第三次ソロモン海海戦 第一夜
ガダルカナル島の夜は、もはや静寂とは無縁になっていた。
ヘンダーソン飛行場から漏れる灯火は、以前よりも数を増し、夜空を淡く染めている。対空砲の発砲試験が断続的に行われ、島そのものが巨大な軍事拠点へと変貌しつつあることを、海の上からでもはっきりと感じ取ることができた。
ウォッチ・タワー作戦によって、ガダルカナル、ツラギ、フロリダ島は、いまや失われかけている。日本側もその現実を理解していた。だが同時に、まだ完全に手放してはいないとも知っていた。
――夜がある。
夜だけは、依然として日本軍が優勢を保っていた。
第二高速艦隊は、静かに集結しつつあった。
その編成は、これまでにない規模と質を備えている。
第二戦隊、比叡・霧島。
第三戦隊、筑波・雲仙。
第四戦隊、阿蘇・桜島。
さらに瑞雲、紫雲の二隻の軽空母が、外縁に位置し、全力で索敵を担う。
この夜、これらすべてが初めて一つにまとめられた。
――第二高速艦隊。
名はまだ新しいが、その中身は、これまでの夜戦の蓄積そのものだった。
旗艦・筑波の艦橋では、司令官が海図を見下ろしていた。島々の輪郭、既知の暗礁、推定される敵進出経路。それらが赤と青の鉛筆で幾重にも書き込まれている。
「敵は来る」
司令官の声は、静かだが断定的だった。
「今夜、必ず出てくる。向こうもわかっている。砲撃を許せば、ヘンダーソンの拡張は止まる」
副官が頷く。
「アメリカ側は戦艦を出してきます。ノースカロライナ、サウスダコダ。情報部の分析でも確実です」
艦橋にいる者たちは、その名を聞いても動揺しなかった。むしろ、当然だという空気が流れる。
これまでの戦いは、相手に「夜は危険だ」と思わせる段階だった。
今夜は違う。
夜に、真正面から出てくる敵を迎え撃つ。
それが、この作戦の本質だった。
一方、瑞雲型軽空母・瑞雲と紫雲では、飛行甲板が慌ただしく動いていた。夜間偵察機が次々と準備を終え、暗号表と帰投時刻が再確認される。
搭乗員たちは、もう特別な緊張を見せない。
夜に飛ぶことは、日常になっていた。
彼らの任務は単純であり、重い。
――見続けること。
――報告し続けること。
敵の艦隊配置、速度、進路、その変化。
そして何より、敵が「何を見ているか」を測ること。
この夜、日本軍はすでに知っていた。
アメリカ軍もまた、夜を恐れながら、準備を進めている。
潜水艦、魚雷艇、哨戒線。
だが、それらの動きは、夜間偵察によってある程度把握されていた。完全ではないが、十分だった。
敵は見えないところにいるつもりでいる。
だが、日本側は「見えていないふり」をしている。
日付が変わる直前、瑞雲から第一報が届く。
「敵主力艦隊、南東海域に集結。戦艦二、重巡複数。針路西」
艦橋に、わずかな緊張が走る。
司令官は、しかしすぐに頷いた。
「予定通りだ」
この夜は、奇襲ではない。
待ち伏せでもない。
両者が来ると知っている戦いだった。
それでも、日本側には一つだけ、明確な優位がある。
――情報の処理速度。
索敵、電探、航空偵察、そしてそれらを即座に統合する指揮系統。
敵より早く「意味」を掴むことができる。
第二高速艦隊は、速度を上げない。
隊形も、無理に密集しない。
夜を走るのではなく、
夜を支配するための配置を取る。
比叡・霧島は、砲撃準備を整えつつ、ヘンダーソン飛行場への接近ルートを保持する。
筑波・雲仙、阿蘇・桜島は、敵主力艦隊の想定進路に対して、横合いの位置を占める。
この配置は、撃つためではない。
撃たせるためのものだった。
敵が先に動けば、その瞬間に夜は裂ける。
だが、敵が動かなくても、日本側は困らない。
砲撃は予定通り行われ、輸送は続き、夜は管理されたままだ。
艦橋で、司令官は静かに言った。
「今夜は、夜戦ではない」
副官が問い返す。
「では……?」
「夜間決戦だ」
海は暗く、静かだった。
だがその静けさは、
嵐の前ではなく、
両者が覚悟を終えた者同士の、無言の確認だった。
アメリカ艦隊もまた、夜の海を進んでいた。
戦艦ノースカロライナ、サウスダコダを中心に、重巡洋艦、駆逐艦が扇状に展開する。隊形は慎重で、過度な前進は避けられていた。艦隊司令部は、すでに日本軍が夜戦において優位を持つことを理解している。
サボ島沖、第一次ソロモン海戦の記憶は、生々しく残っていた。
――見えないうちに撃たれる。
――撃たれた後で、敵がどこにいたのかを知る。
それを繰り返さないために、アメリカ艦隊は「来ると分かっている夜」を選んだ。逃げるためではなく、受け止めるための夜だ。
サウスダコダ艦橋では、レーダー画面を見つめる士官が、何度も目を凝らしていた。
「異常なし……ノイズが多いが、目立った反応はない」
司令官は、腕を組んだまま動かない。
「日本軍は、すでにこちらを見ていると考えろ。問題は、どこまで把握されているかだ」
彼は知っていた。
日本軍が夜間索敵を軽視していないことを。
潜水艦や魚雷艇を前方に配置したが、それらがどこまで機能するかは未知数だった。とくに、最近増えているという日本軍の夜間航空偵察は、厄介な存在だった。
――だが、それでも。
アメリカ艦隊には、自信の拠り所があった。
戦艦の装甲。
新型レーダー。
そして、火力。
「見つけさえすれば、撃ち勝てる」
それが彼らの結論だった。
一方、日本側では、情報が次々と集約されていた。
瑞雲からの報告。
紫雲からの追跡情報。
艦艇電探による断続的な反応。
それらは一つ一つでは不完全だが、重ね合わせることで、敵の輪郭が浮かび上がってくる。
「敵戦艦、速度二十ノット前後。隊形、やや縦深」
筑波艦橋で報告がなされる。
司令官は頷いた。
「慎重だな。だが、逃げる構えではない」
彼の視線は、海図上の一点に落ちる。
「……ここだ」
敵艦隊が通過せざるを得ない海域。島影と浅瀬に挟まれ、進路が限定される場所。
第三戦隊と第四戦隊は、すでにその外縁に位置していた。
筑波・雲仙、阿蘇・桜島。
いずれも高速を維持したまま、砲口を向けない。
撃つ準備は整っているが、撃たない。
それが、この段階での最適解だった。
比叡・霧島もまた、砲撃任務のための進路を保ちつつ、敵の動きを監視している。彼らの任務は、戦闘ではない。だが、戦闘が始まれば、最も目立つ存在になる。
この夜、日本側は「主動権」を手放さないために、あえて手を出さなかった。
アメリカ側では、微妙な違和感が広がり始めていた。
「……静かすぎる」
ノースカロライナの艦長が呟く。
日本軍が出てくるなら、そろそろ接触があってもいい。だが、レーダーに映る反応は曖昧で、決定的なものがない。
敵がいないのか。
それとも――見えていないだけなのか。
「レーダー反応、断続的。複数の小反応が消えたり現れたりしています」
「航空機か?」
「断定できません。高度が低すぎる」
司令官は、眉をひそめた。
それが、瑞雲と紫雲の夜間偵察機であることを、彼はまだ知らない。いや、正確には、知っていても信じきれなかった。
夜に、ここまで組織的に航空機を使うなど、非常識に思えたからだ。
日本側では、逆に冷静だった。
「敵は警戒しているが、情報の解像度が低い」
参謀が述べる。
「こちらの正確な位置までは掴めていません」
「ならば十分だ」
司令官は、短く答えた。
この夜、日本軍は「勝つ」ことを急いでいない。
砲撃は予定通り行う。
輸送路は守る。
敵の出方を観察する。
それだけで、すでに戦果は生まれている。
なぜなら、アメリカ艦隊は、この時点で「動けなくなりつつあった」からだ。
前進すれば、日本軍のどこかに触れる。
後退すれば、砲撃を許す。
待てば、夜が日本軍の管理下で消費される。
夜は、すでに均等ではなかった。
それを最も強く感じていたのは、現場の艦長たちだった。
敵がいる。
だが、どこにいるのか分からない。
そして、日本側は、こちらを「見た上で待っている」。
その事実が、艦隊全体に、じわじわと圧力をかけ始めていた。
やがて、最初の砲撃時刻が近づく。
比叡・霧島は、ヘンダーソン飛行場への射撃準備を完了。
第三・第四戦隊は、依然として沈黙を保つ。
この夜の均衡は、まだ破られていない。
だが、
破られる瞬間が、確実に近づいていた。
最初の閃光は、島の上に落ちた。
比叡の前部主砲が、低く唸るような音を立てて火を噴く。続いて榛名――ではない。今回は霧島だ。第二戦隊の二隻が、交互に主砲を放ち、ヘンダーソン飛行場一帯を覆い尽くす。
夜空が、瞬間的に昼になる。
砲弾は、すでに昼間の観測と夜間索敵を重ねた座標へ正確に落ちていた。滑走路、燃料集積所、航空機整備区画。破壊すべき場所は、すべて把握されている。
爆炎が立ち上り、島全体が震えた。
アメリカ軍基地では、即座に警報が鳴り響く。
「戦艦砲撃だ! 全員退避!」
だが、退避する時間は短い。砲撃は、長期戦を意図していなかった。必要な破壊だけを与え、短時間で終わらせる――それが、日本側の作戦だった。
一方、その砲撃を合図に、海上でも動きが生まれる。
アメリカ艦隊司令部では、緊急通信が飛び交っていた。
「日本戦艦、砲撃開始!」
「位置は?」
「サボ島南方……いや、確定できません!」
レーダー画面には、複数の反応が一斉に現れ、また消える。島影、反射、そして日本軍の意図的な進路変更が、それらを混乱させていた。
司令官は歯噛みする。
「やはり、こちらの出方を待っていたか……」
彼は決断を迫られていた。
このまま待てば、砲撃を許し続ける。
だが、突入すれば、日本軍の主力にぶつかる可能性が高い。
「前進する。戦艦隊、速力二十七ノット」
命令が下される。
ノースカロライナ、サウスダコダを中心とする艦隊が、島影を抜けて前に出る。その動きは、すでに日本側に把握されていた。
筑波艦橋。
「敵戦艦、進路変更。こちらの想定通りです」
報告は、落ち着いている。
司令官は、腕時計を一瞥した。
「……第四戦隊、予定位置へ」
阿蘇・桜島が、静かに速度を上げる。彼らの任務は、直接の撃ち合いではない。敵の側面を圧迫し、進路を制限すること。
同時に、第三戦隊――筑波・雲仙は、主砲を敵に向けたまま、なおも発砲しない。
撃てる。だが、撃たない。
それが、日本側の最大の優位だった。
アメリカ艦隊は、砲撃音と閃光から、日本戦艦の位置を割り出そうとする。しかし、比叡・霧島はすでに砲撃を終え、進路を変えつつあった。
「砲撃艦、反転中!」
「追うべきか?」
参謀の声に、司令官は一瞬だけ沈黙する。
「……追えば、本命に突っ込む」
その予感は、正しかった。
瑞雲、紫雲からの最終索敵報告が、第三戦隊に届く。
「敵戦艦隊、集中。随伴艦、やや遅れあり」
敵は、まとまっている。だが、そのまとまりは、防御でもあり、弱点でもあった。
筑波艦橋で、司令官が静かに命じる。
「……第一射、許可」
その瞬間、夜が裂けた。
筑波の三連装主砲が、ほぼ同時に火を噴く。続いて雲仙。九門の30.5cm砲が、一斉に咆哮する。
狙いは、先頭艦ではない。
中軸――サウスダコダ。
アメリカ艦隊は、初めて「撃たれた理由」を理解した。
「日本戦艦、こっちだ!」
「距離、近い!」
砲弾は、装甲を貫通するほどではない。だが、衝撃と破片が、レーダー室、通信系統、上部構造物を容赦なく叩く。
サウスダコダは、瞬間的に“盲目”になった。
通信が途切れ、指揮が乱れる。
その混乱を、第四戦隊が逃さない。
阿蘇・桜島が、敵側面に圧力をかけるように進出し、駆逐艦隊が雷撃態勢に入る。
魚雷は、まだ撃たれない。
だが、その存在が、敵の進路を縛る。
アメリカ側では、判断が遅れ始めていた。
「どこが主力だ?」
「砲撃艦が複数いる!」
ノースカロライナは健在だが、護るべきサウスダコダが機能不全に陥りつつある。
日本側は、冷静だった。
主砲は、再び沈黙する。
撃ち続ける必要はない。
夜を、消費させればいい。
ヘンダーソン飛行場の砲撃は、すでに終わっている。
輸送路は、確保されている。
敵は、動けない。
この夜、日本軍は「撃破」ではなく、「支配」を選んだ。
そして、その選択が、戦局を大きく歪めていくことを、
まだ誰も正確には理解していなかった。
夜明けは、誰の勝利も宣言しないまま訪れた。
ガダルカナル島の東方海域に、薄く灰色の光が滲み始める。砲煙はすでに散り、海は不気味なほど静かだった。そこには、沈没艦の残骸も、大きな爆発の痕跡もない。
だが、この夜が何も生まなかったわけではない。
アメリカ艦隊は、夜明け前に進路を変えていた。
サウスダコダは航行可能ではあるが、通信系統と一部電探に損傷を受け、隊形の中で孤立しつつあった。ノースカロライナは健在だが、護るべき相手が機能を落とした以上、積極的に前へ出る意味はない。
「夜明け前に離脱する」
司令官の判断は、苦渋のものだった。
戦艦同士の撃ち合いを期待していたわけではない。だが、少なくとも砲撃艦を捕捉し、主導権を奪い返す算段はあった。
それが、叶わなかった。
敵は、戦っていなかった。
管理していた。
夜を、距離を、情報を。
その事実を、艦橋にいる誰もが理解し始めていた。
一方、日本側では、撤退を追わなかった。
筑波艦橋で、参謀が問う。
「追撃しますか?」
司令官は、短く首を振る。
「不要だ。夜明けだ」
この判断に、異論は出なかった。日中は、もはや航空優勢が保証されていない。夜のうちに果たすべき目的は、すべて達成されている。
ヘンダーソン飛行場は、一時的に機能を低下させた。
輸送路は、確保された。
敵戦艦隊は、こちらの意図を測りかねたまま後退した。
それ以上を望む理由は、なかった。
瑞雲、紫雲は、最後の索敵飛行を終え、母艦へ帰投していく。夜明けの海を背景に、小さな機影が次々と消えていった。
それを見送りながら、第四戦隊の艦橋では、若い士官がぽつりと呟く。
「……本当に、戦艦同士の戦いにはならなかったですね」
艦長は、しばらく考えてから答えた。
「そういう夜じゃなかった」
彼は、双眼鏡を下ろす。
「これからは、こういう夜が増える」
誰も反論しなかった。
第二高速艦隊は、初めて実戦で一体として行動した。
第二戦隊は砲撃を担い、
第三・第四戦隊は制海を担い、
瑞雲型軽空母と水上機隊は、夜の空を支配した。
それぞれが役割を理解し、逸脱せず、重なり合わない。
その連携は、派手ではないが、確実だった。
作戦終了後の簡易報告では、戦果は控えめにまとめられた。
「敵戦艦一隻、小破」
「敵航空基地、一時的機能低下」
「我が方、被害軽微」
数字だけを見れば、大戦果とは言えない。
だが、参謀の一人が、小さく呟いた。
「……敵は、夜に出てこなくなるかもしれません」
その言葉に、場の空気がわずかに変わる。
夜に出てこない敵。
それは、日本側にとって、最大の戦果だった。
アメリカ艦隊では、この夜の評価に苦しんでいた。
撃沈はない。
だが、戦術的勝利とも言えない。
「日本艦隊は、我々を避けたのではない」
司令官は、後日の会議でそう述べた。
「我々を、止めた」
そして、その方法が分からない。
レーダーはある。
戦艦の火力もある。
それでも、夜に動くたび、日本軍の意図の中に入り込んでしまう。
それが、何より不気味だった。
この夜以降、ソロモンの海では、奇妙な均衡が生まれる。
夜は、日本軍のものだと断言できない。
だが、アメリカ軍のものでもない。
夜は、管理される時間帯になった。
そして、その管理者が誰であるかを、誰もが意識せざるを得なくなる。
筑波艦橋で、司令官は静かに言った。
「夜は、奪われなかったな」
副官が答える。
「はい。……まだ」
その「まだ」という言葉に、未来が含まれていた。
この夜は、決着ではない。
だが、転換点ではあった。
やがて、レーダーと航空機が夜を再び変えるだろう。
だが、少なくとも今は――
ソロモンの夜は、
日本艦隊の手の中にあった。




