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死んだ子どもたちの戦争  作者: しげみち みり


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第15話 記憶庫

 警報が鳴った。耳の奥の薄い膜を叩くような、乾いた連打。赤い灯が回り、壁面のステンレスに色の輪が重なって走る。

 ユウは反射でミナの手首をつかみ、目だけで右を示した。すぐに、ツムギの声が耳の中に落ちる。

「ロック、遅延できる。三十秒だけ。いまから数える。三十、二十九――」

 記憶保全区の扉は油のない機械みたいに硬く動き、重い空気を吐き出した。閉まり切る前に、ユウとミナは横滑りで内側へ身を入れる。扉の縁が背中を擦り、衣服の布が薄く鳴った。

 中は冷えていた。光の温度だけが高い。天井の目がひとつ、ふたつ、こちらを見下ろす。ラックのうなりが鼓動のように重なり、耳の奥で鐘の残響に似た波が揺れる。ユウは一度呼吸を止め、数えずに吐いた。数えると、怖さまで数えるから。

 ガラスの迷路。列の間は大人が肩をすぼめて通れる幅しかない。ユウは先に立って歩幅を狭め、曲がるごとにミナの指が袖の端をひかむ力を確認する。弱ければ待ち、強ければ進む。それだけで足は揃った。

「中枢、正面。監視二。両方とも“人”。機械じゃない。こちらの姿はまだ見られていない」

 ツムギの声が薄く震えた。震えは緊張ではない。速算の速度が限界に近いとき、彼女の声は少しだけ軽くなる。

 ミナが頷く。医療用の白い上着を肩に掛け直し、胸のポケットにペンライトを差す。顔つきを、医務係のそれに切り替える。声を使わず、役職の手つきを手にまとわせる。彼女はこういう“演技”が上手い。命の現場でしか手に入らない説得力を、体で身につけてしまったからだ。

「行こう」

 ユウはガラス面に映った自分の顔を一瞬だけ見た。若い。死んだ子どもたちが、ガラスの中で笑っている。手の甲の“ミナ”の字が鏡像で反転し、読めない形になった。読めないのに、意味は皮膚の下にそのままある。

 中央のユニットに近づくと、空調の音が太くなった。ラック上段の表示が走り、名前のない断片が列をなす。誰かが笑い、誰かが泣き、誰かが手を握る。ユウは指の先に氷の粒ができたみたいに感覚が鈍くなり、立ち止まりそうになる。ミナが袖をひいた。進む。

 中枢の前で、ミナは端末を開いた。コピーして守り続けてきた“二人の記憶”のフォルダが、画面の奥で暗く光る。彼女はそれを暗号化する。開くための鍵を、開けるためではなく“返すため”に設計し直す。

 ユウは別ラインで“公開用の扉”を探した。全部を晒せば世界は怒るだろう。怒りは正しい。けれど、怒りだけでは終わらない。誰かが守った温度まで燃やしてしまう。だから、選ぶ。選んで、開く。

 ガラス越しの小さなスクリーンが点灯した。ツムギが裏回線で繋いだ“仮の出口”。公開できる時間は数分。そこに何を流すのか。

 ユウは迷わなかった。

 訓練所の裏庭。古い自販機の影。三人が肩をぶつけ合って笑い、ふざけて“終了宣言”の練習をする断片。途中で、なぜか急に真顔になり、口が揃う。次に会えたら笑って。

 戦術資料でも、機密でもない。ただの若さ。ただの人間。けれど今、世界が必要としているのは、それだ。

 ミナは唇を噛み、送信を押した。

 映像はネットワークの隙間に溶け、どこかへ散っていく。波紋の中心から、静かに外側へ。

 廊下の向こうで足音が増えた。乱れのない速度。役割分担を知っている踏み方。ユウは視線だけで左の待避角を測り、ミナは医療棚から注射器を取り出した。標準的な鎮静。殺さない。止めるだけ。

 曲がり角の向こうから二人が現れる。腕章の位置、銃の握り方。ハシバの部下だ。ミナが半歩前へ出る。表情は医務係。

「火災報知の誤作動。煙吸入の危険があります。検査を」

 信じる、ではなく、従うという目の切り替えが相手の顔に走る。身体に近づけるのは、医療係の強みだ。ミナはその距離で肩を軽く押さえ、注射器の角度を作る。

 ユウはガラスの反射で背後を確認した。奥の扉が、音もなく開く。

 ハシバが姿を見せた。落ち着いた足取り。目の奥に、うすい悲しみの色がある。彼が持つ悲しみは、他人を説得するための正しさの飾りに見えた。

「君たちが公開した断片は、世界を一度泣かせるだろう」

 ハシバは言った。声はやさしい。

「だが、泣いたあとで人は必ず思う。効率よく愛を使おう、と」

「愛は使うものじゃない。返すものだ」

 ユウの声は自分のものに聞こえた。

 ミナが続ける。

「返せなかった分を、わたしたちで返す。誰かが隠したからじゃなく、誰かが守ったから残った温度を」

 ハシバは肩をすくめた。

「詩人だね」

 その裏で、ツムギの声が耳に落ちる。

「出口、右。三十秒だけ開ける。廊下の赤外線、今切った。ソラが外壁で音を大きくする。カイが回収、南側二。走れば届く」

 同時に、施設の外で小さく爆ぜる音が膨らみ、赤い灯が一瞬だけ暗んだ。空調の風向きが変わり、白い霧が扉の上から薄く降りる。視界がやや霞み、灯りの輪郭が鈍る。

 ユウはミナの手を握り、硬さで合図を送る。右。ミナの指が返す。分かった。

 ハシバの部下がこちらへ出ようとした瞬間、ミナの手首が滑る。注射器の先端がハシバの腕へ向き、間合いに入る。

 ハシバは一瞬だけ目を細め、それから腕を差し出した。

「撃てない君たちが、選んだ方法だ」

 刺入。薬液が押し込まれる。表情の筋肉がほんのわずかにゆるみ、足の裏の重心が後ろへ流れる。倒れない。だが動きは鈍る。

 それで十分。

 ユウは扉へ走った。ミナが並走する。霧の中で灯りが水平に伸び、床の溝が線路のように見える。ガラス面に映るふたりの影が背中で重なり、別の人物に見えた。若い。死ぬ前の体温の映りだ。

 扉の縁に肩を入れ、肘で押し、腰で押す。内蔵のロックがわずかに遅れて噛み、ミナが取っ手を引く力と合わさって、扉は人が通れる幅に開いた。

 背後でハシバの声が、少しだけ遠くなる。

「愛は保存できる。君たちが証明してくれた」

 敗北宣言ではない。次の実験の予告の音だ。

 ユウは振り返らない。扉の隙間を抜け、冷たい廊下に出る。非常灯の赤が体の輪郭を塗り、足音が壁に跳ね返る。ツムギの亡霊フラッグが耳の奥で鳴った。三つ、間、二つ、長い一つ。

 角、角、段差。息を合わせ、走る。

 曲がり角の先で、白い煙がふくらんだ。ソラの煙幕。匂いが薄くて、喉に刺さらない。選ばれた薬剤だ。視界が遮られ、足音の数だけが増える。

 カイが通路の角で待っていた。肩の包帯の白が、赤い光の中で薄い桃色に見える。

「右、二、左、一。今は空き。南側二へ」

 短く言って、先に走る。ユウとミナが追う。

 階段を降り、扉を押し、外気に触れる。

 雨上がりの匂いがまだ地面に残り、外壁の配線が風で揺れて細い影をつくる。夜の中腹。雲は重いが、雨粒は落ちない。

 背後の施設で警報が濁り、天井のスプリンクラーが遅れて白い霧を吐いた。内側が冷えていくのを、背中の皮膚が覚える。

 走る。カイが左右を見、ソラが最後尾の影を削る。ツムギの声はもう、息に混ざって短い仕草のように聞こえる。

「南二、開ける。五秒。四、三、二――」

 門がほんのわずか上に滑り、体ひとつぶんの隙間ができる。ユウが身体を横にして滑り、ミナが続く。カイが入ってすぐ、門が降りた。今度は音が重い。

 足を止めた瞬間、ユウの胸ポケットの端末が震えた。通知が滝のように押し寄せ、画面の隅に数字が溜まる。公開した映像に、外の世界が反応した。誰かが見て、誰かが泣いた。誰かが笑い、誰かが黙った。

 終わりではない。反応は始まりの形をしている。

「北の屋上、合流可能」

 入ってきた通信は短く、しかし間違えようがなかった。レン。

 カイが進路を切り替え、屋上へ上がる階段を探す。建物の内側を駆け上がる間、ユウは手の甲の黒を親指でなぞった。汗で線が薄く滲む。滲むほどに、温度は濃くなる。

 踊り場のガラスに、空の白が映った。雲の裂け目。そこから、割れていない鐘の音が一度だけ届く。澄んだ音。どこか遠い場所で、誰かが“合図”ではなく“ただの音”を鳴らしたのだと思えた。

「もう少し」

 ミナが言った。息は乱れているが、目は揺れていない。

 ユウはうなずく。階段を蹴り、最後の直線を上る。扉の前で、カイが手を上げた。ソラが脇に立ち、銃を下げた角度で保持する。撃つためではなく、撃たないための角度。

 ユウは扉に手をかけ、ほんの少しだけ押した。

 風。白い光。

 屋上は、雨のあとのにおいで満ちていた。空の裂け目が一本の線になり、その下で三つの影が重なって見えた。レンの横顔が輪郭だけで分かる。

 ミナの指が、ユウの手の甲を探す。そこに重なる。

 レンの指が、こちらを指す。合図は短く、意味は長い。

 その瞬間、背後で階段の下の気配が膨らんだ。追ってくる足音。間は短い。選ぶ時間は細い。

 カイが顎で示す。

 ユウは頷き、ミナと視線を合わせる。

 次の瞬間、三人の銃口の向きが同じ形になった。

 撃つためではない。

 撃たない理由を、ここから守るために。

 風が、屋上の端から端までゆっくり走った。鉄の匂いが薄く、空の白が濃い。

 ユウは胸ポケットの紙の角を指で押さえた。折り目は湿っているが、破れていない。

 ミナへ。

 レンが敵でも、ぼくは――

 続きは、まだ書かない。

 書かないことで、進む余白が残る。

 余白のぶんだけ、明日を選べる。

 ユウはそう信じ、扉の向こうに広がる白の中へ、一歩踏み出した。

 鐘のような風の音が、すぐそばで鳴った。

 ここから先は、守るべき“温度”のための破城だ。

 彼は指に残る黒の冷たさを確かめ、それが胸の中心を温める矛盾を、真ん中に抱えたまま銃を下げた。

 ミナの掌がまだ重なっている。

 レンの視線が、こちらを射抜かずに貫いた。

 世界は、泣きながらでも進める。

 そして、返せる。

 ユウはそう思った。

 次の瞬間、白い空の下で三つの影が重なり、画面の切り替わる前の一枚のように静止した。

 その静止を合図に、物語はまた動き出す。

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