王太子の選択
城核の仮起動から二日後、王都から急使が来た。
今度は王家の紋章だけではなく、カイル殿下の私印も押されている。嫌な予感しかしなかったが、中身は予想より複雑だった。
『大神官セルヴァン、北へ逃走の疑いあり。王都結界の歪み継続。王太子カイル・アルトリア、自ら灰冠城へ向かう』
「……来るんだ」
私は書面を持ったまま呟く。
「自分で?」
ミレイユも驚いていた。
「来る理由があるのかしら」
「王都の人心だろう」
レオンハルトは淡々としている。
「王太子が前へ出る姿を見せたい。あるいは、自分の目で灰冠城を確かめたい」
「どちらもありそう」
数日後、本当にカイル殿下は来た。
護衛は最小限。豪華な行列ではなく、急行軍に近い。灰冠城の門前で馬を下りた彼は、星灯祭の頃よりずっと疲れて見えた。けれど驕りが消えたわけではない。私を見た時の目には、まだ複雑な苛立ちが残っている。
「久しいな、リディア」
「ええ、殿下」
「……本当にここを動かしたのか」
「皆で、です」
彼は水塔を見、工房を見、市場の跡を見た。王都では“噂”として聞いていたものが、目の前では全部現実だ。否定しにくいだろう。
「父上は、お前が感情で暴走しただけだと言っていた」
「感情で水塔は直りません」
「だろうな」
それだけ言って、彼は少し目を伏せた。
私は意外に思った。もっと高圧的に来るかと覚悟していたのだ。だが今の彼は、勝者の立場ではない。王都で黒霧が現れ、大神官が逃げ、辺境が実際に国の要であることが露呈した以上、彼自身も選ばされている。
「セルヴァンは灰冠城を狙うはずだ」
カイル殿下が言う。
「だから来た。王都の兵だけでは地形が分からない」
「手を貸す、と?」
「国のためだ」
私は少しだけ笑ってしまった。
「殿下らしい言い方ですね」
「笑うな」
「すみません。本音が見えたので」
「……本音?」
「悔しいのでしょう。自分の知らないところで、国の根が動いていたことが」
彼は否定しなかった。
代わりに、レオンハルトへ向き直る。
「辺境伯。俺を前線へ入れろ」
「王太子としてか、剣士としてか」
「両方だ」
「厄介だな」
「承知している」
しばらく沈黙が落ちたあと、レオンハルトは頷いた。
「なら条件がある。命令口調で現場を乱すな。灰冠城では灰冠城の理屈で動け」
「……分かった」
驚くほど素直な返事だった。
その夜、私は城壁の上でカイル殿下と二人きりになる機会があった。風は強く、北は暗い。
「リディア」
彼が不意に言う。
「あの夜、お前を悪役にしたことを……正しかったとは、今は言えない」
「今は、なのですね」
「全部間違いだったとも言いたくない。俺にも守りたかったものがあった」
「でも、守り方を誤った」
「ああ」
それは謝罪ではない。けれど、初めて聞く種類の弱さだった。
私は静かに答える。
「殿下。私はもう、あの夜の続きを生きていません」
「分かっている」
彼はそう言い、城下の灯りを見下ろした。
「だからこそ、せめて今度は同じ側に立つ」
選択の遅い人だと思った。
でも、選ばないままよりはましなのかもしれない。
その夜、私は灰冠城の回廊か、城壁へ続く階段の途中でしばらく足を止めた。石に触れるたび、戦いと修復の痕がまだ新しく、城そのものが次の選択をじっと待っているようだった。賑やかな場面や大きな会話が終わったあとほど、片づけきれなかった小さな道具の重みのような小さなものが妙にはっきり見えてくる。私はそういうときほど、わざと手を止めず、呼吸だけを落ち着かせるようにしている。
私は足を止めるたびに今日の言葉と沈黙を反芻し、それが誰の覚悟に繋がったのかを確かめるように息を整えた。誰かが湯を置いていく音や、廊下を通り過ぎる足音が遠くに混じるたび、今日一日がまだ完全には終わっていないのだと分かる。大きな出来事は一度で形を変えるけれど、暮らしの方はそのあともずっと、遅れて追いついてくる。
大きな戦いや決断の前後では、力そのものよりも、誰が何を引き受けるかの方が人を変える。私はようやく、抱え込むことと支えることは別だと身体で分かり始めていた。 王都にいた頃の私は、結果の名前ばかりを気にしていた。勝ったか、負けたか、選ばれたか、外されたか。でも今は、その一段手前にある『明日も回るかどうか』の方がよほど重い。今日の判断が誰か一人を楽にし、その余力がまた別の仕事へ回るなら、それだけで十分に意味がある。
私が今見ているのは、片づけきれなかった小さな道具の重みのような、誰かが見落としても不思議ではない細部ばかりだ。けれど実際に町や城を支えるのは、いつもそういう小さな部品の方だった。派手な奇跡より先に、綻びを見つけて、記録して、次の人が迷わず触れる形へ直しておくこと。そういう地味な手順が積み重なって、ようやく暮らしは丈夫になる。
きっと明日になれば、また別の形をした不足が見つかる。次に向き合うのは、壊れていることすら当然になっていた城そのものだ。だから最初の一手が、きっと大事になる。。それでも今は、次に何を直すべきかを考えること自体が、前へ進んでいる証拠だと知っていた。 私は最後に手元の小さな綻びだけ直し、明日に回すべきものを帳面へ書きつけてから、ようやく灯りの方へ歩き出した。
読んでくださってありがとうございます。続きは『灰冠決戦(一)』です。次話もよろしくお願いします。




