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死んだ子どもたちの戦争  作者: しげみち みり


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第3話 名前の交換

 午前八時。補給車のエンジン音が、休息地の砂を震わせた。

 灰色の車体が止まると、乾いた風に乗って砂埃が立ち上る。

 ユウは手の甲で汗を拭いながら、積み荷を下ろすミナの背を見ていた。

 機械油と太陽の匂いが混じる。戦場の朝にしては、あまりにも穏やかな空気だった。


「ねえ、名前交換式やろう」

 ツムギが、口の端で笑いながら言った。

 いつものように無線を抱え、油染みのあるノートを片手にしている。

 「再起動のたびに思い出せるように。忘れないように」

 そう言いながら、彼女はマーカーを差し出した。

 “儀式”という言葉を使うほどの大げさなものじゃない。けれど、この隊では、誰もがそれを必要としていた。


 ミナがユウの前に座る。

 彼女の指先が少し震えている。

「いい? 動かないで」

 そう言って、マーカーを握った手でユウの右手の甲に、自分の名前を書いた。

 “ミナ”。

 丁寧な筆跡だった。線が揺れず、まっすぐに伸びている。

 書き終えると、ミナは笑って見せた。

「これで、明日のわたしにも会える」


 ユウはマーカーを受け取り、彼女の手の甲に“ユウ”と書いた。

 最初の線が震えたので、もう一度上からなぞる。

 その瞬間、ふと自分の右手を見返す。

 “ミナ”の文字の上に、古い傷のような“レ”の縦棒が薄く残っていた。

 言葉が喉まで出かかったが、飲み込んだ。

 それを聞いてしまえば、何かが壊れる気がした。


 ツムギが記録帳に日付をつける。

「よし、これで今日の再起動前は安心」

 その言葉に、誰も笑わなかった。

 “安心”という言葉が、もうここではあまりにも遠いものになっていた。



 昼前、補給任務が割り当てられた。

 街道沿いを戻る護衛任務。

 風は乾いていて、鼻の奥に粉塵が張りつく。

 ユウは銃を肩にかけ、ソラの背を追う。

 ツムギが通信端末をいじりながら言う。

「このあたり、電波が抜ける。兄の声も、もう届かないかも」


 その言い方が妙に軽くて、ユウは言葉を返せなかった。

 ミナが笑って肩をすくめる。「それ、いつも言ってる」

「言わないと、忘れるからさ」

 ツムギの目は少し赤く、けれど明るかった。


 途中、廃屋の前でカイが手を上げた。

「十秒だけ休憩だ」

 屋内に入ると、壁に古い書置きが貼られていた。

 “ここで笑った”“次に来る誰かへ、水を残す”。

 匿名の筆跡。小さな字で、しかし力強い。

 ミナが指先で文字をなぞり、少し微笑んだ。

「いいね。こういうの」

 ユウはその笑顔を見つめながら、胸の奥に静かな熱が灯るのを感じた。

 それが懐かしさなのか、悲しさなのか、自分でもわからなかった。



 丘を越えたとき、風が一気に冷たくなった。

 砂の色が灰に変わり、地平の向こうに鉄骨の影が伸びている。

 そのとき、ソラの声が鋭く飛んだ。

「狙撃の気配。伏せろ!」

 次の瞬間、銃声が鳴った。

 運転席のガラスが砕け、破片が風に舞う。


 ユウはソラに肩を押され、遮蔽物の陰に倒れ込む。

「狙う時は、理由じゃなく輪郭を見る」

 短い声が耳に届く。

 ユウは頷き、照準を合わせた。

 遠くの廃ビルの屋上。

 スコープの中で揺れる影を、線と形に分解していく。

 ――撃てない。

 指が、また止まった。

 呼吸が浅くなる。

 その間にも、敵の照準がこちらを捕らえる。

 弾が飛び、壁を貫いた。カイの怒声が響く。

「ユウ、撃て!」


 ユウは反射で引き金を引いた。

 一発目は外れた。

 二発目が壁を跳ね、相手の肩を掠める。

 ソラの三発目が続き、確実に敵の動きを止めた。

 銃声が途絶える。

 風が戻る。

 静寂が、急に重くなる。


 ユウは立ち上がり、崩れた屋上へ向かう。

 そこに倒れていたのは、まだ若い兵士だった。

 胸ポケットから、丁寧に折られた紙が見える。

 ユウは無意識に手を伸ばした。

 開くと、そこに丸い字で数行が並んでいた。

 “次、会えたら笑って”。


 紙は汗で柔らかくなり、角がすり切れていた。

 何度も読み返された跡。

 ミナがその紙を見て、唇を噛んだ。

 ユウは胃の奥が裏返るような感覚に襲われた。

 吐き気と罪悪感の区別がつかない。

 ツムギが記録を取り、最後の行を目で追う。

 しかし、声には出さなかった。


 そこには、小さく“Rへ”とだけ書かれていた。

 ユウはその文字を見ていたのに、意味として結べなかった。

 結びたくなかった。



 帰路。

 夕暮れの風車小屋に立ち寄る。

 風は赤く染まり、空が燃えるように見えた。

 中には誰かが残した紙コップと、使いかけのマーカーが転がっている。

 ミナはそれを拾い、キャップを外した。

 そして、自分の手の甲にもう一度“ミナ”と重ね書きする。


「消えてもさ、何回でも書けば、最後に残るのは手の温度だよ」

 そう言って笑う顔が、夕陽に照らされていた。

 ユウはうなずいたが、喉が詰まって声が出なかった。

 その横で、ツムギがメモに何かを書き込む。

「名前は、固定じゃなくて、結び目」

 小さく呟いて、無線機に兄のコールサインを打った。

 返ってきたのはノイズだけ。

 けれど、そのノイズの波形に“笑い声”のような揺らぎが混じっていた。

 ツムギの目が一瞬だけ潤み、それから何も言わなかった。


 カイが手を叩く。「出発だ。日が沈む前に戻る」

 ソラは風の向きを見上げて、雲の裂け目を指でなぞった。

 風車が一度、軋むように鳴った。

 その音が、まるで鐘の前触れのようだった。



 夜。

 ユウはテントの端で、ノートの切れ端に何かを書こうとしていた。

 ペン先が紙の上を滑るが、線にならない。

 ミナが背中からそっと抱きしめる。

「言葉が出ないときは、手だけでいい」

 彼女はユウの手を取り、自分の掌に“○”を描いた。

 丸い形が、ゆっくりと皮膚に残る。

 言葉よりも確かな、温度の印。


 外から、鐘が一回。

 遅れて、遠い場所でもう一度。

 音の高さが少し違う。

 ユウはその差を数えながら、瞼を閉じた。

 眠りに落ちる瞬間、誰かの指が右手を撫でた気がした。

 けれど、目を開けても誰もいなかった。


 机の上の紙が、風で揺れた。

 そこには、なぐり書きの“レ”の一文字。

 誰が書いたのか、わからない。

 風がまた吹き、紙がめくれた。

 裏には、ミナの名前が書かれていた。

 その一瞬、光が反射して見えなくなる。

 まるで、名前そのものが世界から“消える”瞬間のように。


 テントの外で風が鳴った。

 ユウは薄い毛布を握りしめ、目を閉じた。

 記憶の端で、ミナの声がかすかに囁く。

 ――会えたら、笑って。


 その声の残響だけが、朝を迎えるまで消えなかった。

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