第18話 恋人だった敵
屋上の縁から南の渡り廊下へ出ると、雨で濡れた金属の床が靴底のゴムを小さく鳴らした。鈍いきしみが列を追い越し、ユウの体の芯に同じ音が走る。風は先ほどの配信の余熱を洗い流すように冷たく、空はまだ白い。割れていない鐘の音が遠くで一度だけ鳴り、それきり沈黙した。
ツムギの声が無線に落ちる。囁きほどの音量で、糸の通り道を描く。
「正面監視カメラ、いま白飛び。三十秒。廊下の三番目の継ぎ目で身を低く。左の梁に影ができる。その影に沿って」
カイが先行し、銃を下げたまま姿勢だけで注意の方向を示す。ソラは最後尾で、視界の外に寄り添う射線をゆっくり押し流していく。ミナはレンの肩を支え、圧迫の強さを小さく調整する。痛みを殺さず、出血を止める。その指先の力は、ユウの右手の甲に残る“ミナ”の字と同じ強さだった。触れることで作られる合図。言葉の前にある約束。
配信の余波は、すでに足元の鉄板にも降ってきているのがわかった。右側の施設棟では足音が止まり、左の外階段では誰かが逆に駆け足を始めている。動きを止める小隊と、狼狽で発砲を増やす小隊。世界の更新は、同時には届かない。だから、個人の判断のばらつきが、世界の形を今この瞬間もねじ曲げている。
渡り廊下の中央。行く手に影が立った。雨で濃くなった輪郭が、うっすらと揺れる。レンの副官だった。彼は銃を下ろしている。視線はユウたちではなく、レンの肩の赤に吸い寄せられていた。
「連れて行け」
命令に背く言い方だった。声が震えたわけではない。震えの代わりに、彼の両手は空の形を探すように開き、閉じた。彼はポケットから小さなデータキーを取り出し、ユウに放る。金属が濡れた床を打つ前に、ユウは右手で受け取った。受け取ってから一度、手の甲の上に置く。黒い“ミナ”の字に触れないよう、指先でそっとつまみ直す。
「記憶保持プロトコルの完全版だ。君らの公開に合わせて、これも出せ」
敵が、敵を終わらせる手を貸す。ミナが短く息を吸い、深くうなずく。ユウもうなずいた。掌の中の小さな重みと、手の甲のインクの軽い温度が、同時に手の中にあった。愛と証拠が同じ手の中で重なる。これはたぶん、今日のどの射撃より重い。
副官は続けた。
「彼は、ここまで来たら嘘は吐かない。君たちもだ」
言い終わるや否や、左の階段の陰から乾いた音が二つ跳ねた。反射する前に、ソラの体が半歩だけ斜めにずれ、壁に弾が当たる角度を作る。火花が鉄の縁を走り、雨粒のように散った。ユウは副官を見る。彼はすでに背を向けていた。走らない速さで去っていく。振り返らない背中は、忠誠と不従順を同時に抱えた形をしているように見えた。
階段の曲がり角。ハシバの部下が三人、行く手を塞いでいた。銃口が三本。冷たい口の穴がこちらを測る。カイが肩だけで合図する。ユウは撃たない。代わりに、右足で廊下の手すりを強く蹴った。鉄と鉄が擦れる高い悲鳴が、狭い空間に白い閃光のような気配を走らせる。その一瞬、ミナがレンの体を抱え直し、ツムギが非常灯を落として連続で点滅させた。規則的な明滅は、亡霊フラッグの短い版のように目を惑わす。部下たちの照準がほんの指一本ぶん揺れる。そこでソラの弾が“外す角度”で入り、彼らの狙いを別方向へ引き剥がす。カイが距離を詰め、銃床で一人の手首を叩いた。骨が折れない角度。止めるだけ。殺さない。ハシバが選ばなかった方法で、通路をこじ開ける。
通り抜けざま、ユウは部下の一人の目を見た。恐怖ではなかった。納得の直前の目だった。彼はたぶん、今夜じぶんの言葉を探す。そう思うだけで、撃たないことの重さが増した。
建物を抜けると、外に空が広がった。雲は薄く、光は冷たい。風は金属の匂いをさらっていく。遠くで、再び鐘が鳴る。今度は二つの鐘が重なり、少しずれて響いた。別の地区同士の“生存の合図”が、同期を試しはじめたのだ。ユウの足取りに力が戻る。ミナの声が落ち着く。レンは苦笑し、「鐘を奪われても、音は残るんだな」と言った。
「旗がなくても、手は残る」
ユウが答えると、レンは短く笑った。
「君は詩人だ」
「うるさい」
ミナが笑い、レンの肩を支え直す。その笑いが、痛みの輪郭を一瞬だけ柔らかくした。笑うことは鎮痛剤に似ている。けれど時間は短い。効くうちに進む。
回収地点は、南棟と北壁の間に挟まれた古い荷捌き場だった。雨に磨かれたコンクリートの上に、疲れたトラックが一台。エンジン音は控えめで、排気が白い息のようにわずかに揺れている。荷台の扉は半ば開き、暗い口をこちらへ向けていた。
荷台へ飛び乗る瞬間、背後で新しい銃声。乾いた破裂が二つ、鉄骨をかすめて消えた。レンの副官が振り返るのが見えた。遠くの庇の下に、ハシバが立っている。彼は撃っていない。ただ、見ている。記録している。世界の終わり方を、観察している目だった。ユウは視線を外す。今は、乗る。ソラが最後尾に飛び乗り、カイが運転席へ滑り込む。ツムギが短く告げる。
「送る」
データキーの内容は分割され、小さな火に変わってネットワークの至るところに点き始める。公開という言葉は、時々、燃える。燃やすのは、蓄えられていた闇だ。ユウはそう思った。世界はゆっくりだが確実に“終わらせる段取り”を覚えつつある。段取りの隙間には、必ず誰かの温度が記される。
荷台の中。ミナがレンの額に手を当てた。熱はあるが、意識ははっきりしている。言葉の端が冗談の形を保てる程度には。ユウは右手の甲を見せ、薄れかけた“ミナ”の字を親指でなぞる。インクが指腹にうつり、指紋の線に黒が入り込む。レンは自分の手の甲を見つめ、薄い“ユウ”を親指で撫でた。
「恋人だった敵、って、いい題だな」
冗談の形で、レンが言う。ユウは頷いた。
「でも、敵だった恋人、でもある」
「じゃあ、二本立てだ」
ミナが二人を見て言う。
「どっちでも、笑えるほうを選ぼう」
トラックが段差を越えた。体がふわりと浮き、荷台の鉄板が低く唸る。すぐそばで、鐘が一度だけ鳴った気がした。誰かが荷台の下で、小さな鐘を鳴らしたのかもしれない。あるいは、ユウの胸の奥で鳴ったのかもしれない。どちらでも、いまはいい。鳴ったという事実だけが、体の芯に残る。
ツムギが端末の画面をユウに向けた。画面には各地の受信ログが小さな光点となって広がっている。点は増えていた。遠い国の文字。知らない街の名。ユウには読めない文字でも、見ているのがわかる。見て、止まる。止まって、何かを選ぼうとしている。
「完全版、散った。いくつかはすぐに遮断される。でも、ぜんぶは止められない。分割したから。誰かが、どこかで、結ぶ」
世界のどこかで、見知らぬ誰かの手がデータを繋ぎ直す。ユウは掌の熱で、その見えない手の温度まで想像することができた。温度を想像できるなら、手を握る理由を探すこともできる。
カイの声が荷台の壁を震わせる。
「橋の手前で一度降りる。鐘がある。割れてないやつだ。鳴らす」
「司令部は止める」
ソラがぼそりと付け足す。
「でも、鳴らす」
ユウはうなずいた。ミナがレンの肩に手を置く。レンは目を閉じ、呼吸を整える。彼の手の甲の“ユウ”は汗でほとんど見えなくなっている。ユウはそっと、その上をなぞる。見えない字をなぞるみたいに。レンが目を開け、短く笑った。
「次に会えたら」
「言わない」
ミナが笑う。
「言ったら、そこで止まる」
橋の手前でトラックは止まり、四人は降りた。古い鋼製のフレームに、小さな鐘がぶら下がっていた。誰がここに運び、誰がここに吊したのかは書かれていない。書かれていないことが、この鐘を自由にしている。ユウは紐を握った。掌の汗で紐が少し滑る。ミナが紐の毛羽立ちを指先でならし、レンは少し離れて肩を押さえながら立つ。カイは周囲に目を巡らし、ソラは風の向きを測る。ツムギはノートを胸に抱え、無線の音を絞った。
ユウは体重を預けた。鐘は小さいのに、空を満たした。ひとつ。澄んだ音。誰の死も告げず、誰かの生も告げない音。ここにいることだけを知らせる音。ミナの目が潤む。レンが目を閉じる。ソラは空を見上げる。ツムギはノートに一行だけ書いた。
鐘は、温度の言語。
二度、鳴らす。三度目は風が鳴らした。ユウは紐を離し、振り返る。遠くの空で別の鐘が答える。音の高さが違う。響きの長さが違う。違うのに、同じ。違う同士が、同じ方向へ少しずつ寄っていく。
そこで、ヘッドライトがこちらを刺した。橋の向こうから車列。速度を落とさない。カイが手を上げて停止の合図を送る。反応はない。ソラが一歩前へ出て、銃口を下げたまま構える。ツムギが短い呼びかけを打つ。返らない。ミナがレンの腕を引く。
「離れて」
ユウは半歩、前へ出た。撃たないための前進。撃たないことでしか引けない線がある。ヘッドライトが直前で暗くなり、エンジン音だけが残る。車は橋の手前で斜めに止まり、運転席から人影が降りた。腕章は巻いていない。帽子もない。顔は影に沈む。その人はゆっくりと手を上げ、空気に輪を描いた。鐘の輪郭。亡霊フラッグの短いリズム。どの標識にも属さない合図。
ユウは右手の甲を上げた。滲んだ“ミナ”の字が夜の白に浮かぶ。人影の肩がわずかに落ち、笑った気配があった。言葉はない。けれど、伝わる。温度で伝わる。車列はゆっくりと後退し、ヘッドライトがまた点く。遠ざかる光を見送っていると、無線が一瞬だけ鮮明になり、ツムギの兄のコールサインに似たノイズが混じって消えた。
カイが短く息を吐き、地図をしまう。
「行こう。北へ。夜が変わる前に渡る」
荷台に戻る途中、ユウはふと胸ポケットの紙片を思い出した。折り癖のついた薄い紙。裏面に書きかけの短い文。
ミナへ。
レンが敵でも、ぼくは——
紙を開き、マーカーを握る。線を引こうとして、止める。止めたまま、ミナを見る。ミナはうなずかない。うなずく代わりに、手のひらを差し出した。ユウは紙を畳み、ポケットに戻す。言わないことで進めることもある。言わないことで、明日に持っていける温度がある。
トラックが橋に乗る。水面が黒く、風が斜めに走る。遠くの街の灯りが増え、別の地区の鐘がもう一度だけ鳴った。レンが息を吐く。
「恋人だった敵、か」
ユウは答えない。答えない代わりに、レンの手の甲に指先で“○”を描いた。輪は小さく、すぐ汗に滲んで消えた。ミナが見て、笑う。
「消えた」
「消えたら、また書く」
ユウは自分の右手の黒を親指でなぞった。指に移った黒が、心臓の赤に近づくような感覚。鐘は鳴らない。鳴らないのに、耳の奥で音が続いている。
ツムギが画面を見つめながら言った。
「世界が、選ぶよ。遅れて、早くて、ばらばらに。それでも、選ぶ」
カイがうなずく。ソラは横顔の影を崩さない。レンは目を閉じ、口の端に笑いを残した。ミナは包帯の端に小さく“笑う”と書き添え、ユウの右手をそっと握った。
ユウは思う。保存ではなく返還。効率ではなく手触り。撃たない勇気。鐘の言語。亡霊の旗。笑うための終わり。
トラックは北へ滑り、夜の骨組みを縫っていく。遠くの空に短い光が走った。雷ではない。どこかでまた、鐘が鳴ったのだろう。彼は目を閉じて、その音を聞いた。泣かない。まだ、泣かない。笑うための余白を胸に残す。彼はそう決めて、目を開いた。
世界はまだ終わっていない。けれど、終わらせるための段取りは、もう彼らの手の中にある。インクの黒と、掌の小さな重み。恋人だった敵。その言い方は、今日のための題にふさわしい。題だけでは足りない。本文は、これからだ。
ユウは右手の甲の黒をもう一度なぞり、荷台の縁に背を預けた。風は冷たく、けれどどこか甘い匂いを運んできた。雨上がりの金属、遠くの土、紙の繊維。彼は小さく笑った。ミナも笑い、レンも笑い、ソラは目だけで笑い、カイは顔を上げた。ツムギはノートを閉じ、そこに今日の日付を書き添えた。
夜が、進む。鐘は鳴らない。鳴らないのに、音は残る。温度も残る。書いた名前は消える。消えるたびに、また書く。消えることそのものを、彼らはあらかじめ受け入れている。だから、今日も前に出られる。
渡り廊下が遠ざかり、屋上の縁はもう見えなくなった。そこに残った細い赤い線は、きっと朝には風に削られて見えなくなる。見えなくなっても、体は覚えている。覚えているかぎり、書き直せる。書き直せるかぎり、終わらせ方を選べる。
ユウは息を吸って、吐いた。鐘の高さで、心臓が打った。彼はその高さを心に刻み、前を見た。夜の向こうに橋がもう一つ、薄く見えている。進める。進む。
恋人だった敵が、隣にいる。敵だった恋人が、笑っている。どちらの言い方でも、今の温度は変わらない。ユウはそれで十分だと思った。十分だと思えた自分に、驚きもした。
そして、トラックは北の闇に溶けていき、彼らの息と鐘の名残だけが、しばらく荷台の上に残った。




