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死んだ子どもたちの戦争  作者: しげみち みり


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第4話 倫理訓練

 翌日の午前、医務棟は消毒液の匂いが濃かった。薄い硝子窓から差し込む光が金属のベッドに白い帯を作り、そこに紙と器具が整然と並んでいる。ハシバは姿勢よく立ち、指先で黒板の端を一度だけ叩いた。合図の音が小さく響く。


「では、倫理訓練を始める」


 淡々とした声だった。だが、その抑揚のなさが、かえって言葉の輪郭を鋭くする。市民地域の識別、過剰破壊の抑止、捕虜の扱い。ハシバは要点だけを切り分けるように並べ、例外条項を読み上げては、線で囲む。


「再起動兵は社会の痛みを肩代わりする仕組みだ。君たちは、痛みの器だ」


 器、という単語が出たとき、ユウの肩がわずかにこわばった。自分の内部にあるものが空洞の容れ物だと言われたようで、胸が冷たくなる。ミナが何か言い返しかけた。唇が動いたが、声にならない。彼女は短く息を飲み、視線を落として黙る。ハシバは誰の反応も拾わない。


「再起動時の記憶保持率について」


 黒板に貼られたグラフに木製の指示棒が触れる。折れ線は何本も重なり、要素ごとに色分けされている。恋人、家族、友人。ラベルの近くで折れ線が高く並ぶ。


「保持率は親密度の自己申告と相関がある。特に恋人関係の個体では、再起動後の行動一貫性と戦闘効率の指標上昇が認められる。実験群のデータだ」


 実験群、という言葉がさらりと出た。カイの眉がかすかに動いた。ツムギは筆記を止め、ペン先で紙の端を押さえたまま指を固める。ソラは顔を上げない。金具を抜き差しする音だけが、彼の手元から絶え間なく続いていた。


 ハシバは黒板の片隅に新しい紙を貼る。そこには、再起動後の注意事項が箇条書きで並んでいる。手の甲に名前を書け。温度を確かめろ。声は録音に頼るな。どれも既視感のある文言だった。


「ここまでが講義だ。続いて、模擬体験に移る」



 訓練場は建物の裏手にあった。壁面に埋め込まれたスクリーンが一枚、椅子が五脚、床にはテープで色分けされた印。天井のランプが低く唸り、換気扇がゆっくり回っている。


「段階消去シミュレーターだ」


 ハシバがリモコンを持ち、説明する。スクリーンには、一人の人物像が投影された。輪郭がやわらかく、表情が見えそうで見えない。上部には五つの指標が並ぶ。名札、顔、声、手触り、匂い。緑のランプが一つずつ灯り、手順を示した。


「対象のイメージを維持したまま、指標を段階的に薄めていく。君たちは各段階での自己感情を言語化し、記録者に伝える。最後に残るものは何か、それを覚えておくこと」


 ユウが最初に座る。冷たい椅子の背もたれが肩甲骨に触れ、背筋が伸びる。スクリーンの人物像に、輪郭が肉付けされていく。名札の欄が光り、文字列が現れかけて、ふっと薄くなった。顔の解像度が落ち、目鼻の位置がゆっくり崩れていく。声が一度だけ響いて、音楽の終止のように静かになる。手触りの欄が点滅して消え、匂いの欄に微かな波形が残った。ユウは右手を膝の上で握る。喉の奥がひきつり、うまく飲み込めない。


「残った感覚は」


 ハシバの声。ユウは目を離さずに答える。


「温度です」


 スクリーンの光が一瞬だけ揺れた。その揺れが返事のように思えて、ユウは視線を上げた。ハシバが記録の欄に鉛筆で印をつける。


「次、ミナ」


 立ち上がると、彼女は少し笑って見せた。座ってすぐ、胸が波打つように上下する。名札の欄が薄くなる瞬間、彼女の目元に影が落ちた。声の欄がフェードに入ると、膝から力が抜ける。ユウは反射的に駆け寄り、ミナの肩を支えた。彼女の体温が制服越しに伝わってくる。スクリーンの光が皮膚に反射し、額に淡い色が走る。


 ハシバは静観していた。記録の鉛筆が紙を押さえつける音だけが、彼の手元から聞こえる。


「反応は貴重だ。実戦に役立つ」


 言い方が軽い。カイが一歩前に出かける。ソラがさっと袖を掴み、視線だけで制した。ミナは短く息を吐いて頷く。立ち上がると、無理に笑顔を作った。ユウの手から離れても、温度だけが掌に残っている。


 ツムギは自分の番で、目を閉じずにスクリーンを見続けた。名札が消え、顔が薄れ、声が消えるたび、彼女は口の中で言葉を繰り返す。「固定じゃなくて、結び目」。やがて波形は一つだけ残り、温度の欄が細く揺れ続けた。ツムギは記録用紙の端に小さく書く。名前は置いていくもの、温度は持っていくもの。



 休憩室に移ると、紙コップに注がれた水がサーバーの照明を反射していた。窓の外で、鐘楼が空を切るように立っている。近くで見ると、鐘に細い亀裂が入り、布で巻かれているのがわかった。鳴らされるたびに、少しずつ裂け目が広がるのだ、とカイが呟く。


 ミナは紙コップを両手で持つ。指先に水滴がつき、すぐに溶けて消えた。


「わたしたち、何度も別れの練習をしてるのに、上手くならないね」


 ミナは笑って言う。ユウは頷き、右手の甲を見せた。インクが少し薄れている。書き足したばかりの“ミナ”の線が、もう朝より頼りない。


「上手くならないほうが、いい」


 ツムギが紙に書きながら言う。痛みに慣れた手順は、痛みの意味を薄くする。ソラは分解したボルトを整列させ、順番どおりに戻していく。金属の擦れる音が一定の速度で続く。カイは座ったまま、鐘楼の方を見た。彼の目は、鐘の亀裂ではなく、その周囲の空を測っているように見えた。



 午後、個別面談。ユウとミナは同じ部屋に通された。窓のない狭い部屋。白い机。壁の時計が音を立てずに動く。ハシバは書類の山から二枚取り出し、机に並べた。グラフと数値の羅列。その上に、ふたりの名前がやや濃いインクで印字されていた。


「君たちは“対”だ。相互補完で保持率が高い。戦闘効率は平均より二一パーセント上がる」


 数値だけが先に部屋に入ってきたみたいだった。ユウは吐き気を押し込む。自分たちの感情の残り香が、計算式の中の小数に変わっている。ミナは机の端に指を乗せた。


「効率のために恋人を続けろってこと?」


 ハシバは一瞬だけ笑顔を作った。返事にはならない笑顔だった。黙って書類の角をそろえる。ユウの右手が汗ばみ、ペン跡が薄れる。自分でも気づかないほど強く握っていた。


 面談の最後、ハシバは声を低くした。


「君たちは実験群だよ。胸を張って良い」


 胸は張れない。むしろ小さく縮む。ユウは窓のない壁を見た。そこにあるのは藍色の汚れ一つと、塗料の剥がれかけた白。ミナは席を立ちながら、机の上に視線を置いてきた。紙の端に、インクの点がひとつ。涙の形に見えた。



 夜。テントに戻ると、ソラが銃の分解整備をしていた。金属の芯に油を塗り、丁寧に布で拭き取る。彼は顔を上げずに言う。


「戦える理由が理由で、戦わない理由が愛なら、俺はそっちを信じる」


 言葉少なな慰め。ユウの肩からゆっくり力が抜けた。ミナは小さく笑って、ソラの作業台に清潔な布を足した。ツムギは紙の端に走り書きをする。倫理は、数式じゃなく手触り。書いてから、筆圧が強すぎたと気づき、もう一度同じ言葉を軽くなぞる。


 鐘が鳴る。一回。間を置いて、もう一回。音の高さがわずかに違う。ユウは無意識にその差を数え、手帳を開いた。昨日の欄に小さく印をつけ、今日の欄には新しい項目を作る。“温度の記録”。ミナの指の温度、三十六度台の柔らかさ。手のひらに描かれた丸の感触。記録というには曖昧で、けれど数値よりも確かなこと。


「今日は早く寝ろ」


 カイが言う。声は固いが、促す手の形は優しい。ユウはテントの端に腰を下ろし、薄い毛布を膝上に広げた。ミナが隣に座る。肩が触れる距離。言葉を出す代わりに、彼女はペンを取り、ユウの右手の甲をもう一度なぞった。薄れかけた“ミナ”の上に、やわらかい線を足す。上書きされた名前は少し太くなり、今夜だけを明るくする文字になった。


「明日、また消えるね」


「うん。だから、明日の朝も書こう」


 ミナは頷き、ペンのキャップを閉めた。ソラの手元で、最後のねじが締まる。ツムギが無線を短く鳴らし、兄のコールサインを一度だけ打ってから、そっと電源を落とす。返ってくるのは静かなノイズだけ。そこに笑い声の形を探すのはやめたのだ、とユウは思う。


 ヒーターの唸りが低く続く。外の風が幕を押して、薄く膨らませる。幕が戻るたびに、室内の空気がわずかに揺れ、ランプの光が点のように瞬く。



 同じころ、医務棟の廊下は暗かった。ハシバは一人で歩き、録音用の小さなレコーダーを取り出す。赤いランプが点灯する。廊下の角、壁の汚れが集まった場所に背を預ける。押し殺した声が機械に吸い込まれていく。


「記録。恋人記憶は戦闘効率を高める。実験群の追跡を継続。保持率と反復任務の相関は正。負荷による鈍化は一時的。機能的には問題なし」


 言葉が続いたあと、短い沈黙が落ちた。ハシバはレコーダーを見下ろす。そこに映る自分の影が小さく揺れ、赤い光が指に滲む。舌で唇を湿らせ、さらに付け加える。


「器、という比喩は有効。痛みの容れ物。教育効果あり」


 録音を止める。赤い光が消える。ハシバはレコーダーをポケットに戻し、医務棟の奥へと歩いた。薄い灯りが彼の背中を短く照らして、すぐに引いた。



 夜の終わり。ユウは眠れずに手帳を開いた。今日の欄に小さな記号をいくつも並べ、行の端にだけ言葉を書いた。消えた文字、上書きされた文字、残った丸。温度の欄に、ミナの指の温度と、昼のスクリーンに残った温度の波形についての覚え書き。何度も同じ字を書き、インクの濃さがムラになる。


 ペンを置いたとき、遠くで鐘が鳴った。低く一回。遅れて、違う高さで一回。ユウは目を閉じ、音の差を数える。昨日より少し広い。紙の端を風が捲る。机の上に置いていた別の紙が傾き、表から裏へと転がった。裏面に、見覚えのある字が一つだけ残っている。


 レ。


 筆圧がばらつく、なぐり書きの“レ”。誰が書いたのか、分からない。自分の手かもしれないし、ミナの手かもしれない。昼間、倒れていた狙撃兵の紙の最後にあった頭文字を思い出しそうになって、ユウは目を開けた。風がまた吹き、紙が小さく跳ねる。表に返った紙に書かれていた“ミナ”の文字が、一瞬だけ影に隠れた。


 消える。隠れる。戻る。上書きされる。その往復運動が、今日の終わりをゆっくり描く。ユウは毛布を肩まで引き上げ、右手の甲を胸にあてた。温度は、まだあった。明日の朝には薄れる。それでも、今は確かにある。


 ヒーターの音が、海の底のように低い。ツムギの寝息が一定で、ソラの寝返りで小さく布が鳴る。カイの気配がテントの外にある。見張りの靴底が砂を踏む音が、間隔を空けて返ってくる。ユウはその全部を数え、数えきれないところで眠った。


 倫理訓練の一日は終わった。終わり方は正確で、始まり方はいつも曖昧だ。明日の朝、また薄闇で目を開けるだろう。胸ポケットから紙が落ち、「右手を見ろ」と書かれた自分の字が、今日よりも少し震えているだろう。器という言葉を、きっと思い出す。器でありたくない自分も、同時に思い出す。名前を書き、温度を確かめ、鐘の高さを数える。そうして一日を始める。


 廊下の暗がりで止められた録音は、誰にも聞かれていない。けれど、次の話の火種は、すでにここで火を持っている。燃え移る先は、まだ誰も知らない。鐘楼の亀裂がもう少し広がると、音の高さが変わる。ユウの手帳の欄外に、そのための余白がひとつ残っている。明日、そこに何かが書かれる。あるいは、ただ温度だけが記録される。どちらでも、夜は朝に変わる。名前は上書きされ、同じ別れは二度と同じにならない。

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