第20話 終戦日記
夜が明ける前、空の端が白みはじめた。
風は冷たく、でも痛くはなかった。草の先に小さな露が並び、まだ誰も歩いていない道を、光がゆっくり撫でていく。
ユウは薄いノートを膝に置き、ペンを持った。表紙には、簡単な文字で「終戦日記」と書かれている。いつ書いたか覚えていないが、紙の匂いは新しかった。
最初の行に、日付を書く。
書く言葉が浮かばない。胸の奥にあるのは、静けさだけだ。
ユウは右手の甲を見下ろす。そこには、もう何も書いていない。
インクの痕跡も、かつての名前の線も、すっかり消えていた。
「書かなくても、手は覚えてる」
ミナが笑いながら言った。
ユウは頷き、空白の上に自分の手を重ねた。触れた瞬間、指の裏に確かな温度があった。それだけで充分だと思えた。
日記は戦場の記録ではない。
撃った数も、命令の経路も、地図の線も、ここには書かない。
書くのは、鐘の音の高さ、ミナの指の温度、レンの冗談の間の長さ、ツムギの無線に混ざる笑い。
それらの“非効率”を、集めておきたかった。
ユウは書き始める。
「今日は鐘が二回。二つ目の音は、少し高い。たぶん新しい鐘。ソラはそれを“若い音”と言った。カイは笑わなかったけど、目が笑っていた。ミナは包帯の端に“笑う”と書いた。レンは遠くから手を振った。ツムギは、空白を残した」
ページの余白が、朝の光で白く光る。
白は忘却の色ではない。
これから埋められる“余地”の色に見えた。
昼になると、野営地に人の声が戻ってくる。
ミナは医療ボランティアとして配給所のテントへ戻り、子どもの肘に絆創膏を貼り、老人の脈をとる。
笑顔が増えても、誰かが泣く音は消えない。だが、その音は昨日よりやわらかかった。
ユウは鐘楼の修復を手伝っている。
金属の冷たさが、掌の中で少しずつ温まっていく。
ソラは訓練所で“撃たない射撃”を教えはじめた。
空の真ん中を狙い、引き金を引かずに息を吐く練習。
生徒の一人が首をかしげ、「これで意味があるんですか」と聞くと、ソラは答えた。
「意味を考える時間が、もう平和だ」
カイは司令部に呼ばれ、短い証言をする。
功績は問われたが、彼は何も自分の手柄にしなかった。
「誰かが正しかったわけじゃない。ただ、終わらせる手順を守っただけだ」
その言葉に、会議室が静まり返る。
ツムギはラジオ局に招かれ、亡霊フラッグの話をする。
スタジオのガラス越しに、街の屋根が連なっていた。
彼女はマイクに顔を寄せ、最後に一行だけ付け足す。
「通信は祈りに似ています。祈りは届かなくても、届こうとする行為が、わたしたちの居場所になります」
その一言で、スタジオの空気が少しだけ暖かくなった。
レンは療養棟のベッドにいる。
外の光が窓辺に溜まり、カーテンの隙間から、鐘楼を修理するユウの姿が見えた。
ミナがユウに水を渡し、二人が笑う。
レンは胸の奥がわずかに痛んだ。けれど、その痛みの位置はもう“敵”ではなかった。
彼は手の甲を見つめ、薄く残る“ユウ”の文字を親指でなぞる。
線は消えかけている。それでも、そこにあると思えた。
恋人だった敵。敵だった恋人。
どちらでもいい。笑えるほうを選べばいい。
レンは窓を開け、鐘の音をもう一度聞く。
澄んだ音が肺に届き、痛みと並んで座った。
午後、鐘楼の修復が終わった。
ひびの入った鐘は補修され、再び吊り下げられる。
小さな金具の音が、空に跳ね返った。
「鳴らしてみよう」
ユウが言うと、周囲の人たちが顔を上げた。
ミナが隣に立ち、ツムギが波形を紙に描く。
ソラは屋根の上で風を読む。
カイは丘の下で出欠を取り、レンは窓から手を振る。
ユウが綱を引く。
鐘が鳴った。
一度、低く。もう一度、高く。
風が音を運び、町の屋根を越えていく。
人々の顔が上がり、涙と笑顔が混ざった。
誰かは泣き、誰かは笑い、誰かは立ち尽くす。
それでいい。どれも、間違っていない。
ユウは日記の続きを書く。
「鐘は、終わりではなく、居場所の音になった」
ペンの跡が、紙を少し凹ませる。
その跡に影ができ、陽の光が差すと、薄い線が光る。
ミナがそれを覗き込み、「いい字だね」と笑った。
夕暮れが訪れ、町の屋根に光が消えていく。
ツムギはラジオ局の屋上で最後の放送を終え、アンテナの影に腰を下ろした。
「届く、って、きっとこういうことなんだよ」
独り言のように呟き、空を仰ぐ。
空の青は深く、鐘楼の上の旗はもうない。けれど、風が旗の形を覚えている。
夜。
ユウは再びノートを開いた。
灯りの下で、ページが淡く光る。
最後の段落を書く。
「ぼくらは、撃たない理由を手に持っている。理由は、名前よりも長持ちする温度の形をしている。明日、右手の甲に何も書かなくても、ミナの手は見つけられる。レンの冗談にも笑える。ツムギの空白も読める。ソラの沈黙もわかる。カイの“数えない優しさ”を、何度でも見つけ直せる。今日の鐘は二回。明日は、何回だろう」
ペンを置く。
窓の外で風が吹き、ページが一枚だけめくれた。
白い余白が、新しい音を待っているように見えた。
ユウはミナと並んで外に出た。
丘の上に、墓標の列がある。
名前の読めない石が並び、その前で二人は手を握る。
ユウの右手の甲には、もう何も書かれていない。
代わりに、指先が確かに触れている。
風が白い布を揺らし、月の光が筆跡のように地面に落ちた。
遠くの療養棟で、レンが静かに笑う。
鐘が一度鳴る。
応えるように、別の場所でもう一度鳴る。
音が重なり、夜が少しだけ明るくなった。
それが“終戦日記”の一頁目で、同時に次の頁の余白だった。
《了》




