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死んだ子どもたちの戦争  作者: しげみち みり


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8/20

第8話 未送信フォルダ

 翌朝は、雨の約束をしたみたいな空だった。雲は低く、野営地の上で擦れ合っている。掲示板に人だかりができて、ユウは寝袋から抜け出すと、その輪の最後尾に立った。紙の匂いが風に乗る。湿ったインクの匂い。近づくにつれ、ざらついた印刷の粒が目に見えてくる。


 粗いドットで組まれた文字。均一でない黒。

 タイトルは大きく、読みやすい。読みやすいものほど、読まれるようにできている。

 ――帰順プログラム。

 捕虜になれば保護され、記憶保持プロトコルが適用され、戦争を終わらせるための証言者として扱う。利点だけが並ぶ。費用は不要、保証は厚い、帰還の道筋まで丁寧に描かれていた。

 署名は、乱暴に、しかし目を引く太さで書かれている。

 レン。


 胸の内側が、すっと冷えた。

 ユウは読み終わった他人の肩越しに、もう一度だけ“レン”の印字を見た。見ている間に、字は紙から少し浮き上がって、空気の中に残る気がした。ミナが隣に来て、紙にそっと触れる。指先が紙の端に吸い付くみたいに離れず、少ししてからようやく離した。指先についたインクが、線になって残る。


「剥がす」


 カイが短く言って、紙の端を摘んだ。

 ツムギが一歩、前へ出る。「待って。記録しておきたい」

 カイの手が止まり、周囲の空気も一拍止まる。ツムギは無線の小さなカメラで全体を撮り、署名の“R”の曲がり、インクの滲み、紙の角の欠けまで順番に記録していった。ソラは輪の外、掲示板の影から周囲を一通り見渡し、視線の湿り気を嗅ぎ取るみたいに、少しだけ顎を上げた。


 班の空気は、目に見えない線で揺れた。

 捕虜になれば、終わるかもしれない。終わらせられるかもしれない。

 けれど、それは裏切りになるのか。

 それとも、誰かの命を守るための選択なのか。

 言葉にすれば、たやすく尖る。言葉にしなければ、胸の中で重さを増す。ユウは言いかけて、やめた。言葉は選び損ねた瞬間、刃になる。沈黙は長く伸び、輪の外へあふれ出る。掲示板の前から人が散りはじめ、最後にミナが紙から指を離した。


「剥がさない。……今は」


 カイがそう言って、紙の端を指で押さえ直した。決定は短いほうがよく、短い決定には、後で変えられる余地が残る。



 午前中、医療テントは不自然に整っていた。

 ミナは在庫整理を、異様な集中でこなしていた。包帯を折り畳み、ラベルを貼り直し、縫合糸を番号順に並べる。順番をつけられるものは、落ち着きやすい。落ち着きやすいけれど、意味は薄い。そうわかっていても、手は自動で動いた。

 ユウは外のベンチに腰をかけ、手帳の今日の欄を開いた。ペン先は紙の端で動きを止める。書くことは、ある。ないことにしておきたいだけだ。


 ツムギは無線機の中、誰もほとんど触れないフォルダを開いた。

 未送信。

 そこには、兄へ宛てたメッセージがいくつも保存されている。

 帰ってこい、ツム。

 帰ってこい、兄さん。

 帰らないで。

 全部、送られていない。送らなかった言葉は、送った言葉より重い。重いのは、届く速度がゼロだからだと、ツムギは思った。ゼロの重さは、動かないから重い。手に持って歩けない。だから、置いておくしかない。

 新しいテキストを作る。

 レンへ。これは送らない。

 指はつい“送信”に近い位置で止まり、彼女は画面を閉じた。送らないという行為も、選択だ。選択は記録できる。記録できる選択は、いつか誰かの手に渡る。



 任務は短い索敵だった。南西の尾根へ。

 掲示板のチラシの発信源の可能性がある。

 カイは隊を四人と後方一人に分け、野営地を出た。丘を二つ越えると、風の匂いが変わる。鉄に似た匂い。既視感のある乾き。尾根の手前に、屋根の傾いた廃屋があった。ソラが先に入って、窓という窓を射線で確かめる。安全が確保されると、皆で机の引き出しを開けた。


 封の切られていない手紙束。

 宛名は空白。切手は貼られている。投函されないための準備が整っている。ユウは一通を開いた。字は丁寧で、紙は安い。言い出せない謝罪、言葉にできない愛の断片。「次に会えたら笑って」のコピーが混ざっている。コピーのコピーは、線から湿り気を失って、軽くなる。軽くなった言葉は、風で簡単に転ぶ。転ぶけれど、読める。


 ユウは胸ポケットから、初日にミナが滑り込ませた紙片を取り出した。

 記憶欠落対策メモ。

 表の文言は、もう覚えた。手に書け、温度を確かめろ。裏面に、細く小さな文字が、脇に寄せるように書かれていた。

 ――ミナへ。レンが敵でも、ぼくは――

 文は途切れている。いつ、誰が書いたのか。自分の筆跡に似ている。似ているから余計に、頭の中の針が跳ねる。ユウは紙を折りたたみ、胸ポケットに戻した。折り目が一つ増え、文の断片はさらに短くなった。


「行くぞ」


 カイの声で、廃屋を出る。

 霧が尾根を覆いはじめ、視界は白く詰まる。音が近く聞こえる。靴の音が、地面と耳の距離を詰める。ソラが手を挙げ、停止の合図。全員が身を低くする。白の中で、短い発光信号が点滅した。間隔、間。ツムギがヘッドセットの片耳をずらし、唇の動きだけでパターンを数える。


「停戦意志あり。代表者のみ接触希望」


 ツムギの声は、霧に吸われずに届いた。

 カイは数秒、黙って霧の濃さを測るように見回した。ユウとミナの顔が薄く見える。ミナが一歩、前へ出ようとした瞬間、ユウは彼女の腕を掴んだ。指に力を込めるというより、順番を思い出させるために触れる。


「手順、決めてたろ」


 さよならの手順。十一話でやるはずだった、予定のある手順。

 笑う、銃を下ろす、手の甲を見る。

 ミナはうなずき、手の甲の“ユウ”を見て、一度だけ、深く息を吸った。息は飾りではなく、準備だ。準備があるから、手順が手順になる。


 霧の中へ進むのは、カイと、ユウと、ミナ。

 ツムギとソラが背を預け、索敵の視線を広げる。

 距離を詰めた瞬間、霧の縁で光がはじけた。ユウは反射で肩を入れ、ミナを後ろに引いた。罠か――体が先に固くなる。だが、発光は信号弾の誤射だった。霧が少し流れ、輪郭が浮かぶ。


 姿を現したのは、レンの副官だった。

 両手を上げ、武器は持っていないのを見せる。近距離で見ると、眼の下に薄い影がある。眠れていない影。カイは銃口を下げない。


「彼は、本気で終わらせたい」


 副官はそう言って、低い声で続けた。

「あなたたちが終わる前に、戦争を」

 ミナは唇を噛み、言葉を選ばずに口を開く。

「なら、どうしてチラシで煽るの」

 副官は答えなかった。代わりに、胸ポケットから小さな端末を差し出す。カイが受け取り、画面を確認する。記憶保持プロトコルの概要。対象、条件、手順。最後に、署名。

 ハシバ。

 ユウの背筋を冷たい風が撫でた。内側に敵がいる。外側の敵が、時に誠実なこともある。どちらも真実で、どちらも武器になる。


「戻る」


 カイは端末を懐に入れ、短く言った。副官は何も求めず、何も差し引かなかった。霧が閉じるように、姿は薄くなった。ユウは踏んでいた足場から一歩を外し、土の柔らかさを確かめた。柔らかいところほど、足跡は残る。残るということは、戻れるということでもある。



 帰投後、ユウは個人テントの中で、紙に向かった。

 明かりは弱い。紙は白い。ペンは重い。

 ミナへ。レンが敵でも、ぼくは――

 ペン先が止まる。止まったところから、言葉が水みたいにこぼれ落ちていく。拾えば濡れる。濡れた指で、また書くのか。ユウはペンを置き、右手の甲を見た。“ミナ”。朝の線より太く、今日の線は滲んでいた。滲んだ文字は、模様になる。模様は読めない日がある。読めない日は、なぞればいい。


 紙は、未送信のまま折られ、枕元のポケットに滑り込む。

 送れば、世界が変わるかもしれない。

 送らなければ、守られるものがあるかもしれない。

 どちらも本当かもしれず、どちらも逃げかもしれない。ユウは机の角に指を置き、角の冷たさだけを確かめた。


 ツムギは別の天幕で、兄へのメッセージを開いた。

 意図的に、送らない。

 「呼びかけは、ここに置く」と入力し、保存する。画面の中で、未送信フォルダの数が一つ増えた。増やすという行為に意味がある。意味があるとわかっても、外には出さない。出さないことで残るものもある。

 彼女は手帳に短く書いた。

 送らないという選択は、存在する。存在するなら、責任もある。


 ミナは裁縫箱の底から小さな布切れを取り出し、“レン”と小さく書いた。誰にも見せない。布は折り畳まれ、いちばん奥のポケットへしまわれる。お守りは、誰にも見せなくても効くことがある。効かない日もある。効かない日にも、触れれば温度はある。



 夜が降りる手前、掲示板の前をもう一度通ると、チラシは夜露でふやけていた。文字の輪郭が滲み、紙は指で押せば崩れそうだ。

 なのに、署名の“R”だけがくっきり残っている。

 濃さは、どこから来るのだろう。色の濃さか、意味の濃さか。ユウは一瞬だけ手を伸ばし、触れなかった。触れることが、決めることに繋がりそうで、指が宙で迷った。


 遠くで、鐘が一度鳴った。

 修復中の鐘の音は、まだ高さが安定しない。ツムギは顔を上げ、耳で測る。昨日より、少しだけ上がっている。紙に波形を描き、丸をひとつ、隣に添えた。

 ミナはユウの右手の甲を、人差し指でなぞる。滲んだ線の上に、もう一度、自分の“ミナ”を重ねる。書き直すたび、線は太くなる。太くなるほど、今夜は消えにくい。明日の朝には薄れるだろう。薄れたら、また書けばいい。


「ハシバに、聞くべきか」


 カイが言った。

 ツムギが頷く。「署名は本物だった。彼の端末のタイムスタンプも、嘘のつけない時間」

 ソラは無言で銃を拭き、最後のねじを締める。ねじが締まる音は、小さいが確かだ。確かな音は、記憶に残りやすい。残りやすいものから、明日は始まる。


 見張りの交代。テントの灯りがひとつ消え、ひとつ残る。

 ユウは枕元のポケットに手を入れ、折り畳んだ紙の角に触れた。角の鋭さは、昼より鈍い。鈍い角は、怪我をさせにくい。怪我をさせない言葉も、たしかにある。

 目を閉じる直前、無線が一度だけ震えた。ツムギがヘッドセットを耳に当てる。雑音の奥に、短い呼び声。

 ユウ。

 ほんの一呼吸分。返事をしようとした時には、もう消えている。

 ツムギは電源を落として、紙に一行書いた。

 呼ばれた。今夜は、それで十分。



 夜半、医務棟の灯りが細く点いた。ハシバは机に座り、端末の画面に指を滑らせる。記憶保持プロトコル。署名の下に、確認の印。彼はひとつ息を吐き、レコーダーを取り出す。赤い光が点く。


「記録。帰順プログラム周知による心理的影響は中程度。未送信の言葉が増える。増えた未送信は、行動抑制に働く。実験群の一部、反応良好」


 赤い光が、彼の指に滲む。

 録音を止めると、廊下の先で鐘の余韻が薄く聞こえた。彼は窓を開け、夜の風を吸い込んだ。風は味がない。味がないものは、基準になる。基準に、彼は安心した。安心した顔は、灯りが消えると、すぐに見えなくなった。



 夢の手前で、ユウは起き上がった。喉が乾いて、紙コップの水を飲む。冷たさが舌の上で均等に散り、喉を滑る。机の上に小さな欠片が置いてある。昨日拾った、割れた鐘の破片。裏側に映る月が、今夜はくっきりしている。

 欠片の縁に、影が重なる。紙片の“レ”の文字が、重なって見えた。

 見間違いでも、構わない。

 彼は欠片に指を触れ、軽く押えた。指の腹に冷たさが宿る。冷たさは、確かめるためにある。確かめられるものは、まだ失われていない。


 未送信の紙が、枕元で小さく音を立てた。

 音は呼びかけの形をしていない。それでも、返事を期待してしまうのは、こちら側の癖だ。ユウは紙を取り出し、折り目を開いて、また閉じた。開くことも、閉じることも、選択だ。選択は、明日にも残る。


 外で鐘が鳴った。

 一度。

 遠い。

 それでも届く。

 届く音がある限り、未送信は未完のまま生きていられる。

 ユウは紙を胸ポケットに戻し、右手の甲を胸に当てた。“ミナ”の字が、心臓の上で微かに温かい。

 送らない言葉を抱えたまま、彼は目を閉じた。

 眠りの底で、掲示板の“R”だけが濃く残る夢を見た。

 濃いものは、消えにくい。

 消えにくいから、明日もまた、選べる。

 選べるから、まだ終わらない。

 未送信フォルダは、朝まで静かに、重く残っていた。

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