河内枚岡 1
日本書紀には、一書に曰くとして、別の伝えが記されている。
この物語もまた、そのような別の伝えである。
一
河内枚岡を、ただ一つの社の地として語るのは足りぬ。
この地は、後の世にアメノコヤネと呼ばれるようになる中臣の始祖が、東遷に従って根を置いた地である、と伝えられてきた。
東遷に従って移ってきた氏族は、のちに「連」と記され、「むらじ」と呼ばれた。
盆地に土着していた豪族は、大王に従属を誓って「臣」となり、「おみ」と呼ばれた。
それは後に、王権が大陸の制度を受け入れる中で、漢語の発想を倭のことばへ移し替えた結果でもあった。
だが、名が後に整えられたからといって、その違いまで後に生まれたわけではない。
移ってきた者と、もとよりそこにいた者。
王に従って来た者と、王に従うことを選んだ者。
その違いは、はじめからあった。
中臣は前の側に立つ家である。
東遷に従い、山の西の口に拠り、王の動きとともに動いた家である。
葛城や蘇我とは違う。
あちらは盆地に根を張り、地と人とを抱えたまま王に従った。
こちらは王とともに来て、王の近くに仕えることで家の位置を得た。
枚岡は、そうした中臣の起こりを地として支えた。
西を見れば難波へひらく。
東を見れば大和盆地へつづく。
枚岡は、そのあいだにある。
あいだにある地ほど、両方の気を知る。
海の速さも知る。
盆地の沈みも知る。
何が難波から入り、何が山を越えて大和へ向かうかを知る。
王の近くに立つ家にとって、その知は欠かせぬものであった。
神に仕えるだけでは足りぬ。
祝詞を知るだけでも足りぬ。
王のそばに立つには、人と物と道の動きを知らねばならぬ。
どこを通れば難波へ出るか。
どこを越えれば大和へ入るか。
何が山の西から来て、何が東へ向かおうとしているか。
それを見きわめる目が要る。
しかもこの地は、ただ便利であるばかりではない。
古い。
山が近い。
森が残る。
道が寄る。
人はそこに、ただ人の足ばかりではないものの通りを感じる。
神であれ、祖霊であれ、名のつかぬ古い力であれ、そのようなものが山と道とのあいだを往き来していると思う。
ゆえにこの地では、政と祭とはきれいには分かれない。
道を見ることは、地を見ることでもある。
地を見ることは、神を荒らさぬことでもある。
祀ることと量ることは、まったく別のわざではなかった。
後の世は、中臣を祭祀の家として語りやすい。
それは誤りではない。
だが、それだけでは浅い。
この家は、山の西の口に立ち、難波と大和のあいだを見、王のもとへ入るべき時と、まだ入るべからざる時とを量る家でもあった。
神の前に立つと同時に、朝の節に立つ家でもあったのである。




