第12話 亡霊フラッグ
夜は最初から、見分ける意志を試すために用意されていたみたいだった。
風が旗をたたみ、裂き、どちらの陣の布も同じ闇に飲みこむ。腕章の色は黒に溶け、識別は短い光信号と、すれ違いざまの息の切れ方だけになる。ユウは右手の甲に残る“ミナ”の線を、手袋越しに指で押した。にじんだインクの輪郭が、皮膚の下の熱と混ざる。そこだけ、暗闇が薄い。
「足の置き方、肩の落ち方、息の止め方で見ろ」
ソラがひと言ずつ区切って教える。階段の踊り場のように低い声。
「撃つな。まず動きを切ってから、問え」
カイは肩に帯をかけたまま、痛みを顔に出さなかった。腕の包帯は濃い影になり、彼の輪郭を少し細く見せている。「識別は腕章じゃない。癖だ。癖が唯一の固有名になる」
ツムギは無線の短文に固有のリズムを混ぜる案を出し、すぐ実装した。短点、長点、休止。鐘の音階をまねて作った小さな節を挟む。
「言葉に表さない印を入れよ、って古い手引きにあった」
「いい。やれ」
ミナは白布を細く裂き、短い帯にして皆の背に結んでいった。風が動けば、糸の先がかすかに揺れる。光でも色でもない“手触りの印”。ユウが背にそれを結ばれる瞬間、布と布の摩擦で小さな熱が生まれた。印は、触れた体温の名前を借りる。
交戦は、音の前に影で始まった。
路地の角、崩れた塀、割れた窓。それぞれの縁から影が押し出され、短い光信号が交差する。合言葉は今夜だけのもの。正しいはずの音が、風で削られて変形する。ユウは胸の奥で音を確かめ、ズレを自分の方で合わせる。合図に合わせ、壁と壁の間を低く抜ける。背の帯が風に触れ、背骨を伝って揺れる。
旗の不在は、戦場から“正義の向き”を奪った。
誰が攻めで、誰が守りか。どちらが間違いで、どちらが正しいのか。旗が立っているときは、そこに矢印が生える。けれど今は、どちらの矢印も押し流されて、足場の下をいく薄い水みたいに形を変え続ける。
交差点の奥から、ひとりが飛び出した。
ユウは反射で身を丸める。相手の腕章は見えない。銃口がこちらに向く。引き金の上の指が震えている。ユウはその震えを知っていた。自分が昨日まで握っていた震えの形。
敵か、味方か。判断の前に、身体が先に決めた。ユウはその兵の前へ一歩出て、肩で銃口を外へ押しやる。刹那、背に熱い痛み。味方の弾が、ユウの背中の布を裂いた。熱は鋭く、痛みは遅れてくる。膝が落ちかけ、足が地面の砂をつかむ。ミナの短い息が、どこかで止まったのがわかる。ソラの弾が発射元を威嚇し、音を黙らせる。庇った兵は倒れこんだユウを見て、震える声で言った。
「ありがとう」
どちらの言語なのかさえ、分からなかった。
真夜中。旗のない場所では、礼の音でさえ宙ぶらりんになる。けれど礼は礼として体に入ってくる。ユウは頷き、痛みの位置を頭の中で地図に置き直す。かすり傷。通る。動ける。ミナの手が背に触れ、圧迫が一拍、二拍。大丈夫、と言わないで大丈夫の合図を送る手。ユウは呼吸の長さを変えないよう努め、視線だけを隣へ送った。
「亡霊フラッグ、掲揚」
ツムギの短文が無線に走った。
亡霊のような、見えない旗。鐘の周波数を模した断続音。三つ、間、二つ、長い一つ。鐘楼を失って久しいが、耳はまだ音程の記憶を持っている。味方だけが、そのリズムに反射的に反応する。ユウの足元の影が一斉に同じ方向へ動き、外周のソラが縫い目を作る。
その音に、敵の動きの一部が“気づかないふり”をした。ツムギは瞬間、無線の波形でそれを見抜いた。レン隊の一部が、意図的に見逃す足取り。撃てるのに撃たない。旗がない夜、見逃すことが旗の働きを代わる。どこかで、合意が生まれつつある。危うい合意。呼吸ひとつで壊れる合意。
「良い研究が見えてきたよ」
割り込む声が、耳の奥に冷たかった。
ハシバだ。
「君たちの恋は、戦争を終わらせる鍵だ。亡霊フラッグ、素晴らしい。愛の周波数は、死のリズムを打ち消す」
甘く、戦術的な言い方だった。
恋を旗にする。言葉にすれば簡単だ。だが、簡単な言葉ほど罠になる。ミナの肩がわずかに硬くなり、ユウは自分の右手を前へ出した。暗闇の向こうへ、触れられる範囲で伸ばす。ミナの指がその手をつかむ。手の甲に書かれた“ミナ”の字が汗で溶け、皮膚に染みる。ふたりの位置が合わさった瞬間、周囲の味方が自然と寄ってきた。
旗ではなく、触れた手が臨時の中心になる。
そこが、いまの基準点だった。
「軸、ここに置く」
カイが間髪入れずに線を引き直し、退路を右へ倒す。ミナはユウの背にもう一度手を置き、圧迫の角度を変える。ソラが外周を縫う。ツムギの亡霊フラッグが夜風に乗って広がり、紛れた味方をこちら側へ吸い寄せる。敵側の何人かは、その音に気づきながら、やはり撃たない。撃たない理由が、今夜だけは言葉より先に成立していく。
小さな広場で、一度だけ膠着した。
崩れた銅像の台座。割れた舗道。瓦礫の隙間に、小さな光が落ちる。ユウはそこで見た。レンではない、彼の副官の横顔。時間を置いた視線。動けば撃つ。動かなければ、夜がほどけるまで待つ。その判断の間に、亡霊フラッグの断続音が流れ込む。副官は顔をわずかに上げ、視線を空へ逃がした。逃がすことで、こちらへ撃たない許可を自分に与えているように見えた。
ハシバの声が、まだ無線のどこかにいた。
「君たちは器だ。痛みを引き受ける器。戦争の痛みは、愛で薄められる」
ツムギがチャンネルをふたつ切り、もういちどつないだ。彼の声は砂利の音みたいに細かくなり、やがて消える。消えたあとに、亡霊フラッグの音だけが残る。
ユウは自分の中に小さな怒りの石があるのを確かめた。石は投げない。投げない代わりに、足場にする。足場にできるうちは、夜を渡れる。
夜は長くて、しかし切れ目はある。
その切れ目ごとに、名前を確認する時間を取った。ミナは倒れた兵の胸に手を置き、息と脈のリズムを名前の音に変える。カイは出欠を短く取り、短い返事を積んでいく。ソラは旗のない闇の中で、敵意の動きだけを狙い、撃たない選択を増やしていった。撃たないのに、守れることがある。それがわかるたび、亡霊フラッグの音が確かな太さを帯びる。
風が変わった。
北から、少し冷たくなって降りてくる。亡霊フラッグの断続音に、風の切れ目が混じる。ユウは背の帯を指で触り、ミナの手の位置を再確認した。手の甲の“ミナ”の字はもう形を保っていない。ただ黒いあたたかさになって、皮膚に乗っている。そこに親指を置くだけで、夜の輪郭が少しはっきりした。
撤退の合図。
ツムギが三度短く、間を置いて長く鳴らす。鐘の代わりの鐘。ユウは近い者から順に引き寄せ、帯の端をつかませて列を作る。触れることで、順番が生まれる。順番が生まれると、恐怖の散乱が減る。
段丘の斜面を下りる途中、背中の布がまたひとつ裂ける音がした。ユウはその音を聴きながら、痛みが来ないのを確かめた。布だけが裂けた。ミナがすぐ横でうなずく。彼女の指先が、ユウの肩甲骨の上で一度だけ押す。その押し方で、行ける、と伝わる。
夜の縁がほどけはじめた。
東の空が、紙を水で薄めたみたいに白くなる。顔が見えるほどではないが、輪郭に名前が戻ってくる。生き残った者たちが互いの名前を確かめ合う時間。ミナはユウの背中の傷口を洗い、消毒し、包帯を巻き直した。包帯の端に小さく、いつもの筆跡で“笑う”と書く。線は短く、確かだ。
「笑える?」
「今はまだ」
「なら、後で」
短い会話で十分だった。
ツムギは暗号表を閉じ、亡霊フラッグの記録を新しい項目として保存する。リズムと間を、紙の上に乗せる。紙の上の音は、明日も同じ音でそこにある。ソラは破れた帯を結び直し、ほどけにくい結び目に変えた。カイは小さな声で出欠を取り、欠けをひとつずつ数えた。欠けはある。あることが、戻った呼び名の数を逆に強くする。
見張り台の向こうで、空の色がもう一段明るくなった。
そのとき、無線が小さく鳴った。
ハシバだ。
「明日、実験を再開する」
短い宣告。
旗を取り戻すのではなく、旗の形を決めてしまう声。彼はいつも、境界線を自分で引きたい。引いた線の内側に、他人の心を並べたい。
ユウは無線から目を離し、テントの布越しに空を見た。朝焼けの色は薄く、まだ無色に近い。中央に、見えない旗がはためいているような錯覚が一瞬だけ走った。旗はない。けれど、風は本当にそこを通っている。
朝の点呼が終わり、各自の手がいつもより長く握られた。
ユウはミナと視線を合わせ、右手の甲を見せる。黒いあたたかさは、文字の形を失っても“ある”。ミナは自分の手の甲の“ユウ”の字を見せ、そこに小さな丸を重ねて描いた。
「今日は、丸から」
「うん」
丸は閉じない。
わずかに隙間を残す。そこから風が抜け、亡霊フラッグの断続音がふたたび耳の奥に戻る。音は旗の代わりであり、旗よりも柔らかい。柔らかいのに、線は折れない。
ユウは胸ポケットの紙を確かめた。初日のメモの裏。“ミナへ。レンが敵でも、ぼくは――”。途切れたままの文を、わざとそのままにしている。決めつけると、動けなくなる。動けるうちは、終わらせるために動ける。
カイが短く合図を出し、今日の配置に散る。
ツムギは無線の音をひとつだけ試して切る。
ソラはスリングを肩にかけ、肩の落とし方を少し変える。
ミナは包帯の端を撫で、ユウは背筋を伸ばす。
亡霊フラッグは、まだ紙の中にある。紙の中にあるものを、次に外へ出すとき、誰に見せるかを選べるうちは、まだこちら側だ。
朝の風が、見えない旗の通り道をもう一度なぞった。
音は聞こえない。けれど確かに、布のない場所で何かがはためいた。
ユウはそれを、合図ではなく証拠と呼ぶことにした。
旗がなくても、寄る場所は作れる。
寄る場所がある限り、終わらせ方は自分たちで選べる。
選ぶために、今日をもう一度始める。
そのための準備が、もう掌の上にそろっていた。




