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死んだ子どもたちの戦争  作者: しげみち みり


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第19話 さよならの手順

 野営地の外れに、低い丘がある。斜面に草は少なく、土は雨上がりのあとでまだ少し重たい。午前から掘られていた小さな穴は、夕方になると、縁が乾いて明るく見えた。そこに埋められるのは、人でも遺体でもない。折れた弾頭、乾いた血を吸った布切れ、はみ出した包帯の端。レンの肩から剝がした、いくつかの破片。死んでいない誰かのために弔いをする。その行為にどんな名前がつくのか、ユウは知らない。ただ、戦争の呪いを個人の手で解くなら、たぶんこれしかないのだと思う。


 カイが静かに段取りを決め、誰の声も重ならないように順番を割り振った。ソラは丘の周囲に視線を走らせ、風の向きが変わるたびに立ち位置を半歩ずつずらす。ツムギは膝に手帳を置き、祈りの言葉を“手順書”に落としている。ペン先が止まると、短く首をかしげ、また動き出す。ミナはユウと並んで穴の縁に座っていた。二人の肩が触れ、すぐ離れ、また触れて、落ち着いた。


 遠くの鐘が、夕刻の生存の合図を一度鳴らした。割れていない音。終わりの音ではない。生きていることだけを知らせる音。ユウはその高さを胸の奥に写し取り、呼吸の速さを整えた。右手の甲の“ミナ”は、ここ数日の雨と汗で薄くなり、文字の輪郭が皮膚の線に溶けている。


「始める」


 カイが言うと、みんながうなずいた。レンは片手でスコップを持ち、笑ってみせた。声は掠れているが、目の奥は明るい。


「生きてるうちに葬式って、悪くないな」


「二回、弔えるからね」


 ミナが応じて微笑む。二回。ユウはその言葉を聞きながら、数えたくなる衝動を抑えた。戦争は何度でも“終わり”を奪う。なら、こちらも何度でも“終わり”を返す。そう思えば、手は迷わない。


 弾頭が穴の底に落ちる乾いた音がした。布切れは軽く、空気に撫でられてから着地した。包帯の端は、ミナが丁寧に折った癖が残って硬く、まるで小さな花のように見えた。


「読もう」


 ツムギが手帳を開く。紙の上に、黒い線で並ぶ言葉。ユウはミナと顔を見合わせ、声を重ねないようにひとつずつ区切って読んだ。


「会ったら笑う」


「銃を下ろす」


「手の甲を見る」


「名前を呼ぶのは最後」


「撃たない理由を先に言う」


「沈黙の時間を置く」


 そこで、紙の下端に追加された行を、ミナが指でなぞる。ユウはその指の動きを目で追い、ゆっくり声に出した。


「最後に、触れる」


 触れる。研究に回収されない。数式にもならない。だから、守られる。そう書いてあるわけではないのに、そう読めた。ユウは右手を差し出す。ミナの指が絡む。温度は数字にならない。ならないから、残る。ツムギは手帳の別ページに“手の温度の記録”と見出しを書き、そこに線を引かず、空白を残した。空白もまた、記録にできる。触れた人にしか思い出せない欄。


 穴を埋めるとき、カイが最初のひとすくいを落とし、ソラが石を積んだ。ツムギは小さな布切れに“R”と書き、石の隙間に挟む。風が通るたび、その布が薄く揺れた。合図のように見え、ユウは一瞬、返事をしたくなった。けれど、ここでは言葉を少なくする約束だ。言い過ぎない。言い淀みを手順に入れたのは、そのためでもある。


 儀式の締めに、レンが穴の縁に手を置き、息を整えて笑った。


「ここで、一回。いつか、もう一回。終わらせるために、二回で足りるかな」


「足りないなら、三回」


 ミナが軽く返す。ユウは口角を上げ、レンと目を合わせた。レンの手の甲には、薄く“ユウ”が残っている。雨に滲み、もう読めないのに、読める気がした。


 祈りのあと、ツムギは丘を下りながら無線の設定を始めた。全国の鐘楼と、個人の端末と、町に残る古いスピーカーに向けて、同時に短い声明を流す準備だ。ユウは背後から歩調を合わせ、手順書の最後を覗き込む。余白に、細い文字が増えていた。タイトルは“終了の段取り”。


「戦争を終わらせる段取りは始まりました。記憶保持プロトコルは公開され、再起動兵は停止に向かっています。これは勝利ではなく、終了です。鐘は、これから生存の合図として鳴らします」


 読み上げるツムギの声に、ミナの笑い声が短く挟まる。わざと、挟む。研究に回収されない“雑音”として。ユウも思わず笑ってしまい、録音の端に自分の音が入ったのが分かった。


「これでいい」


 ツムギが送信を押すと、遠くでも近くでも鐘が鳴った。高さが違い、響きの長さが違い、同じではないのに、同じ方向へ寄っていく。音は重なり、風にほどけ、丘の上を撫でていった。


 夜が落ちる。テントに戻る頃には、空気は少し冷たく、野営地の灯りは弱い。ミナがユウに端末を手渡した。ツムギからの“遺贈データ”が届いている。訓練所の、最初のデートの完全動画。三人でふざけ、笑い、走っている。レンの声は若く、ユウの笑いは高く、ミナの目はよく光る。画面が少し揺れて、誰かの手の影が横切った。たぶん、あのときのユウの手だ。


「見るに耐えないな」


 少し離れた場所に座ったレンが笑う。ユウは首を振った。


「見たい。何度でも」


「何度でも」


 ミナが繰り返す。その“何度でも”が、記憶破壊への反撃の言葉になる。動画の中で三人は口を揃えて“次に会えたら笑って”と動かし、声は小さく、でも確かに残っていた。ユウは画面を閉じず、しばらく静止画のように見続けた。ミナの肩が触れ、体温の線が重なる。触れて、残る。論文にはならないけれど、体には書き込まれる。


 テントの外で、鐘が一度鳴った。返すように、誰かの笑い声が風に乗る。遠いのに、近い。


 深夜、ユウは眠れず、外へ出た。歩く先に、鐘楼へ向かう小さな影が見えた。ツムギだ。彼女は一人で、修復した鐘の下に立ち、空を見上げた。ユウは距離を置いて立ち、音を出さないように息を小さくした。見つからないように、でも、目は離さない。


 ツムギはほんの少し首を傾け、兄のコールサインを一度だけ呼んだ。返るのは静寂。けれど、その静寂は以前より柔らかい輪郭をしていた。音がないのに、音の余白がある感じ。ユウは、その輪郭を胸の内でなぞった。ツムギは鐘紐に触れず、ただ鐘の縁に指を当てると、小さく言った。


「さよなら」


 言ってから、彼女は泣いた。泣くことも手順の一部だ。泣き終えてから、戻るための手順。ユウは近づかない。近づかないこともまた、触れあいの一部になると知っているからだ。風が鐘の中を通り、金属がわずかに震えた。鳴っていないのに、耳の奥で丸い音が描かれる。逆さの星が鐘の内側に映り、細い光が回る。明日の空の気配が、そこに予告のように佇んでいた。


 翌朝の仕事は早い。声明が広がった分だけ、反発も寄せてくる。司令部からの警戒レベルは上がり、補給の順番は入れ替わった。だが、野営地の空気は、昨日より軽い。カイは報告書を短くまとめ、撤退計画書の見出しを“勝利ではなく終了”に変えた。ソラは銃を分解し、金属を拭く布をいつもより長く手に握っていた。ツムギは手帳の空白をそのまま残し、ページ端に折り目をつける。折り目は、あとで触れたとき、その日の体温を思い出すための栞になる。レンはまだ腕を吊っているが、階段を自分で上り下りして、誰にも頼らなかった。頼らないときの彼は、いつもより強情だ。ユウは、彼の背中の形が以前より細くなったように見えて、しかし目の光が濃くなっているのを確認した。


「さよならの手順、もう一度読み合わせしておこう」


 ミナが紙を広げる。ユウはうなずき、読み上げる。声は大きくない。大きくないほうが、言葉は体の中まで浸みる。


「会ったら笑う」


「銃を下ろす」


「手の甲を見る」


「名前を呼ぶのは最後」


「撃たない理由を先に言う」


「沈黙の時間を置く」


「最後に、触れる」


 読み終えてから、ミナは自分の手の甲に“ユウ”を重ね書きした。インクの黒が新しく、文字の輪郭がはっきりしている。ユウは右手の甲の薄い“ミナ”を親指でなぞり、紙の裏に小さく○を描いた。触れたときの丸。それは意味にならない形で、だからこそ意味を引き受ける。


 昼近く、ツムギが無線を鳴らし、短い更新を流した。鐘は今日から、生存の合図としてのパターンを正式に共有する。亡霊フラッグのリズムを、鐘に移す。音が旗になる。旗が見えなくても、音は届く。届いた先で、誰かが手を握る。それでいい。それで、十分だ。


 午後、ユウはレンとミナと並んで丘を少し下り、野営地の端にある小さなベンチに腰掛けた。風が背を押す。遠くで子どもの笑い声に似た音がかすかに混じる。誰かが笑っているのか、無線のノイズがそう聞こえるのか、判別はできない。判別できなくても、温度は残る。ユウはポケットから折り癖のついた紙片を取り出した。裏面に短い文が書きかけのままになっている。


 ミナへ。

 レンが敵でも、ぼくは——


 線を引こうとして、止まる。止めたまま、ミナを見た。ミナはうなずかない。うなずく代わりに、手のひらを差し出す。ユウは紙をそっと戻した。言わないことも手順の一部だ。言わないことで、明日に持っていける温度がある。


「なあ」


 レンが空を見ながら言った。


「葬式、二回って言っただろ。三回目が必要になったら、どうする?」


「笑ってやる」


 ユウが答えると、ミナが肩で笑う。


「笑い過ぎて泣くやつだ。たぶん」


「じゃあ、それで」


 レンも笑う。その笑いが、今日の鐘の高さのように、胸に残った。


 夕方、鐘がまた鳴る。一度、間を置いてもう一度。合図の間に、短く風が通り抜ける。ユウはその風の速さで、心臓の拍を一つ合わせた。彼は思う。保存ではなく返還。効率ではなく手触り。撃たない勇気。鐘の言語。亡霊の旗。さよならの手順。


 夜、ユウは最後にテントの幕を閉める前、右手の甲の“ミナ”をなぞった。黒は薄い。薄いのに、温度は濃い。ミナは隣で同じように自分の“ユウ”をなぞり、笑った。レンは少し離れて横になり、目を閉じる前に一度だけ手の甲を見た。そこにはもう文字は見えない。見えないのに、指が無意識にその場所を撫でた。


 ツムギは手帳の空白に指を置き、ページを閉じた。閉じた音は小さく、けれど耳に残る。ソラは銃を置き、カイは灯りを落とす。外で、遠い鐘が一回だけ鳴った。返事のように、誰かの息が重なる。夜風は静かで、テントの布を小さく鳴らした。


 ユウは目を閉じた。鐘の高さで、心臓が打った。さよならの手順は、完成している。完成しているから、次に会ったとき、最初に笑える。撃たない理由を言える。沈黙で伝えられる。最後に触れられる。明日が、それを確かめるための日になる。


 眠りに落ちる前、ユウはもう一度だけ右手の甲を胸に押し当てた。インクの滲みが、鼓動に合わせて温かくなる。消えるたびに、また書けばいい。消えることを恐れず、消えることを前提に、名前を交換し続ければいい。そう思いながら、彼は静かに目を閉じ、鐘の残響を連れて眠った。

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