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死んだ子どもたちの戦争  作者: しげみち みり


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第6話 小さな葬列

 薄曇りの朝は、夜の続きのように静かだった。

 野営地の隅、草も生えない硬い地面に、白い布が一枚敷かれる。布は洗ってあり、縁がわずかにほつれている。ミナが角を指で押さえ、皺を伸ばす。その手つきは丁寧というより、時間を遅らせるための所作に見えた。


 担架が来た。名簿上はアルファベットの符号で呼ばれていた少年兵。再起動が叶わず、本当の終わりに到達した者。カイは洗面器の水で彼の顔を拭い、目尻に残った砂を取り、髪を梳かす。指が髪の流れを逆立てずに戻るたび、カイの眉間の皺がわずかに深くなった。


 ミナは縫合糸をしまい、包帯で小さな輪を作る。花の代わりに、その輪を胸元へ留める。白い布の上で白が重なり、ひときわ明るく見えた。輪は花に似ていない。けれど、花を用意できない場所にいるという事実を、輪は受け止めてくれる。ミナは輪の中心を指で押さえ、強くも弱くもない力で一度だけ確かめた。


 ツムギは無線を切り、手帳に“葬列の順序”と書いた。その下へ番号を振り、先頭は鐘楼係、二番目に遺体、三番目に医療係、四番目以降に同僚たち。文字の線が落ち着いているのは、書くことで順序が現実の形を取るからだ。書ける限り、崩れにくい。ツムギはそう信じている。


 ユウは“二番目の左側”に立つよう指名された。手袋越しに担架の端を握ると、木の角が手のひらに当たる。右手の甲にある“ミナ”の字が、布越しの冷たさの中で、唯一の温度のように感じられた。そこに触れていると、手の中に小さな灯が宿る。字は簡単だ。けれど、簡単な字ほど消えにくい日がある。


「行くぞ」


 カイが短く言った。

 鐘楼係が先に歩き出す。葬列は野営地の外れへ、土の道をゆっくり進む。靴底が砂を噛む音が、固定された鼓動みたいに一定だった。周囲の兵士たちが距離をとり、帽子のつばに指を当てる。視線は高くも低くもなく、ひとつずつの別れを確かめる高さへ落ち着く。


 土は固い。先行した者が掘っている場所から、スコップの歯が石に当たる鈍い音が響いた。今日は乾きが早い、とソラが言った。ユウは頷くだけにして、担架の重さを確かめ直す。重いのは体ではない。終わりという名前が重いのだ、とユウは思った。


「鐘は、三度鳴らす」


 カイがかつて教えられた“決まり”を口にする。

 ひびが入っている鐘だが、今日だけは三度鳴らす、と彼は言った。ユウはその“決まり”という言葉の中に、小さな赦しがあると気づいた。決まりは人間が作る。ならば、悲しみの持ち運び方も、人間が決め直せる。鐘を三度鳴らすのは、残された側の都合だ。都合を持っていい。ユウは肩の力をわずかに抜いた。


 穴のそばまで来ると、鐘楼係が合図を送った。鐘が一度、低く鳴る。音は割れているのに、空気を押し広げる力は残っている。ツムギが一歩前に出て、紙を広げた。祈りの言葉は短い。紙にしておけば、声が震えても意味が落ちない。


「ここにあった温度が、次の温度を灯しますように」


 ミナが続けて口を開く。

「痛みは合図。愛は、もっと強い合図」

 その言葉を聞いた瞬間、ユウの胸の奥に、初日に拾った紙束の文言が重なった。大事なことは手に書け。温度を確かめろ。愛は信号よりも強い。文字は別の紙の上で、同じ形の列を組んだ。


 カイが視線で合図し、担架がそっと下ろされる。ユウは手袋を外し、白い布越しに一度だけ触れた。冷たい。だが、布は冷たさを受け止めてくれる。直接にさわらなくても、伝わるものがあるとわかる。


 鐘が二度目を鳴らそうとしたとき、丘の向こうから散弾の音が跳ね返ってきた。短く、濁った音。空気が凍るより先に、カイの手信号が飛ぶ。

 展開。

 ユウは担架を離れ、土塊の影に身を伏せた。ミナは遺体を覆う白布を押さえたまま、もう片手で止血帯と小さな医療ポーチを開く。ツムギは無線機の電源を入れ、鐘楼へ短く通知を送る。ソラは距離を測り、二発で前衛を止めた。乾いた音。視界に砂が散る。敵影がひとつ、石垣の向こうへ転ぶ。


 ユウは銃を構えた。照準の向こうに、さっきまでの静謐が反転した光景が広がる。白い布、掘りかけの穴、土の縁。引き金の上の関節が硬くなる。別の時間を思い出しそうになって、止まる。胸の奥から音が上がってくる。鐘の音ではない。もっと近い、自分の手の温度に似た音。


「ユウ」


 横から肩を叩かれた。ミナだ。

「ここは、わたしたちの場所」

 短い言葉が体に命令を通す。ユウは照準を下げ、狙いを“体”ではなく“足元の土”に置いた。土に一発。跳ねた弾が石を掠め、敵の足元へ飛ぶ。踵が浮き、体勢が崩れる。殺さずに近づけない線の引き方。ソラの弾がすかさず追い、カイの突撃が決まる。


 短い交戦。風の向きが戻り、砂が落ち着く。無線に鐘楼からの応答が入り、ツムギが短く了解を返す。ユウは銃を下ろし、呼吸を整えた。指先がまだ震えている。震えは消すものじゃない。震えが残るから、次の線を引ける。ユウはそう自分に言い聞かせた。


 鐘が二度、遅れて一度鳴る。

 本来の三と、戦闘中のふたつ。足りない一度をどう数えるかで、皆の表情が違った。ソラは顔を上げずに弾倉を点検し、ツムギは掘りかけの土を均す。カイは息を整え、視線で周囲を再確認した。ミナは白布を直し、輪がずれていないか確かめる。


 ユウは手袋を外し、白布の上からもう一度そっと触れる。

「ごめん、遅くなった」

 喉が痛む。音にすると、謝罪はたちまち自分に戻ってくる。戻った痛みを受け取る場所は、胸の真ん中にしかない。ユウは胸の前で片手を握り、開いた。温度は、まだそこにあった。


「葬列は中断しても、やり直せる」


 ツムギが手帳に書き、声にもした。決まりに書き足すのは、わたしたちの役目。彼女の言葉に、誰も異を唱えなかった。

 儀式は再開された。土を入れる。土は重く、音は鈍い。石を積む。石と石の間に、小さな布切れを挟む。布には、名前の最初の文字だけ。崩れかけの一文字。けれど、その一文字が風に揺れることで、ここに人がいた事実が立ち上がる。名前の全体はもう書けないかもしれない。だが、一文字でも、風さえあれば読める。


 作業がひと段落する頃、ソラが双眼鏡を覗き込んだまま息を呑んだ。

「丘の尾根、旗の影」

 声は低い。だが、確かだ。

 ミナが双眼鏡を借りる。覗いた視界の奥に、横顔が見えた。遠景の中で輪郭だけが浮かび、顎の角度に癖がある。見間違えるほど遠くない。錯覚で済ませられるほど近くない。


 レン。

 ユウの視界の中で、“レ”の字が濃くなる。書かずに残ったまま、褪せもせず、濃くなる。ミナの指がわずかに震え、カイがそっとその肩を支えた。ソラは双眼鏡を降ろし、視線だけで周囲の射線を確認する。ツムギは無線を上げかけ、やめた。ここは葬列の場。ならば、戦闘の手順は葬列の後に回すべきだ。ツムギの眼差しがそう告げる。カイが短く頷き、誰も動かなかった。


「最後の石を」


 カイの声で、再び手が動く。

 最後の石が置かれ、鐘が一つ鳴る。ひびの音は空にたち、遠くで別の鐘が遅れて応えた。夜に向かって伸びる影の上で、鐘の高さが少しずれ、二つの音が一瞬だけ重なる。その重なりは、誰かの笑い声の前半と後半みたいに、短く、確かだった。


「戻るぞ」


 カイが言った。

 ユウは視線を丘の尾根から外す。レンの輪郭は風に溶け、旗の影に呑まれていく。ツムギはノートに短く“応答あり”と書き、ページの端を折った。ソラは土の上に残った自分の足跡を一度振り返り、消さずにそのままにした。跡が残っている限り、戻ることも来ることもできる。


 ミナは白布の端を持ち上げ、輪の位置をもう一度確かめた。布の端が風であおられ、ほんの一瞬だけ、誰にも読めない筆跡が覗いた。

 ユ、に見える崩れた線。

 レ、に見える崩れた角度。

 どちらとも、どちらでもない。

 布はすぐに元へ戻り、文字は影へ沈む。


 夕方、野営地に戻ると、鐘楼係がひとつだけ鐘を鳴らした。数えるには足りず、忘れるには濃い音。ミナは洗面器の水を替え、指の間についた土を流す。ユウは右手の甲の“ミナ”の文字をなぞり、線の太さを確かめた。太い日は、消えにくい。消えにくい日は、書いた理由をあとから思い出せる。


 ツムギは手帳の今日の欄に“葬列は中断してもやり直せる”ともう一度書き、下に“鐘の高さ、二つのずれ”とメモした。ずれがある限り、合わせられる可能性もある。合わせないまま似ているものは、長く続く。彼女はページの端に丸を描き、真ん中を少しだけ開けておいた。空白は、呼吸ではなく余白として残す。


 ソラは銃を分解し、金属の芯に油を引いた。黙ったまま、最後のねじを締める。カイは皆の顔を順に見て数え、頷いた。頭数が揃っている。その当たり前が、今日の終わりの印になった。


 夜の初め、鐘が遠くで一度鳴った。短い風がテントを撫でる。ミナは裁縫箱を閉じ、毛布の端をユウの膝へ引き上げた。ユウはありがとうと言わずに、手の甲を見せた。ミナは微笑み、そこへもう一度自分の名前を重ねた。線が重なり、今夜の黒が深くなる。


 テントの幕の隙間から見える鐘楼の影は、昼よりも大きい。ひびに巻かれた布が、夜風にかすかに揺れている。ツムギは無線機の電源を入れかけて、やめた。今夜は書くほうがいい。彼女はノートに小さな文字を添える。

 温度は渡した。合図は届いた。

 葬列は道。道は、まだつづく。


 そして、丘の向こうでは、旗が夜の色に沈み、誰かの輪郭が夜の底へ落ちていく。目を凝らせば見えるものも、見ないと決めれば音に変わる。鐘がひとつ。遅れて、もうひとつ。高低が少しだけずれて、きれいな和音にならない。

 その不揃いを抱いたまま、彼らは目を閉じた。

 小さな葬列は終わった。終わったはずのその終わり方が、明日の始まり方に似ていた。


 風が白布の端をまた一度だけめくった。

 その一瞬、影の中に崩れた字が覗く。

 ユウか、レンか、区別のつかない線。

 誰も見ていないのに、風だけがそれを読んだ。

 布は落ち着き、夜は深まる。

 鐘は沈黙し、心の奥でだけ、三度目の響きが続いた。

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