第9話 実験群
医務棟に呼び出しがかかったのは、鐘の高さがわずかに上がった朝だった。
ユウは扉の前で足を止め、右手の甲を一度だけ確かめる。ミナの字は昨夜のまま太く、インクの端だけがかすかに銀色に乾いている。ミナが隣で、深く息を吐いた。ため息とも、準備の合図ともつかない短い呼気。扉が内側から開き、白い明かりが顔を洗うようにあふれた。
「待っていたよ」
ハシバは柔らかな笑顔で迎えた。
白衣の襟はきちんと折られ、名札の角は欠けもない。視線はまっすぐで、親切と熱心の中間にある。
「ふたりの保持率の秘密を確かめたい。もちろん痛いことはしない。君たちの“良さ”を、そのまま数字にしたいんだ」
部屋の中央にベッドが二台。周囲には銀色の機械が並び、コードが蛇のように束ねられている。脳波計、皮膚電位、末端温度のセンサー。ガラスの壁に反射したグラフの影が、壁紙の模様みたいに揺れた。恋を計測する装置に見える。滑稽だ、と思いかけたところで、ユウは胸の奥に小さな寒さを覚えた。笑って済ませられない種類の滑稽さもある。
「座って。電極は冷たいけれど、すぐ慣れる」
額に、こめかみに、胸に。金属の円盤が吸い付く。ひやりとした輪っかが皮膚の温度を奪い、そこから内側に長方形の冷たさが広がっていく。ミナは笑って見せた。目元に、警戒だけが細く残る。ハシバはタブレットを操作し、グラフの窓を開いた。波が走る。ユウの心拍が、画面の中で数字になる。
「すばらしい。君たちの相関は特異だ」
ハシバは指で波形を示した。
「“対”として最も安定する。しかも戦闘時、相手の位置情報の推定精度が上がる。ここ、見えるかな。呼名の直後、脳波の相関係数が跳ねる。つまり、恋は戦闘効率を上げる。――この見解は大げさじゃないと思う」
喜色が、声の端に混ざった。
ユウは、こめかみの電極の下で眉が動きそうになるのを、まっすぐ前を見ることで誤魔化した。恋、という音が机に転がされ、計測器の上で転がって止まる。それは誰のものでもなくなっていく。
「では、強制再起動テストに移ろう」
空気が一段低くなった。軽度の記憶消去――短時間の睡眠――再起動。ハシバは淡々と手順を読み上げる。ミナが拒否を表明した。「必要ない。実戦のデータで十分」
ハシバは首を横に振り、やや悲しそうな顔を作る。
「命令は覆らない。君たちの協力は、他の誰かの安全に変わる」
言葉は正しい。正しいのに、どこかが薄い。
ユウが先だった。
透明なマスクが口と鼻を覆い、眠気が静かに上から降りてくる。落ちる直前、ハシバが言った。「起きたら、最初に名前を言ってみてね」
暗闇が浅い水になり、すぐに明るくなる。ユウは目を開けた。
「……ミナ」
声は出た。名前は出た。胸がほどける。しかし、次の問いに舌がもつれる。
「通信士のコールサインは?」
ツムギ。喉元まで来て、音にならない。空気の中で紙が破れるみたいに、名前の輪郭が崩れる。
「……ツ……?」
出ない。
「小隊長の血液型は?」
カイの、何型か。思い出せそうで、穴が開いている。
「狙撃手の銃の癖は?」
ソラの、呼吸のリズム。スコープ越しの癖。どちらも言葉の形を失っていた。ユウは自分が穴だらけの器になった感覚に肩を震わせる。器は形を保っているのに、注いだものが底から抜ける。
「大丈夫」
ミナの声が近くで言った。
「名前は言えた。十分だよ」
彼女の手が、ユウの指先をつつむ。温度は、落ちなかった。温度は言葉より強い。初日に読んだ文言が、胸の内側で静かに光る。
次はミナの番。
同じ手順。短い暗闇。浅い眠り。明るい再起動。
「ユウ、って呼んでみて」
「ユウ」
彼女は迷わず言った。言っただけで、笑い方まで思い出したらしい。口元が、ユウの知っている形に動く。
「包帯の結び方を教えて」
ミナは手を動かす。身体は覚えている。だが、言葉が出てこない。手順の名称だけが空白になっている。
「これ、こうやって、えっと……」
ハシバは満足げに記録し、声に濁りを残さずに結論を述べる。
「実戦でも同様の保持が見込める。個人的固有名と、相互の所作が優先的に残る。たいへん有意義だ」
有意義。
有意義という言葉が、今この部屋では、褒め言葉のようで、同時に鈍い刃にも思えた。
*
面談室。壁は薄いクリーム色。角度によっては白に見える。
ハシバは椅子に座り、指先を組んだ。
「君たちは実験群だ。胸を張って良い」
ユウは笑いそうになって、笑えなかった。胸を張るべきものが、数値で示された恋なのか。胸の中身を抜かれて、形だけが立っている感じがした。
「効率のために、わたしたちの“言葉”を使うの?」
ミナが問う。言い方は静かだが、静かさは刃の位置を選ぶためのものだった。
ハシバは微笑を崩さず、短く答える。
「言葉は資源だ」
ドアの外、ツムギが壁に背をつけ、ノートにその一言を刻む音がした。資源になった言葉は、誰のものでもなくなる。誰のものでもなくなるものを、誰かが所有しはじめる。それを止められるのは、記録だけだと彼女は知っている。記録は、あとから過去を取り戻す手順書になる。ツムギはその役目を自分に課している。
ハシバは椅子を引き、立ち上がった。
「検査は以上。でも――」
さりげなく机の端末に指を滑らせる。画面の隅に小さな印が映り、ユウの目が細くなる。記憶保持プロトコル。画面右下に、見覚えのある署名。
ハシバ。
あの副官から渡された資料と同じ署名だ。内側の敵。外側の敵の誠実。それらが同じ机の上に並んでいる。
ユウは一瞬、指が動きそうになった。端末を奪い、床に叩きつける想像は簡単だ。けれど、証拠は必要だ。証拠は、壊すためではなく、持ち帰るためにある。
廊下の陰で、ツムギが小さなカメラを掲げた。スクリーンの反射を狙って、指先が角度を微調整する。ソラは通路の突き当たりで立ったまま、視線だけで往来を掃く。カイは腕時計を見て、司令部へ報告するタイミングを計っている。隊の足並みは、誰にも見えない糸で結ばれていた。だが、その糸を研究者が手繰り寄せはじめた事実が、全員の皮膚にざらつきを残す。
「最後に、ひとつ」
ハシバが再び座り、再生ボタンを押した。
スピーカーから、綺麗すぎる音が流れ出した。
ユウとミナの会話。夜の端に交わした、あの短い約束。ふたりだけの秘密、だと思っていた語尾が、冷たいスタジオの音質でこちらに戻される。どこで録った? いつ録った? マットの軋みも、息が笑いに変わる手前の音も、余さず拾われている。
ミナの目が細くなり、ユウの右手は握りこぶしになった。ハシバは困ったような、しかし目は笑っている表情で言う。
「フィールドとラボは連続している。境界は、便宜的なものだ」
便宜的。
胸の中で、何かが崩れる音がした。崩れたのに、形はそのまま立っている。崩れた破片だけが内側でざらつく。
椅子が床を擦る音が、やけに大きく響いた。
ふたりは無言で立ち上がる。ドアが開くと同時に、廊下の空気が味を取り戻した。ツムギが小声で言う。
「全部、持ち帰った」
カイが頷く。「話は後だ。今は離脱」
ソラが前に出て、途中の角で立ち止まる人影を目でどかす。足音が揃い、医務棟の玄関まで、一度も止まらずに歩いた。
*
テントへ戻る道すがら、ユウは右手の甲をミナに見せる。にじみは朝より広がって、線の端が模様みたいに絡み合っていた。ミナは親指で一度なぞり、指先を握りしめる。指の間に、静かな熱が残った。
「大丈夫?」
「わからない」
「わからないって言えるなら、大丈夫」
答えになっていないのに、答えになっていた。言葉の形は揺れても、触れたところは温度で固まる。
ツムギは歩きながら手帳を開き、今日の欄に線を引いた。
言葉は資源だ、と書いてから、横に小さく、資源にされない言葉もある、と足した。資源にされない言葉を守る方法は、話さないことだけではない。話して、記録して、線の持ち主をはっきりさせることだ。そう書いたところで、彼女はペンを止めた。記録は武器にもなる。使うのは、こちらだ。
夕方になり、野営地の陰が長く伸びる。カイは司令部へ、形式通りの報告を送った。「検査受領。所見は後日共有」
その少し後、医務棟の暗い廊下で、赤い点がひとつ消えた。
壁に取り付けられた小さなマイク。レンズのない目玉みたいな穴。LEDが赤から黒へ。
誰かが、どこかで、それを見ている。
見られている感覚は、音がないのに耳の後ろを冷やす。
*
夜。
ミナは裁縫箱を閉じ、ユウの膝に毛布を引き上げた。
「眠れないなら、手を出して」
ユウが右手を差し出すと、ミナはそこに小さく丸を描いた。丸は閉じず、ほんの少しだけ隙間を残す。そこから風が入る。入ってくる風に音が混じる。音が混じれば、外とつながる。
「今日、笑った?」
「笑ってない」
「じゃあ、明日。理由は後で探す」
テントの外で、ツムギが無線を開いた。
未送信フォルダに、ひとつ文を足す。
兄さんへ。これは送らない。でも、存在させる。
送らない言葉は、送る準備の形をしている。準備がある限り、諦めの形にはならない。ツムギは画面を閉じ、耳の中のノイズを一度だけ押し出した。
ソラは銃を分解し、手入れを終えると、テントの入口で夜風を吸った。
「境界は、便宜的なものか」
独り言は短く、答えは要らない。要らない言葉は、心の中で静かに消える。消えたあと、形だけが残る。形が残れば、それでいい夜もある。
カイは見張りの順番を配り、最後に自分の名を一番早い枠に書いた。
誰より先に起きるという選択は、小さな反抗に似ている。反抗の矛先がどこかは、今は問わない。問わないうちは、矛先は折れない。
ユウは机の上に紙を出した。
ミナへ。レンが敵でも、ぼくは――
ペン先が震え、止まる。
言葉は、未送信のまま折られ、胸ポケットに戻る。折り目がひとつ増え、紙は厚くなる。厚くなった紙は、明日の朝も形を保つ。形がある限り、言えない言葉は死なない。
外で、鐘が一度鳴った。
修復中の音。高さは昨日より、ほんの少しだけ上。
ミナが耳を傾け、ユウも同じ方向を見る。音は風に削られながら、確かに届く。届く音がある限り、未送信は未完のまま生きていられる。未完は敗北じゃない。続きの形だ。
扉の隙間から、遠くの医務棟の屋根が見えた。
暗い窓。赤い点は見えない。
見えないものが消えたのか、隠れたのか。ユウはそれを考えるのをやめ、右手の甲を胸に当てる。“ミナ”の字は、心臓の上で微かに温かい。温度は資源じゃない。温度は所有できない。持ち運べるひかりだ。
眠りの浅いところで、ユウは夢を見た。
階段。白い壁。あの部屋のグラフの線が、鐘の波形に置き換わっていく夢。線の端に、“レ”の字が小さく灯る。灯りは消えず、どこにも送られず、ここにある。
目を開けると、テントの天井がいつもより低く見えた。
朝はまだ遠い。けれど、鐘の高さを測る耳は、もう起きている。
医務棟の暗所に残された小さなマイクは、赤い目を閉じたまま動かない。
誰かは見ている。
誰かが見ていることを、こちらも見る。
それが、今夜のやり返しだった。
やり返しは小さい。けれど、形ははっきりしている。
形がある限り、物語は続く。
続く限り、実験群という名前の外側に、名前のあるふたりが立ち続ける。
名前は資源じゃない。
名前は、呼ぶためにある。
ユウは胸の上で手を握り、ほどいた。
ほどいた指先に、まだ温度が残っていた。
それで、今夜は十分だった。




