奪い取る。浮力の無くなった水中、沈む体で許しを請う。
人生のスナップショット、切り取られた一瞬の煌めきと現実の理不尽。美醜や優劣の比較ばかり、躍起になっても虚しいだけさ。
ありありと提示された世界の差異は一様に分解されて、ただ、実存のみが死んでゆく。
温もりが僕に抱きつきかえして愛想の良い接客スマイル辛いよね苦しいよね寂しいよね悲しいよね嫌だよね何も考えなくていいんだよ都合のいい言葉ばっか並べ立て味方面して裏手で拝金しめしめと沸騰しそうな脳味噌に温めどうですかってレンジでチンしてじゅわぁと溶けて照り焼き脳味噌どろどろバーガーいっちょあがりなんだけど博愛って正妻みたいだなとか意味の分かんねぇ考えばかりが脳裏を過るもんでいよいよ思考力ってやつも無くなっちまったんだよとか思っちゃってそもそも思考力ってなんなんだ思考力を鍛えるための本とか本屋に大量にあるけどさあれ読んだらオイラも教養人だべってオイラーも吃驚だよバイザウェイ本屋っていいよねあの人の新刊出てるかなとかわざわざネットで調べるほどじゃないけど定期的に知ってる作者の新刊見つけたらあぁまだ生きてたんだなお前ってボトルメールでもやり取りしてるみてぇに嬉しくなっちゃってボトルメールって古くせぇけど案外ロマンティックじゃね憧れるそういや統合失調症とお年頃で韻が踏めるんだぜやっべ洗濯機回したまま干してねえじゃんダルすぎだしこの曲なんだっけイントロめっちゃ好きなんだけどなやべぇタイトル絶対出てこねぇうぜぇうぜぇ、え、お前この文章全部読んだとか暇人すぎワロタ。
「拝啓、あの世界線の私へ」
また、心臓が僕を呼んでいる。朝七時にセットされたアラームのように、執拗に流れる乗換案内アナウンスのように。
空気を逃さないよう口元にきゅっと力がこもって、全身からはあらゆる力が抜けていって。
体は浮き上がりたいと無為な努力を繰り返すのだけれど、対照に、僕の心は深く、昏い深淵へと沈んでいった。
「さあ全部忘れましょう」
今この目を開いたらどんな景色が広がっているだろう。
それが二度と取り返しのつかないことのように思えて、ぎゅぎゅっと瞑った瞼の裏の黒が、ぐらぐらと濃淡を変えてゆく。
あれ、なんで抵抗してるんだろうって、突然、分からなくなって。
或いはこの身を委ねればそこに世界平和のあるような感覚――錯覚でしょうか?
光を求めた瞳孔があちこち動き回って、諦めたのか収縮して。
途端、パタリと物語の幕が上がる。
「あぁなにもかも真夜中になる」
此方で夏が泣いている。それは救えなかった君の号哭。
彼方で君が呼んでいる。それは救えなかった夏の鯨波。
すすり泣く夏の産声に、うざったい青に、愛すべき君に、終止符という名の音楽を与えたら。
「ならこんな世界いらない」
僕は目を開いた。
例えばこの世に取り返しのつかないあれこれがあったとして、後悔がどれほど僕らを救ってくれるだろう。
例えばこの世に許されることのないあれこれがあったとして、贖罪がどれほど僕らを救ってくれるだろう。
例えばこの世に――君がいないとして、僕はどうしてまだ生きていなければならないのだろうか。
浴槽の底、光の届かない真底に手を伸ばしたら――
五人の魔女は立っている。




