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死んだ子どもたちの戦争  作者: しげみち みり


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第14話 交換条件

 雨が上がった、と誰かが言った。

 ユウは天幕の隙間から朝の色を見た。濡れた地面が薄く光り、遠くの舗装片に小さな空の穴がいくつも映っている。夜のあいだ、雨は公平だった。打つ順番も、濡らす量も、人を選ばなかった。だからこそ、朝いちばんに届いた通達の不公平が、余計に目に刺さった。


「司令部は、レン隊からの正式要求を受理。『記憶保持プロトコルの公開』『再起動兵の製造停止』『暫定停戦』。見返りに、前線撤退と捕虜返還」


 カイが端末の画面を皆に見せ、言葉の角を落とさず読み上げた。湿った空気の中、声だけが乾いている。皮肉はない。ただ、確かめるようにひとつずつ置いていく。


「正しいな」


 そう言って、カイは画面を伏せた。正しい、という音がユウの胸で一度だけ転がって、まだ温かい包帯の上で止まる。

 ツムギはノートを膝の上に立て、太い芯で“公開”と書いた。その筆圧の強さが、紙の裏まで抜ける。公開された途端、言葉は世界のものになる。そうやって言葉は、人から離れていく。


 医務棟の方角から、別の会話の匂いが風に乗った。

 ハシバの部屋で内線が切れ、つながり、何度も同じ単語が磨り減るほど繰り返される。研究継続、戦略優位、特許。誰も“愛”の効率以外の価値を語らない。ユウは呼吸を整える。胸の内側で数えず、ただ出入りを均す。ミナがそっと袖をつまんだ。その小さな力に合わせて、彼はあごをひとつだけ引く。


「主導権を握るには、証拠がいる」


 ミナが言った。声は低く、しかし迷っていない。

「記憶庫――“死者の黒箱”を暴いて、公開する。全部は無理でも、最初の一点を」


 ミナが言葉の形を作った瞬間、ユウの中で“交換条件”の輪郭が立ち上がる。向こうが差し出した条件は、待っているあいだに腐る。腐った条件は、誰かの命を無駄にする。こちらが差し出すのは、腐らない条件でなくてはいけない。


「回線の抜け道、洗える」


 ツムギが顔を上げる。

「施設の見取り図、死角があるはず」


 ソラは地図の上に手をかざし、風向きでも確かめるように視線を滑らせた。

 カイは反対しかけ、途中でやめた。肩の包帯の白がわずかに上下する。


「お前たちが行くなら、俺は最後尾で支える」


 計画は、二つの矢印に分かれた。

 前線での陽動と、施設への侵入。ユウとミナは後者。ツムギは遠隔支援。ソラは陽動。カイは指揮と回収。成功の確率は高くない。だが、条件は待ってくれない。待たせるほど、交換の価値は目減りする。


 出発の前に、ユウは右手の甲を見た。雨に薄れた“ミナ”の黒の上から、ミナがもう一度書き重ねる。線は濃くなる。濃くなった黒は、簡単には消えない。


「消えても、また書く」


 ミナが短く笑う。

 その笑い方の形だけで、ユウは立てる。


     ◇


 夜に入ると、施設の外壁は意外なほど粗末に見えた。塗装の下で溶けかかったコンクリートが背伸びをやめたように沈み、外から内へ走る配線が雨に洗われた蛇のようにむき出しになっている。外見の堅牢さと内部の脆弱さは、たいてい同じ場所で隣り合う。


「十分」


 ツムギの囁きが耳の中で広がる。

 監視カメラが一瞬だけ白く飛び、光の芯だけが消えた。ミナが電源盤の蓋に細い工具を差し込み、金属の舌をやさしく撫でる。ユウは入口の電子錠に紙片を挟んだ。初日に拾い、何度も読み返した“記憶欠落対策メモ”。紙の厚みで微かな隙間を作り、ロックが噛み合う前にカードキーを滑らせる。古い手口だ。だが古い手口は、人間の“手”の記憶に残る。


 カチ、と控えめな解放音。

 扉が指一本ぶんだけ浮く。内側の空気は乾いていて、消毒薬の薄い匂いが漂う。人がいないのに、誰かがずっとここにいる感じ。ユウは肩で扉を押し、その重さに体重の角度を合わせる。ミナが先に滑り込み、ユウが続く。


 廊下はまっすぐで、明るすぎた。

 壁面の案内表示がドットの粒で光り、矢印が幾つも重なる。最下段に“記憶保全区”。矢印が祈りのしるしのように見えるのは、ここでしか見ない光の白さのせいだ。ユウは声を出さない。代わりに、手の甲の文字をミナに見せ、小さく頷く。頷きの深さで、曲がる角の数を共有する。


「右の扉の奥、警備二。左は空き。廊下、赤外線ひと本」


 ツムギの声が耳の中の薄膜をくぐり、具体の輪郭を与える。耳の奥で、ソラの陽動が遠く小さく爆ぜた。カイの短い指示が回線をかすめる。いくつもの音が糸のように二人の身体に絡み、進む方向を教える。

 ユウは赤外線の柱の前で息を止めた。ミナがズボンの裾から小さな鏡を取り出し、床すれすれに差し入れて角度を調整する。反射の細い線が赤をずらし、ユウの足が影の上を渡る。


 中枢に達するのに、たぶん五分。長い五分。

 ガラスの向こうにラック群が現れた。青白い冷却の湯気が低く漂い、画面の中で膨大な断片が走っている。誰かが笑い、誰かが泣き、誰かが手を握る。名前のない映像の山。記録は生きているのに、ラベルは死んでいる。

 ユウは息を止め、ミナは手を口に当てた。ガラスに寄れば寄るほど、体温が奪われる。そこに、自分たちの映像もあった。訓練所の裏庭。鐘楼の影。段ボールの上。隠してきたはずのものが、整然と陳列される光景に、膝から力が抜ける。


「コピーする。全部じゃない。『返す』ぶんだけ」


 ミナの指が震えた。ユウは端末のケーブルを選び、ラベルのないポートへ差し込む。画面の片隅に小さなウィンドウが開き、%の数字が静かに進んでいく。自分たちの“言葉”だけを携帯デバイスに落とす。盗みではなく、返還。世界に公開するのは、最初の一点からでいい。いっぱいの水はこぼれるが、一滴は運べる。


「三十……五十……七十」


 ツムギのカウントが耳に沿って滑る。その間にも、遠くで陽動の音が増える。ソラが風を読み、音を撃っている。カイが回収ポイントを一つずつ開けていく。糸が何本も絡み、切れないロープになる。


 九十、九十五、……九十八。

 完了音が鳴る前に、背後から声が落ちた。


「やあ、実験群」


 振り返る。

 ハシバが立っていた。白いライトの中で、影が薄い。驚きがない。つまり、待っていた。ポケットに手を入れたまま、彼は軽く笑った。


「交換条件? ここにあるのは、すべて条件そのものだよ」


 条件――ユウはその音を腹の中で崩してみる。条件は、ものとものの間に線を引く言葉だ。線を引く側の都合が、いつも強い。

 ミナがユウの肩を掴む。掴んだ手の力の向きが、“ここで飛ぶな”と告げている。ユウは一歩だけ前に出て、そこで止まった。


「君たちの恋は美しい」


 ハシバは言葉を磨いて置いた。

「だからこそ、世界のために使われるべきだ。愛は資源だ。公開すれば、均される。均されるから、皆が救われる。君たちの“保持率”は、どれほどの命を延ばせるだろう」


 甘い。しかも戦術的だ。資源、公開、延命。ユウは右手の甲へ視線を落とし、黒い線の温度を確かめる。ミナの左手がその上に重なった。重なりは、旗の代わりになる。旗はたたまれるが、手は重ねられる。


「交換するなら、まず返すべきだ。俺たちの話を、俺たちに返せ」


 ユウの声は静かだった。

 ハシバは目元だけで笑った。


「返す? 君たちの話はとっくに世界のものだ。公開とは、そういうことだ。『世界のものになる』。それが正義だ。君たちの胸の中で大切に握りしめているから、世界は苦しむ。開けなさい。広げなさい。私はただ、その手伝いをしているだけだ」


 正義、公開、世界。言い換えるほどに、言葉の手触りは失われる。ユウは胸ポケットの紙を指先で探った。初日のメモ。裏の途切れた文。ミナへ。レンが敵でも、ぼくは――。続きはまだ書いていない。書けば決心になる。決心は、動きを固くする。


「条件を変える」


 ユウは言った。

「公開は、こちらから始める。順番を渡さない。交換の台に乗せるものは、俺たちが選ぶ」


 ハシバの笑みが、髪の毛一本ぶんだけ浅くなった。


「選ぶ? 選択の自由は、君たちが想像しているほど広くないよ。たとえば――」


 彼の視線がモニタのひとつで止まった。画面に映るのは、鐘楼の影でユウとミナが笑う断片。ほとんど無音。そこへ別のウィンドウが重なる。医務棟の薄暗い廊下。天井の隅に向けられた小さなマイクの赤い点。

 ハシバはポケットから細いリモコンを出し、親指で押す。天井のスプリンクラーが音もなく方向を変え、火災でない雨の代わりに白い霧を吹いた。空気が冷える。視界が少し曇る。


「選ぶと言うなら、今選びなさい。ここで証拠を持って逃げるか、ここで公開するか。前者は盗み、後者は正義。交換の台は整えた。条件は完璧に対称だ」


 完璧。対称。言い方がきれい過ぎて、どこか嘘に触れる。ユウは一瞬だけ目を閉じ、ミナの指を強く握った。霧の粒が髪に触れ、皮膚に冷たさの点を作る。

 耳の中で、ツムギの声がふっと戻った。


「回線、開けられる。三十秒。施設内の“亡霊”を通す。鐘の周波数と同じ帯で、監視をくぐれる」


 亡霊フラッグ。あの夜の見えない旗。ユウは喉の奥で小さくうなずく。

 霧の向こうで、ソラの陽動音が不自然に膨らんだ。たぶん、わざとだ。こちらへ視線を寄せるための鳴らし方。カイの声が短く重なる。「回収、南側第二。十五で動く」


「答えは?」


 ハシバが問う。

 ユウは一歩、前へ。ミナの手も一緒に移動する。


「交換条件。俺たちは――“返還”から始める。公開は、そのあとだ。順番の所有権は、こちらにある」


 言い終えるのと、ツムギの亡霊フラッグが回線に乗るのが、ほぼ同時だった。三つ、間、二つ、長い一つ。施設の空調のうなりに紛れて、誰にも分からない合図が走る。

 モニタの端が一瞬だけ滲み、録画のリストが不自然にスクロールする。表示が乱れる隙間に、ユウは携帯デバイスを胸ポケットへ戻し、ケーブルを抜いた。ミナがさりげなく工具を落とし、金属音でこちら側のリズムを作る。


「止めなさい」


 ハシバの声が低くなる。ポケットの中で、何かがカチリと鳴る。背後の扉の磁気ロックが強まる音。霧が濃くなり、ライトが一段階明るさを上げた。

 ユウは霧の中のわずかな濃淡で出口を見定め、ミナの肩へ手を置く。指の二番目の関節で、右。ミナがわずかに頷く。足が揃う。


「十五」


 カイの声。

「十」


 ツムギの声。

「五」


 ソラの銃声が遠くで二つだけ。音が通路の骨を震わせる。

 ユウは一歩を切り、霧の段差を跳ぶ。ミナが追う。足の裏が床の溝をかすめ、滑らずに止まる。背中で、ガラスの向こうのランプが一斉に瞬くのを感じた。何かが切り替わり、何かが記録され、何かが上書きされる。


 扉を押す。重い。押し返す力が数字を持っているみたいに均質で、冷たい。ユウは肩の角度を変え、肘で押し、腰で押す。ミナが反対側から取っ手を引いた。引く力と押す力の合計が、ロックの抵抗を一瞬だけ上回る。隙間。体を滑らせる。


 廊下に出た瞬間、冷たさが消える。空気が動く。

 ユウは振り返らない。振り返ると、持ち帰るべきものの重さを誤る。ミナの呼吸の音を隣で拾い、歩幅を合わせる。右、左、角、段差。全部が身体に入っている。耳の奥で、亡霊フラッグがもう一度鳴る。三つ、間、二つ、長い一つ。


「停電」


 ツムギの声が、笑いを堪えるみたいに短く跳ねた。

 ライトが一度だけ落ち、非常灯の赤が細い道に色をつける。警報が遅れて鳴り、誰かの足音が遠くで増える。ソラの陽動が別方向へ流れ、追う影の速度が分散する。

 ユウはミナの手を握った。握った手の中で、濡れていない温度が確かに残っている。扉、段差、最後の角。息を合わせ、加速し、減速し、角の外で一度だけ止まる。


 出口の先に、夜の色があった。

 窓のない廊下から一歩出ると、空があった。雲は厚いが、雨はもう落ちていない。外壁の配線が風でわずかに揺れ、地面に細い影を作る。そこに、カイの影とソラの輪郭が重なった。

「回収」


 カイが言い、ソラが無言で先頭に立つ。走る。息は数えない。ただ、体の傾きで速度を決める。背後で警報が濁り、扉の向こうで人の声が増える。


 野営地へ戻るルートは、来た時より短く感じた。

 たぶん、身体が早く覚えたからだ。覚えた順に、忘れない。ミナは走りながらも手の甲の黒を見て、親指で一度だけなぞった。ユウも、胸ポケットの硬さを指で確かめる。そこに“返すべきもの”がある。順番は渡さない。交換の台に乗せるものは、こちらが選ぶ。


     ◇


 テントに戻ると、空気が少しだけ生暖かかった。

 ツムギがノートを広げ、回線のログを紙に写す。亡霊フラッグの帯で抜けた証跡。どこから入り、どこで跳び、どこで逃げたか。紙に点が増え、線が生まれる。ソラは銃を机に置き、分解しながら黙って二人の顔を見た。カイは誰にも見えないように、息をひとつ長く吐いた。


「見せて」


 ミナが言う。ユウは頷き、携帯デバイスを取り出して布で包む。包んだまま、ミナの手に渡す。ミナは包みを胸に当てた。

「返そう。レンにも。私たちにも」


 ツムギが端末を起こし、外への“窓”を探し始める。公開の順番を選ぶための窓。世界の中の、もっともまっすぐな風の通り道。

 ユウは天幕の布をわずかにめくり、外を見た。まだ薄暗い。空に光の骨が残り、鐘楼のない丘の輪郭が線だけで浮かんでいる。


「交換条件」


 ユウは口の中でつぶやいた。

 向こうの条件は整っている。こちらの条件は、まだ形の途中だ。途中の形は弱いが、柔らかいぶんだけ折れない。折れないうちに、明日を迎えればいい。

 彼は右手の甲の黒に、もう一度だけ指を置いた。黒は冷たいのに、胸の中心が温かい。奇妙だが、本当だ。


 その時、テントの外で短い合図が鳴った。

 鐘ではない。亡霊でもない。ツムギが決めた帯域でもない。

 司令部からの通達。新しい“交換条件”の通知。

 ユウは目を閉じ、ひと呼吸だけ遅らせてから布をめくった。

 文字は短かった。

 『公開に応じる。条件:研究継続。監督者 ハシバ』


 ミナが小さく息を呑んだのが、背中で分かった。

 ユウは首だけで左右を見て、カイと視線を合わせた。カイは一度だけ頷いた。頷きの意味は、“次の手順に移る”。

 外の空はまだ明けきらない。稜線の上に、薄い白がひと筋だけ伸びる。

 条件は、いつだって上書きされる。

 なら、こちらも上書きする。

 返すべきものを返し、公開の順番を渡さず、手の甲の黒を一度ずつ濃くしていく。

 ユウは胸ポケットの紙をもう一度確かめ、折り目の位置を指で整えた。

 ミナへ。

 レンが敵でも、ぼくは――


 続きは、今はまだ書かない。

 書かないことで、進む余白が残る。

 余白のぶんだけ、明日を選べる。

 彼はそう信じて、天幕の隙間からの白い線を目で追った。

 雨上がりの朝の色は、まだ“交換”の前にある。

 交換の前に立つ自分たちの手が、確かにここにある。

 それだけを確かめて、ユウはペンを握り直した。

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