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死んだ子どもたちの戦争  作者: しげみち みり


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第13話 雨の停戦

 空が割れるような音とともに、雨が来た。

 天幕の布を叩く細粒の連射はすぐに厚みを増し、野営地の輪郭を溶かしていく。ユウは入口の布を少しだけ持ち上げ、灰色の幕の向こうを覗いた。視界は三歩も進まないうちに水で閉じ、足跡は作られるそばから崩れていく。機器は沈黙し、無線の針は濁った水の底で眠るみたいに動かない。司令部の端末に「雨天停戦」の短い通達が届いたのは、その少しあとだった。

 停戦。紙の上では。現場はいつも、紙より少しだけ汚れている。


「車庫へ移る。屋根が低くて音がうるさいが、見通しは悪くない」


 カイが言った。肩の包帯の白が、雨の暗さの中でやけに明るい。痛みは声に出ない代わりに、指示の言葉が端的になっていた。

 廃車庫までの十数歩を走る。ユウはミナの後ろにつき、手の甲の“ミナ”の黒を親指で押さえた。押さえた感触だけが、濡れていない。雨は公平で、命令は不公平だ。公平なものが世界を叩き、数分前まで残っていた正しさの方向が、いっせいに曖昧になる。


 廃車庫には古いトロッコと、車輪だけになった台車がいくつか残っていた。屋根はところどころ穴が開いて、そこから太い筋のように雨が落ちてくる。床の水たまりに天井の穴が映り、逆さの空が揺れる。ソラは銃を分解し、排水孔のように水を抜いた。ツムギは無線を布で包み、三枚目の布の上にさらに折り畳んだガーゼを乗せる。ミナは濡れた包帯の匂いを嫌う素振りも見せず、交換を手早く済ませた。カイは入口に立ち、雨の強さを数える。

「三十。……四十。……いまは五十。弱まるとき、敵が動く」


 ユウは濡れた服の裾を絞り、床に滴る円の大きさで呼吸の早さを測った。右手の甲の“ミナ”は、雨の中でもまだ読める濃さで残っている。彼はふと、車庫の反対側に輪郭の塊があることに気づいた。人影の密度が、こちらの数とそう違わない。背のライン、肩の位置。雨のカーテン越しに、中央の横顔だけが輪郭で分かった。レン。

 ミナの喉が詰まるのが、すぐ近くで分かった。ユウは反射で彼女の肩に手を置く。手順。会ったら笑う。銃は下ろす。安全装置は同時に。手の甲を見る。名前は最後。撃たない理由を先に言う。

 頬がこわばっているのが分かったが、ミナはわずかに口角を上げた。ユウも続ける。レンは一瞬だけ戸惑い、それから困ったように笑う。雨は音の多くを消す。だから、言い過ぎない。相手の口の形と、目の動きと、手の甲だけでやり取りした。


 生きてる?

 ミナの口が、そう動いた。

 レンは頷く。

 終わらせたい?

 ユウが形だけで問う。

 レンはまた頷く。

 それだけで、条約文の長い段落よりも正確な合意が胸に落ちた。紙は濡れるが、いま交わした形は濡れない。


 レンの副官が一歩抜け、三人の間に端末を差し入れてきた。古い動画ファイル。ツムギがほんの少し迷い、うなずいてから再生する。映像は荒く、色は褪せ、音は雨と競り合ってすぐに負けた。訓練所の片隅。ユウとミナ、そしてもう一人、カメラに顔を寄せてはしゃぐレン。三人は若く、死ぬ前の体温を持っていた。笑い声は聞こえないのに笑っていて、口の動きだけで意味が分かった。

 終了宣言。

 ふざけてカメラに向かって、口が揃う。

 次に会えたら笑って。

 画面の中の三人がそう言って、今の三人が同じ形で笑う。笑いながら、同時に現在の自分を哀しく思う。ツムギは画面を見つめ、言葉を失っていた。雨は降り続け、映像の音声はほとんど聞こえない。聞こえないのに、意味だけが伝わる。たぶん、あの時も雨が降っていたかもしれないと思うほどに。


 雨は同じ屋根の下に人を集める。

 敵味方が同じ梁に背を預け、同じ滴の下で息をする。ソラは反対側の柱の影で狙撃手と目が合い、互いに銃口を下げた。カイはレンの部下と短い会話を交わす。

「誰が撃った?」

 答えは得られない。けれど誰もが、撃たない理由を探しているのは分かる。理由は外に置くものではなく、内側で作るものだ。ツムギは濡れた紙を取り出し、亡霊フラッグの簡易図を早い線で描いた。三つ、間、二つ、長い一つ。鐘の代わりの鐘。彼女はそれを敵の若者に手渡す。

「これを、見逃して」

 若者は一瞬だけユウたちを見、それからうなずいて図を懐にしまった。その仕草は、ものを隠すというより、体温の近い場所に移す動きだった。


 雨脚が強まったり弱まったりする。カイが数える数字が少しずつ変わり、天井の穴から落ちる滴の間隔が伸びる。ユウはミナの指が自分の袖口を無意識に摘むのを感じ、心の中でその強さを一から十まで勝手に尺度に当てはめた。いまは四。さっきは六だった。少し、落ち着いた。

 レンがこちらへ半歩だけ寄る。ミナは目を伏せ、ユウは肩をわずかに前へ。カイの視線が止める。止めるというより、昔の友人の背中に手を置くみたいな止め方だった。停戦は紙に残らないが、身体には残る。身体に残ったものは、明日、紙よりも早く動く。


「向こうは、明日にも“実験”を」


 レンの副官が、雨の音の隙間を探すように口を開いた。

「ハシバは止まらない。恋を装置にしたい」

 恋、という音は車庫の鉄の匂いと合わない。ミナの眉がすこし寄る。ツムギは顔だけで「分かってる」と返し、無線の布の上からさらに手で覆った。


「装置にされる前に、終わらせる」


 ユウは自分の声がいつもより低いのに気づいた。雨が音を削るぶんだけ、言葉の骨組みが露出する。レンは頷き、手の甲を見せる。薄く残った、崩れた“ユウ”の字。雨がそれをさらに薄くしていく。ミナは無意識に一歩出て、その手の甲を一瞬だけ握った。触れること。旗でも腕章でもなく、いま必要なのは触れることだった。

 握られた手の温度が、雨の公平さに逆らって少しだけ偏る。偏りは、方向になる。方向は、ここでは正義ではなく退路だった。


 車庫の天井の穴がひとつ、稲妻の明滅に白く縁取られた。音は遅れてきて、鉄骨が低く震えた。ソラが目だけで天井を示す。時間が動いた合図だ。

 カイの数える雨の数字が、三十から二十へ落ちる。息の溜め方を変える。停戦は終わる。紙には書かれていないが、身体の方が先に知っている。


「戻る」


 ユウが言うより早く、ミナがうなずいた。レンも副官に目だけで合図する。ソラは銃を組みなおし、ツムギは布から無線を出して一度だけ短く亡霊フラッグを鳴らす。三つ、間、二つ、長い一つ。反対側から、同じリズムをわざと見逃す足音が返ってくる。

 ユウは胸ポケットの紙を指で押さえた。初日の“記憶欠落メモ”。裏の途中で途切れた文。ミナへ。レンが敵でも、ぼくは――。続きはまだ書けない。書けば決心になり、決心は動きを固くする。いまは、柔らかい方がいい。


 水の音にまぎれて、レンが口の形で言った。

 次に会えたら。

 最後まで言わない。その未完成の形が、約束の代わりになった。

 ユウもうなずく。ミナも、わずかに笑う。


 合図に従い、双方はゆっくり下がった。背を向けない。走らない。銃を上げない。練習通り。水たまりの上に波紋が丸く広がり、別の水たまりの波紋と重なって崩れる。重なったところで音が濁り、濁った音がやがて静かに消える。

 駆ける足が、雨の縫い目に飲まれていく。ソラが最後尾を受け持ち、ツムギは周波数を一段階変える。カイは一度だけ振り返り、車庫の梁の影に残るレンの輪郭を確かめた。そこにある。まだ、こちら側と向こう側の形がちがううちに、今日はここで切る。


 野営地に戻る道は、来た時より浅く見えた。雨が地面をならし、足の記憶をまっさらにする。ユウは歩幅を揃え、ミナの息の上下と合わせる。彼女の掌は少し冷え、でも指先は温かい。

「背中、見せて」

 テントに入るなり、ミナが言った。ユウは素直に上着を脱ぎ、背を向ける。さっきの裂けは浅く、血はもう止まっていた。ミナは水で洗い、消毒し、包帯を巻き直す。包帯の端に小さく“笑う”と書く。筆圧は強く、線は短い。

「笑える?」

「今は、まだ途中」

「なら、あとで」


 会話はそれで足りた。

 ツムギは濡れた暗号表を乾いた布に挟み、亡霊フラッグの記録に新しい欄を足す。雨天時の聴こえ方、天井の穴の位置で生まれる反響のズレ、走る水音に埋もれない間の長さ。紙の上に音の地図が増える。紙は濡れるけれど、乾けばまた読める。

 ソラは破れた白帯を結び直し、ほどけにくい結び目に換える。カイは短い出欠を取り、名前を点のように数えていく。欠けはある。あると数えることが、残った名前の明るさを反射的に増やす。


 雨は弱まった。

 天幕の布を叩く音が、やがて単音に近づき、遠くで別の音が混ざる余白が生まれる。鐘の音。割れた鐘ではない、別の地区の鐘だった。丸く、濡れた空に乗ってここまで届く。

 ユウはその一度の音を、胸の内側でひとつだけ転がす。転がすうちに角がとれ、音が“ある”という事実だけが残る。誰が鳴らしたのかは重要ではない。音が届いたことが重要だ。

 レンの側にも、同じ音が落ちたはずだとユウは思う。思うことは、届かないと知りながら届かせようとする動作に似ている。


 ミナはペン先の黒を確かめ、ユウの右手の甲に“ミナ”を重ねた。雨に溶けた線の上に新しい線が重なり、黒は濃くなる。濃くなった黒は、すぐには消えない。消えないあいだに、明日が来る。

「明日、晴れるかな」

「晴れたら、終わる?」

 問いに、ユウはすぐ答えなかった。雨は公平で、命令は不公平だ。晴れは公平だろうか。

「晴れても、たぶん終わらない。晴れたことを理由に“続ける”やつがいる」

「うん。だから、私たちは“理由”を逆に使う」

 ミナは包帯の端を押さえ、笑ってみせた。笑うと、包帯に書かれた“笑う”が少しだけ本物になる。


 ツムギが静かに近づき、小さな紙片をユウに渡した。

「これ、さっきの図と同じ。レン側に渡したのと」

 亡霊フラッグ。鐘の代わりの鐘。三つ、間、二つ、長い一つ。

 ユウはうなずき、紙を胸ポケットにしまう。初日のメモと触れ合って、二枚の紙の間に温度が籠る。未送信の言葉と、未記入の続き。どちらも、書けば武器になるし、刃にもなる。いまはただ、重ねて持つ。


 夜は長くない。雨の夜は、いつもより少しだけ早く終わる。

 天幕の隙間から外を見ると、空は厚い鉛色を薄く剥がし、傷の下から白がのぞいていた。稲妻が短く光り、光は戦争の再開を告げる合図に似ていたが、確かに違った。あの光は命令ではない。ただ空が自分の重さを分配するための動きだ。

 命令は不公平。空は公平。人は、そのあいだに立つ。


 ユウは紙を取り出し、乾いた膝の上に置いた。

 ミナへ。

 今日、雨で助かった。ぼくは――

 ペン先が途中で止まる。止まったところに、次の言葉の形がぼんやりと浮かぶ。浮かぶだけで、書かない。未送信は、諦めではない。明日に残すための、形のままの準備だ。

 彼は紙を折り、胸に戻した。折り目の角が包帯の端に軽く触れ、ミナが気づかない程度の音で擦れた。


 外で、どこかの車輪が軋んだ。

 雨はほとんど上がり、天井の穴から落ちる滴が一滴ずつになっていく。水たまりの波紋はもう重ならず、丸い輪が一つずつ広がって消える。

 ユウは右手の甲を胸に当て、目を閉じた。

 手の甲の黒は、皮膚より少し冷たい。その冷たさが、むしろ体の中心を温める。奇妙だが、本当だ。

 明日、雨が止んで空が開いたとしても、今日みたいに確かなものが残るだろうか。残す。残すと決めるのは、天気ではなく、自分たちの手だ。


 テントの外で、最後の大きな滴が落ちた。

 その音は合図ではない。ただの音だ。

 ただの音があるおかげで、合図の音はいつでも際立つ。

 鐘がまたいつか鳴るとしても、鳴らないとしても。

 ユウは未送信の重さを胸に置き、眠りに沈んだ。眠りは深くはなかったが、足場としては十分だった。

 雨の停戦は紙に残らない。けれど、身体に残る。

 そして、身体に残ったものは、次の朝、最初の一歩の向きになる。

 彼はその向きのことを、胸の中で「こちら側」と呼んだ。

 まだ、こちら側にいる。

 それだけを確かめて、目を閉じた。

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