河内枚岡 3
三
その夜、御食子は鎌足を呼んだ。
日は落ち、枚岡の山は黒く沈み、社の森もまた昼とは別の深さを帯びていた。
風はない。
だが、見えぬところで、気ばかりがゆるやかに通っているようであった。
来い
御食子はそれだけ言った。
火はすでに置かれていた。
低い火であった。
人の顔と手もとだけを照らし、奥の闇はそのままにしている。
火の向こうに、白いものがいくつか見えた。
鹿の肩骨であった。
鎌足は、それがただの骨ではないことを知っていた。
だが、どのように問い、どのように読むかまでは、まだ知らなかった。
御食子は火の前に坐し、鎌足をやや後ろへ坐らせた。
近うてよい
だが、前へ出るな
はい
供えの稲、塩、酒が火のそばに置かれていた。
骨は洗われ、白く乾いていた。
御食子はしばらく何も言わなかった。
火を見、骨を見、供えを見た。
その手つきにはためらいがなかった。
拝む者の慎みと、事を進める者の無駄のなさが、一つになっていた。
鎌足は、その静けさを聞いていた。
森は黙っている。
だが、何もない黙りではない。
人のことばになる前のものが、山と道とのあいだに満ちているように思えた。
やがて御食子が言った。
見ておけ
祀は祀だけではない
占は占だけではない
政と分けておるのは、後の者の見方だ
神に問うとは、人の迷いを晴らすためではない
朝の迷いを、朝のうちで定めるためだ
枚岡で何をしてきたか、分かるか
荷を見きわめることにございますか
半ばはそうだ
だが、見きわめるのは荷ではない
あれを通して、人を見る
家を見る
先を量る
御食子は肩骨を手に取った。
火の色が白い骨に移る。
今宵ここですることも同じだ
神に問う
だが、問うておるのは空のことではない
朝のうちのことだ
問いが立たねば、卜は立たぬ
問いの立たぬ卜は、ただの戯れだ
御食子は骨の面を指でなぞった。
どこに熱をあてるか、どこにひびを待つか、すでに決まっているらしかった。
火のそばに置かれた細い棒の先を赤くし、骨へ近づける。
鎌足は息をつめて見ていた。
じ、と小さな音がした。
火の気が骨へ入り、ほどなく細いひびが走った。
御食子はその走りを黙って見た。
もう一度、熱をあてる。
また細い音がする。
ひびの向きが変わる。
おまえは、中臣が何をもって王のそばに立つか、知っておるか
神に仕えるゆえにございますか
御食子は首を振った。
それだけでは足りぬ
神に仕えるゆえに立つのではない
神のことばをもって、大王家を寿ぐゆえに立つのだ
鎌足は黙った。
鹿嶋でも神は祀った。
神の前に立つことも知っていた。
だが、父の言う中臣は、それだけではなかった。
神の前に立つことが、そのまま大王家の前に立つことになる。
寿ぐとは、ただ神を称えることではない。
大王家を家として立たせ、その下に中臣もまた立つことを誓うことである。
同じ中臣という名の下に、鎌足の知らなかった重さがあった。
御食子は言った。
寿ぐとは、ただ長らえを願うことではない
その家が家として立ちつづけることを願い、
その下にあるわれらもまた、仕えつづけることを誓うことだ
中臣の神寿詞は、大王家を寿ぐことばだ
だがそれは同時に、中臣が中臣として、その家の下に立つことを、自ら言い表すことばでもある
御食子は骨を火から離し、ひびの走りを見た。
それから、鎌足の方を見た。
神に申すことばは、そのまま人へのことばにもなる
人に誓うことは、そのまま神の前の誓いにもなる
この地では、その二つは分かれぬ
山の裾に社があるのは、そのためだ
道の傍らに神がいるのも、そのためだ
人の行き来と、神の気配と、王のことばは、ここでは一つのものだ
火が小さく鳴った。
鎌足には、そのことばのすべてが分かったわけではなかった。
だが、分からぬなりに、逃れてはならぬことのようには思えた。
御食子が問うた。
おまえは誰の家の者だ
中臣の家の者にございます
誰に寿詞を申す
大王家に
何を誓う
中臣の家として、お仕え申すことを
御食子はしばらく鎌足を見ていた。
その目は厳しかった。
だが、試すというより、受け取らせようとする目であった。
よい
だが、ことばだけでは足りぬ
そう言って、ふたたび熱した棒を骨へ近づける。
また小さな音がした。
前のひびに寄りそうように、別のひびが走る。
御食子はそれを読み、火を置いた。
おまえは、何を問うておると思う
鎌足は答えられなかった。
外から何が入るか
内へ何を通すべきか
誰を動かし、どこで止めるべきか
そういうことを問うておる
祀を司るとは、朝のうちを量るということだ
占を司るとは、神意を借りて朝の進退を定めるということだ
行いと分けて考えてはならぬ
政とも切り離してはならぬ
中臣がそのあいだに立つのは、そのためだ
昼の荷改めと、今の火と骨と、父の低い声とが、鎌足の中で一つに重なった。
枚岡で行われていることは別々ではないのである。
道を量ることも、神に問うことも、王のもとへ出ることも。
やがて御食子は骨を火から離した。
何がどう出たかを、鎌足にはまだ読みきれなかった。
だが、父の顔に迷いがないことだけは分かった。
忘れるな
神寿詞は、神へのみ申すことばではない
大王家を寿ぎ、中臣がその下に立つことを、自ら誓うことばだ
忘れませぬ
枚岡を忘れるな
この地で、中臣は祀ることと量ることとを一つにしてきた
そのうえで王のそばへ近づいた
ゆえに、この地を知らずに、中臣を知ったとは言えぬ
火は低くなっていた。
森はいよいよ深くなっていた。
だが鎌足の胸のうちには、暗さよりも、はじめて知った家のかたちの方が強く残った。
父は祈ったのではない。
問うたのである。
問うと同時に、誓わせたのである。
その夜、鎌足は長く眠れなかった。
鹿嶋でも祀りはあった。
神に仕えることも知っていた。
だが、ここで知った中臣は、それだけではなかった。
同じ名の下に、まだ知らなかった重さがあった。
そのとき鎌足は、鹿嶋よりここへ来てはじめて、自分がまだ中臣の半ばしか知らなかったのだと思った。
難波から入るものがある。
盆地へ入るものがある。
王のもとへ届くことばがある。
そのすべての手前に、枚岡がある。
中臣は、その節に立つ家であった。
河内枚岡とは、ただの旧地ではない。
中臣が中臣となるための地であり、
後の鎌足も不比等も、知らずしては語りえぬ地である。
山の西の口に立ち、
外から来るものを見、
内へ通すべきものを量り、
神を祀り、
王のもとへ届くことばを申す。
そのような家の古いかたちは、この地で生まれた。
河内枚岡は、その記憶の地である。




