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死んだ子どもたちの戦争  作者: しげみち みり


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第5話 通信は祈りに似て

 夜明け前、空はまだ色を持たなかった。

 ツムギはテントの端に腰を下ろし、無線機のダイヤルを最小音量に絞る。金属のつまみが指先に冷たい。アンテナを外へ少しだけ突き出し、幕の隙間を手で押さえた。誰にも気づかれない高さ、誰にも触れない幅。耳に当てたヘッドセットから、薄い雨みたいなノイズが流れ込む。


「こちらツム。呼ぶ。……兄さん、聞こえる?」


 応答はない。

 ノイズはただのノイズではなかった。針の先で砂を撫でるような高音、その下に、遠くの川の流れに似た低音。ツムギは目を閉じ、波形の揺れを頭の内側に写す。ノイズの山と谷は笑い声に似ていた。昔、兄がよくやった癖のある笑い方。呼吸の終わりで少しだけ息が混ざる、あの笑い方に。


「帰ってこい、ツム」

 記憶の中で兄が言う。ヘッドセットの隙間から、別の朝が入り込む。縁側、夕立ち上がりの湿った匂い、濡れた靴下を脱ぎながら兄が笑って言った台詞。

 ツムギはその言葉を“祈り”という名前では呼ばない。ただ、アンテナの向きを数ミリずつ変えた。角度をわずかに上げ、回し、戻す。布を擦る音を最小に抑える。手の甲に今日書き直した“ツムギ”の字が、汗で少し滲む。


 テントの奥でユウが寝返りを打った気配がして、ツムギは肩をすくめた。息を小さく吸い、ダイヤルをさらに絞る。ノイズは細くなるが、消えない。線を辿る指先が、見えない糸を引いているように感じられる。糸の先に人がいて、こちらを振り向いた瞬間に音が切れ、また繋がる。

 繋がっていなくても、繋ぎ方だけは忘れないでおく。ツムギはそれを自分の役目だと信じていた。



 天幕の外がうっすらと明るくなる頃、カイが短く号令をかけた。妨害電波が強まっている、とツムギは報告する。地図上の回廊は意味を失い、北に寄せていたルートは灰色の塗り潰しに変わった。コンパスの針が迷い、同じ角度を行き来する。


「判断は保留。風を見ろ。湿り気の向きで川を探す」


 ソラがそう言って空気を嗅いだ。土の匂いが薄い、金属の匂いが濃い、遠くに鉄橋がある、と彼は結論だけを差し出す。カイは頷き、列の順番を変えた。ユウは殿に下がり、ミナは後方気味に回って遅れる兵の背を押す。ツムギは中央で無線機を抱え、アンテナを低く構えた。


 ノイズは濃く、しかし一様ではない。谷間にほんの一瞬、平らな面が現れる。そこに細い線が走る。ツムギは息を止め、指先でダイヤルを軽く撫でる。音がひとつ、言葉の手前で折れていく。兄の口癖に似ていた。似ていて、同時に敵の暗号にも似ていた。意味のあるリズムは、誰の手にも落ちる。


「右三歩、細道」


 ツムギは声を出した。隊列が素直に動く。崩れた土の段差を避け、鉄条網の残骸を跨ぐ。道が一本、細く現れた。カイは顔色を変えず、手で二度、進めの合図を出す。

 ツムギは歩きながら、矛盾に触れていた。拾っているのが兄の声の形だとしても、それが敵の発した暗号だとしても、結果は同じここに落ちる。どちらでもよかった。祈りは行為で、結果は現実に落ちる。彼女は心の中で、その矛盾に形を与えた。形は、言葉が生まれる直前に似ている。


 倒壊した高架の下をくぐる時、ミナが足を止めた。コンクリートの柱に、小さな落書きがあった。

 ここで雨やどりをした。

 なまえをかいた。

 雨で流れて、名前は形だけになっていた。丸、棒、折れ。ツムギはその形をノートに写した。名前の中身が洗い流されても、線は残る。線は、次に書く人の手に似る。


「先へ進む」


 カイの声は一定だ。ユウが振り返り、ミナに短く頷いた。ミナは笑い、すぐ前を向いた。その笑顔に、ツムギは安心する。安心する一方で、胸の奥の針が一度だけ跳ねた。

 レン。

 昨夜、司令部から届いた通達の最後にあった二文字。まだ声にするには硬い。ノイズの奥の誰かの笑い声と重なって、喉の手前で形を失った。



 昼を少し回った頃、包囲が狭まった。左右の建物の幅が詰まり、路地は一本の管みたいに細くなる。正面で影が動き、背後からも靴音が近づいた。銃声が重なり合い、空気が一瞬で重くなる。


「右!」


 ツムギは無線の微かな谷間に兄の声を重ね、叫んだ。

 ユウが身を翻し、ソラが射線を通す。金属が弾に触れる乾いた音。敵の影が崩れる。左にも気配。ツムギはダイヤルをひねり、もう一つの谷間に指を落とす。「左、上!」 ソラの弾が屋根の縁を掠め、埃が落ちる。カイは最短距離の角を選び、隊は呼吸を合わせて走った。


 走りながら、ツムギは考える。もしこの声が敵の罠だったとしても、わたしの祈りが生んだ結果なら、引き受けよう。自分の足で選んだ道が、誰かの声に似ているだけだ。責任を割らない。彼女はそう思った。

 手の甲の“ツムギ”が汗で滲む。汗は乾いて、文字の端に塩の白い跡が残る。書き直すほど、線は太くなる。太くなって、形は簡単になる。簡単になるほど、消えにくい。ツムギはそれを良いことだと思い、同時に少し怖いとも思う。


「一度、落ち着け」


 カイが狭い中庭に皆を押し込んだ。壊れた噴水台の石縁が、座るのにちょうどいい高さだった。ミナが応急の包帯を出し、擦り傷を手早く止める。ユウは殿から入ってきて、入口に銃口を向けたまま息を整える。ソラは黙って弾倉を点検し、ツムギは壁に背をつけて無線機の蓋を開けた。

 ノイズの山がひとつ、ゆっくりと崩れた。

 風の音が混じる。

 「帰ってこい、ツム」

 耳の奥で声がした。

 ツムギは首を振り、ダイヤルを一段戻した。ノイズは元に戻り、声は波形に溶けた。


「進む」


 カイが短く言った。誰も反論しない。立ち上がって、また走り出す。足音のリズムがそろうと、怖さは遅れて追ってくる。遅れてくるから、その間に進む。ツムギはそれを何度も覚えて、何度も忘れてきた。



 夕暮れ。通信の穴を抜けた。

 突然、無線が鮮明になった。司令部の声が雪崩のように押し寄せる。「位置を報告しろ」「迂回せよ」「先の交差を避けろ」。カイは冷静に状況を伝え、短い言葉だけでやりとりを終わらせた。

 ユウとミナが互いの肩で笑う。生きて戻った事実が、理屈より先に身体を温める。ソラは空の色を確かめ、風の向きが夜に傾くのを見ていた。ツムギは指先の震えが止まるのを待って、無線機の電源を落とす前に、ほんの短い一言を送った。


「兄さん、帰ってきたよ」


 返ったのは、正規の暗号音だけだった。

 ツムギは電源ボタンに指を置いたまま、数秒だけ待った。ノイズが一枚薄くなり、どこかで誰かが小さく笑った。

 敵の暗号である可能性は高い。そう思う。思っているのに、耳の奥で“ほんとう”が頷いた。

 泣かない。問い詰めない。

 ノートに一行、増やす。

 それでも、声は本物だった。



 夜。補修された鐘が試しに鳴らされた。ひびの入った音だが、確かに空気を揺らす。音が近くの壁を洗い、地面の砂がわずかに揺れる。皆が顔を上げた。

 ツムギは耳で周波数を測る。音の高さ、下がり方、余韻の長さ。紙を膝に乗せ、鉛筆で波形を描く。線は兄の笑い声の線に少し似ていた。似ている、というだけで十分だった。似ている二つの線は、重ねればひとつに見える。見えている間は、確かだ。


 ユウは手帳に“帰還”と書いた。ミナはユウの右手の“ミナ”を重ねてなぞる。なぞる手つきは柔らかい。ソラは銃を拭きながら、何も言わない。カイは頭数を声に出して数え、最後に短く頷く。

 鐘は一度だけ鳴り、止んだ。余韻が消える頃、通信兵が走ってきた。封の甘い紙が渡される。カイが受け取り、皆の前で開いた。


「司令部より。敵レン隊、明朝南西へ移動。交戦可能性高」


 レン、という音が空気に落ちた瞬間、ミナの肩が小さく震えた。

 ユウがそっと視線で問いかける。ミナは頷いた。言葉は出さない。ツムギは彼女の手の甲を見る。そこには濃い“ユウ”の文字。インクが今日の終わりの色をしている。


「各自、準備」


 カイが散会を告げると、皆はそれぞれの場所へ散った。

 ツムギはテントに戻る途中、鐘楼を見上げた。布で巻かれた亀裂が夜風に揺れる。破れやすいところほど音を持つ、と彼女は思った。音は脆さの証拠で、同時に距離の証明だ。遠くの人に届くのは、強さよりも、繋ぎ目の多い音だ。



 ツムギの手元には、今日のノートがある。ページの上部に“穴—脱出—回復”と三つ並べ、左に時刻、右に合図を書いた。中央の欄には、拾った“形”。高架下の落書きの線。丸、棒、折れ。

 ページの隅に“祈り”という言葉を書きかけて、やめた。別の言葉に置き換える。呼びかけ。合図。戻り道。書き足して、消し、また書く。紙が薄くなり、鉛筆の芯が短くなる。


「ツム」


 入口の幕が揺れて、ミナが顔を出した。

「さっきは助かった。右って声、聞こえた」

「ノイズ。たまたま、谷間ができただけ」

 そう言うと、ミナは少しだけ笑った。

「たまたまでも助かるなら、それでいいよ。……ねえ」


 ミナはツムギの手を取った。手の甲に指で丸を描く。今日、ユウに教えた“○”と同じ大きさ。同じ速度。

「言葉が出ない時は、これ。明日の朝まで、消えないかもしれない」

 ツムギは頷く。丸の、閉じたところに少し隙間がある。そこから風が出入りする。風が入る限り、音は止まらない。


 ミナは幕を下ろし、隣の天幕へ走っていった。ツムギは丸の上から、自分の名前をもう一度なぞった。

 ツムギ。

 字は太く、指は温かい。

 電源を落とした無線機は静かだが、沈黙の中にも形はある。形を描くのは、いつだってこちら側の手だ。



 夜更け。外の見張りが交代し、靴底の音が一度遠のいた。ツムギは再び無線機の電源を入れ、ダイヤルを最小に絞る。誰にも気づかれない周波数。誰の声でもない波形。

「こちらツム。……兄さん」

 ノイズに、ひとつの山が立ち上がる。

 笑い声に似ていた。

 ツムギはアンテナを数ミリ上げ、幕の隙間に耳を寄せる。指でメモの端を押さえ、鉛筆を浮かせたまま止める。線を引くのは、返事が終わってからでいい。


 返事は、なかった。

 それでも、ノイズの谷間にひとつだけ平らな面が残った。そこに、彼女は言葉を置く。


「明日の南西、気をつける。……おやすみ」


 電源を落とす。静かになる。

 外で、補修した鐘が風に触れて、小さく鳴った。音はかすれ、しかし確かだった。ツムギは波形の残りをノートに描く。兄の笑い声の線と、鐘の線が、紙の上でゆっくり近づく。交わる前に、彼女は鉛筆を止めた。交わらないまま似ているものが、いちばん長く続く。



 明け方、空の底が薄く明るくなった。

 ユウは手帳に一行書いた。“帰還”。書いてから、右手の甲の“ミナ”を確かめる。ミナはその上からもう一度、濃くなぞる。線が重なり、今日の朝の色になる。ソラは無言で銃を肩に掛け、カイは皆の顔を順に見て頷いた。

 ツムギは最後に、無線の蓋を閉めた。手の甲の丸は、まだ温かい。丸の中央に、細い“しるし”を付ける。今日の印。呼びかけの印。

 司令部の通達は短い。「敵レン隊、南西へ移動。接触を予測」

 ミナの肩がもう一度、小さく震えた。彼女は自分の手の甲に“ユウ”を重ね書きし、インクの濃さを確かめる。決意の色は、黒に近い。


 通信は祈りに似ている。

 祈りは届かなくても、形を持つ。

 形がある限り、人は進む。

 ツムギは無線機を背負い、最初の一歩を踏み出した。

 鐘楼のひびは夜露で光り、風の向きは南西に傾いていた。

 彼女の耳にはまだ、ノイズの奥の笑い声が小さく残っている。

 それが誰のものでも、今日の道は一本だ。

 音を拾い、手を伸ばし、名を呼ぶ。

 そして、返ってこなくても、返ってくるものとして前に進む。

 隊は動き出した。空は淡い色を見せはじめ、野の影が細く伸びた。

 朝の最初の風が、紙の端を一枚だけめくる。ノートの隅に描いた波形が、光に触れて柔らかく揺れた。

 通信は祈りに似ている――ツムギは心の中で結論だけを置き、口には出さなかった。

 出さない言葉の分だけ、今日の無線は冴える。

 その自信が、いちばん小さな灯りになった。

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