第16話 破城
夜の施設外壁が、ソラの陽動で脈を打つ。
階下からは警報の波。頭上には風の層。
赤と白の光が交互に閃き、コンクリートの壁が一瞬ごとに昼と夜を往復しているようだった。
カイが屋上扉を半開し、ユウとミナを滑り込ませる。
冷えた鉄の手すりが湿っている。雨上がりの夜気が肌にまとわり、息を吐くたび、口の中が金属の味に変わった。
コンクリートの床は濡れ、足音が鈍い。
遠くで鐘が鳴る。
割れていない、新しい鐘。
誰かが別の地区で、戦死の代わりに「生存の合図」を鳴らし始めたのだろう。
ユウは胸の奥のリズムを鐘に合わせ、乱れそうな呼吸を整える。
ミナは胸に抱えた端末を押さえた。コピーした“二人の記憶”はまだ温かい。
ツムギの無線が耳に落ちる。
「北壁の下、味方が回収ライン。五分だけ窓が開く」
五分。長いようで、破壊の時間には短い。
屋上縁のパラペット越しに、敵と味方の隊列がせめぎ合う。
どちらの旗も見えない。
亡霊フラッグの断続音だけが、細い糸のように空気を縫う。
「撃たない」
カイが短く言った。
「撃たないことで線を引く」
撃たない移動は、撃つより勇気が要る。
ユウは背中で風を受け、ミナの手を取る。
ふたりが同時に立ち上がった瞬間、周囲の視線がそこに集まった。
言葉はなかった。
けれど、姿勢が語った。
ここにいる、と。
ソラは外周でカバーし、狙撃を“外させる角度”に弾を置いた。
ツムギは亡霊フラッグの信号を微調整し、味方だけが反射的に避ける“空白”を作る。
そのとき、屋上の反対側のドアが開いた。
ハシバが現れた。
鎮静の薬はもう切れている。それでも歩調は乱れない。
ただ、目だけが笑っていた。
「公開、見たよ」
穏やかな声。
「世界は泣いた。すばらしい。そして泣き終えた世界は次に考える。“どうすれば効率よく悲しまなくて済むか”を」
ミナの肩が震えた。
ユウは言葉を飲み込み、代わりに右手の甲を見せた。
汗で滲んだ“ミナ”の字。
それは誰にも共有できない、非効率な目印だった。
「ここからは、お前の研究の外側でやる」
カイの声は低く、しかしはっきり届いた。
ハシバは肩をすくめる。
「では、その“外側”も計測させてくれ」
その言葉が合図のようになった。
下層で爆発音。扉が破られ、敵と味方が入り乱れる。叫びと命令と祈りの区別がなくなり、音だけがひとつのうねりになる。
ユウは“撃たない”まま、物陰を渡る。
身体が勝手に、ソラが教えた最短経路を選ぶ。
ミナは落下した照明を跨ぎ、倒れた兵の腕を掴んだ。
敵か味方か分からない。
だが、腕の重さはどちらでも同じだった。
ツムギの声が無線に跳ねる。
「あと三分」
風が強まる。
鐘の音が一つ、遅れてもう一つ。
ユウの足が止まる。
視界の端に、見慣れた横顔。
レンだ。
距離はある。けれど、確かにこちらを見ている。
レンは銃を下ろし、唇で言葉を作った。
「屋上」
ユウは頷き、ミナの指を握る。
三人が交わる地点へ向かって走る。
その途中、階段室の影から閃光。
ユウは反射でミナを抱き寄せ、背後の壁に身を伏せた。弾がコンクリートを削り、粉塵が宙に舞う。
ソラの弾が角を削り、撃った相手の姿勢を崩す。
敵は倒れず、ただ膝をついた。
その隙に通路を横切る。
カイが背後で遮蔽を作り直し、撤退線にマーカーを打つ。
亡霊フラッグのパターンが一瞬だけ長く伸び、仲間の足がすっと流れた。
破城――。
城を破るのではなく、城壁の上で“戦い方の形”を壊すこと。
それが今日の作戦の名だった。
屋上の中央で、三人の視線が重なる。
ユウ。ミナ。レン。
言葉が溢れそうで、あえて最初の一言を遅らせる。
それが“さよならの手順”の次のページ。
ハシバの部下たちが階段から上がってくる。
時間はもう残っていない。
「終わらせる配信をやる」
レンが短く言った。
「三人で」
ユウは頷いた。
ミナが端末を差し出す。
ツムギの声が耳に届く。
「裏回線、確保。二分だけ、世界中に出せる」
カイが腕時計を叩く。
「一分四十」
ソラの報告が重なる。
「風は北へ。声は届く」
ユウは右手の甲を見下ろした。
汗にじむ“ミナ”の字を、もう一度なぞる。
レンの手の甲には、薄く“ユウ”の字。
三人の手が、ほんの一瞬だけ触れた。
その温度を合図に、ミナが息を吸う。
「始めよう」
端末の画面が灯る。
ツムギの暗号が回線を開き、世界の向こう側に散らばった人々の端末へ、光がひとすじ伸びる。
最初の映像は、ただの夜空。
その中央に、三人が立っていた。
ユウが口を開く。
「僕らは、死なないためじゃなく、生きていた証を返すためにここにいる」
ミナが続ける。
「再起動じゃない。記憶の“返還”です」
レンが締めくくる。
「誰が敵でも、もう関係ない。名前が消えても、愛の温度は残る」
風が三人の言葉を攫い、夜空へ散らす。
その瞬間、下層で爆発。屋上が震え、端末の画面が揺れる。
ユウは手を伸ばし、ミナを庇う。
ミナの口元が動いた。「ありがとう」
配信時間は残り三十秒。
ツムギの声が途切れ途切れに入る。
「世界が、見てる……いま、みんな……」
画面の向こう、数え切れない反応が灯り始める。
いいねでも、罵倒でも、涙の絵文字でもなく、ただの“再生マーク”が増えていく。
それだけで十分だった。
「ミナ」
「うん」
「レン」
「行こう」
三人は同時に立ち上がり、屋上の縁へ歩み出る。
背後で銃声が響く。
誰かが撃った。
それが誰の弾なのかは、もう関係なかった。
レンが振り向かずに笑う。
「終わったら、また笑おう」
ユウは頷き、ミナの手を握る。
冷たい風が頬を打つ。
鐘が鳴った。
新しい、澄んだ音。
割れた鐘ではなく、“始まり”の鐘。
ユウはその音を聞きながら、指先で端末の配信ボタンを押した。
世界の画面が一斉に白く弾け、次の瞬間、闇が静かに戻る。
風が止み、夜が深く沈む。
ユウはゆっくり目を閉じた。
最後に見たのは、ミナの笑顔と、レンの頷き。
そして、空。
壊れた世界の上に広がる、真新しい夜空。
それはまだ、誰の旗も立っていない空だった。




