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死んだ子どもたちの戦争  作者: しげみち みり


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第11話 さよならの演習

 司令部のテントに、短い通達が届いたのは曇りの朝だった。

 南西の段丘。双方代表者による短時間の接触。武装携行可、ただし安全装置を掛けること。時間は正午、距離は三十歩。

 ユウは紙を読み、息をひとつだけ飲み込んだ。通達の角は折れておらず、黒いインクは乾ききっているのにどこか湿って見えた。

「……行くしか、ない」

 カイが言った。声は低いが、決定の質量があった。

 ミナは頷き、机の上に白紙を広げる。「手順、いま決め直そう」

 ユウは椅子を引いて、ミナの斜め向かいに座る。ツムギがすぐ横に来て、鉛筆を二本。ソラは入口に寄り、外の気配に耳を配りながら黙って立った。

「まず、『会ったら笑う』」

 ミナが一行目に書く。文字は丸いが、止めと払うところが強い。

「『銃を下ろす』」ユウが続ける。

「『安全装置のクリックを、相手と同時に』」ツムギが提案し、ミナが書き足す。

「『手の甲を見る』。忘れたら、忘れてないふりはしない」ミナ。

「『名前を呼ぶのは最後』」ユウが言うと、ミナの手が一瞬止まった。

「……うん。最後に残す」

「『撃たない理由を先に言う』」ユウは続けて書き込む。「“撃てない”じゃなくて、“撃たない”。責任の形を先に出す」

 カイが紙をのぞき込み、「代表は?」と問う。

 ミナが「わたしとユウ」と言った。ユウも頷く。「彼に会うのは、ぼくたちの仕事だ」

 カイはしばらく黙ってから、頷いた。「ソラは後衛。ツムギは通信の穴を埋める。俺は裾で弾よけ兼、退路確保だ」

「もう一つ入れて」

 ツムギが指で紙の余白を叩く。

「『言い淀みの時間』。沈黙は合図にもなる。しゃべらないことを、責めないって最初に決めよう」

 ミナは大きく丸で囲み、「重要」と小さく書き添えた。それから視線をユウに移し、笑ってみせる。「練習、する?」

 ユウは口角を上げ、頷いた。「笑うのは、さっきよりもゆっくりで」

「銃を下ろして、安全装置は同時。クリックの音、合わせる」

「手の甲を見る」

 ユウは右手を上げた。朝、ミナが書いた“ミナ”の字が黒く残っている。ミナは自分の左手に“ユウ”を重ね書きして、にじむ線を愛おしそうに押さえた。

「名前は、最後」

「撃たない理由を、先に」

 短い稽古が、紙の上と身体の上で一致した。紙の端が風で少しめくれ、さっきまでの自分たちがそこに挟まっているように見えた。

 段丘へ向かう途上、言葉は少なかった。

 ユウは右手の甲の“ミナ”を指でなぞる。線は朝より乾いて、指先から熱を吸い上げる。ミナは歩きながらもう一度“ユウ”を重ね、インクの黒さを確かめるみたいに親指で押した。ふたりのあいだに交わされる言葉は、今日は驚くほど少ない。節約ではなく、使うべき時に届くための温存だった。

 ツムギは電波状況を見ながら、端末の未送信フォルダを閉じる。

 送らないことも、いまは選択の一部だ。送らない言葉が多い日は、足取りが軽くなる。代わりに、耳が重くなる。

 ソラは岩場に近い尾根筋でスコープを覗いた。視野に段丘の肩が入り、風が南から斜めに抜けるのを頬で受ける。「狙うのは、敵意の動きだけだ」そう自分に言い聞かせ、息ではなく肩甲骨の角度で安定を作る。

 カイは丘の裾に小隊を配置し、退路を二本に分けておく。「戻る線は複数。戻る理由はひとつでいい」

 鐘楼は遠く、今日は鳴らない。だからこそ、合図は自分たちで決めるしかない。

 霧は薄く、風は南。

 決められた時間、決められた距離。

 ユウとミナが開けた地面へ出ると、反対側の白い石畳の向こうから三人が現れた。中央に、レン。輪郭は記憶の中と変わらない。顎の角度、歩幅の均一さ。ユウの足が止まり、ミナも同時に止まる。

「笑う」

 ミナが小さく口の形だけで言い、口角を上げた。ユウもゆっくり真似る。レンは一瞬驚いたように瞬き、そして困ったように笑った。困っているのに、視線は逃げない。

 三人とも銃を下ろす。

 安全装置のクリック音が、互いの間に小さな橋を架けるみたいに重なる。金属同士が穏やかに触れる音。交渉が始まる前に、もう“人の音”が場を包んでいた。

「時間、少ない」

 副官が先に言った。

 レンは一歩前に出て、形式的な挨拶を短く済ませる。ミナも同じ長さで返し、ユウは頷くだけにとどめた。

 レンの副官が紙片を差し出す。記憶保持プロトコルの公開要請、停戦の暫定案、双方の捕虜交換。箇条書きの短い提案は、現実の手触りを忘れないように固く簡潔だった。

 ユウは紙を受け取り、視線が自然にレンの手の甲へ吸い寄せられた。そこに、薄く崩れた“ユウ”の字。古いかすり傷の上に書いたみたいに線が波打っている。ユウは喉が鳴りそうになるのを中で飲み込んだ。ミナは視線を逸らし、紙に目を落とす。

「終わらせたい」

 レンが言った。声は低く、遠くの雲に届く前で止まる音量。

「誰の勝利でもない形で」

 ユウは頷いた。

「でも、ハシバが鍵を握っている」

「知ってる」

 レンの視線が段丘の影に向かう。「“向こう”は終わらせる気がない。終わらせるふりをして、続ける方法を探してる」

 ユウは胸ポケットの紙を指で押さえた。初日に拾った“記憶欠落メモ”。裏面の途切れた文。ミナへ。レンが敵でも、ぼくは――。続きはまだ書けない。書いたら、決まりになってしまう。決まる前に、やることがある。

「周囲、雑音。合図に注意」

 カイの声が無線で届いた。ツムギの手つきが速くなる。ソラがスコープから目を離さずに小さく首を振る。

 乾いた破裂音が一つ。

 音は近くも遠くもなく、空気の薄い部分を狙って割れた。誰が撃ったのか分からない一発が、交渉の空気に裂け目を入れる。ユウは即座に両手を上げ、ミナも真似る。レンも同時に手を上げ、三人の姿が同じ形になる。

 沈黙が、合図として働く。

 しゃべらないことで、意思を示す。

 その一拍の遅れで、ソラが射線に割り込み、二発目を外壁に弾かせた。石の粉が散り、光が粉に刺さって散った。

「下がりましょう」

 副官が小声で言い、レンはゆっくり頷く。動くときの速度は、とても練習に似ている。

「待って」

 ミナが言った。

 ユウは胸ポケットから小さな紙片を取り出し、三人の中心に置く。

「初日に拾ったメモの裏。ここ、途切れてる。『ミナへ。レンが敵でも、ぼくは――』」

 ユウは紙から視線を上げる。「この続き、きっと三人とも知ってる」

 レンは笑い、ミナは涙をこらえる。「続きは、終わってから言おう」

 その約束は、いま作ったばかりの“手順”の最後に、静かに差し込まれた。

 合図に従い、双方はゆっくり下がる。背を向けない。走らない。銃を上げない。すべて練習通り。

 そのとき、段丘の端で、カイが撃たれた。

 短い息とともに、膝が落ちる。肩口を掠めただけだが、血は赤を選ぶのが早い。ソラが即座に遮蔽を作り、岩片を蹴り上げて即席の壁を足元に積む。ミナが疾走し、止血の手を入れる。ツムギが無線を一度切り、周波数を変えて再接続する。敵側も動揺したが、レンは手のひらで空気を押すみたいに隊を止め、敵意の収束を指で指示した。

 交渉は辛うじて破綻を免れた。

 犯人は分からない。

 分からないものは、明日に残る。明日に残るものは、今日の終わり方を変える。

 野営地へ戻る道すがら、ユウは息の上がり方を意識的に整えた。呼吸を数えない。数えると緊張の形が変わってしまうから。肩の上下で距離を測り、足裏の土の硬さで現在地を知る。

 カイは自力で歩けるまでに戻っていた。包帯の白が服の黒に強く乗り、彼の大きさを少し小さく見せる。

「大丈夫だ」

 それだけ言って、口を閉じた。

 ソラは最後尾で、斜面の上を見張りながら歩く。ツムギは前を行き、弱い場所を踏ませないように靴の先で地面を試していた。

 テントに入ると、昼の匂いが冷えていた。

 ミナは器具を並べ、カイの肩へふたたび手を伸ばす。

「浅い。血管は無事。明日は持つ」

 カイが頷くのと同時に、ツムギがユウの袖を引いた。

「これ、見て」

 司令部の端末。匿名の告発データ。送り主不明。添付は一枚のスクリーンショット。医務棟で撮られた、ハシバの端末の画面。タイトル“記憶保持プロトコル”。右下に署名、ハシバ。さらに、端の隅に見慣れた“R”の頭文字。

 ユウは画面を見て、胸の底にある石が少し沈むのを感じた。沈むということは、まだ底があるということだ。

「……次の“手順”に入れる?」

 ミナが言った。

 ユウは頷く。「“終わらせたい理由”を、紙の上に出す。誰に見られても困らない言い方で」

「あと、“見られている可能性”を前提に動く」ツムギが続ける。「沈黙を合図にするって決めたみたいに、“記録を逆手に取る”も項目にする」

 ソラが短く、「狙うのは、敵意の動きだけだ」と繰り返した。それは彼の今日の仕事であり、明日の宣言でもあった。

 夕暮れが来る。

 鐘楼は遠いまま、今日は鳴らない。鳴らない日は、耳が内側に向く。

 ユウは右手の甲を、ミナの視線に合わせた。ミナはうなずき、ペンで“ミナ”をもう一度重ねる。線が太くなる。太い線は、消えるのに時間がかかる。時間がかかるあいだに、明日が来る。

 ミナの手の甲には“ユウ”。その隣に小さく“笑う”。今日も書く。明日も、きっと書く。

「名前は、資源じゃない」

 ユウは口には出さず、胸の中で言った。呼ぶためにある。呼ぶとき、ここに人がいる。

 ツムギは無線機を膝に置き、未送信フォルダに新しい項目を作って、すぐ閉じた。

 送らない。けれど、存在させる。

 送らない言葉が重い夜は、灯りを一つ多く点ける。多く点けた灯りが、外から見える。見えること自体を、今日は恐れない。

 カイは報告書を開き、短く事実だけを書いた。「交渉は接触、合意に至らず。ただし意思疎通のための手順を双方で確認」。肩の痛みで文が少し傾いたが、彼は直さなかった。傾いた文も、事実のうちだ。

「明日の“手順”、紙にまとめる」

 ミナが宣言のように言い、白紙を引き寄せた。

 ユウは胸ポケットから、初日の紙片を取り出して並べる。裏の途中で途切れた文と、今日増えた項目が隣り合う。

 会ったら笑う。

 銃を下ろす。

 安全装置を同時に。

 手の甲を見る。

 名前は最後。

 撃たない理由を先に言う。

 言い淀みの時間。

 見られている可能性を前提に。

 記録を逆手に取る。

 終わらせたい理由を、紙の上に出す。

 並べてみると、これは“さよなら”の手順であると同時に、“会い直す”ための手順でもあると分かる。別れの準備は、次の呼びかけの準備だ。

 夜風が布を揺らし、ランタンの光が白紙の上で揺れた。

 沈黙がしばらく続き、沈黙は今日、合図として機能する。何も言わないことで、同じ場所にいると共有できる。

 ユウは紙に短く書いた。

 “明日、ここから続ける”

 句点は打たない。続く場所を開けておく。

 眠りの浅いところで、ユウは目を開けた。

 外は暗く、遠くの段丘は夜の輪郭に溶けている。

 テントの隙間から、ごく短い光が見えた。星でも、火でもない。もっと冷たい光。

 見張り台の上で、黒いレンズがこちらを覗く一瞬。

 誰かが、この演習を観察し、次を仕掛ける構図が空に薄く描かれている。

 ユウは黒い穴の形を見て、胸の中でペンを握り直す。見られているなら、見返す番だ。見るための“手順”は、もう紙の上にある。

 右手の甲を胸に当てる。“ミナ”の字が心臓の上で温かい。

 明日、鐘が鳴るとしても、鳴らないとしても。

 笑う。銃を下ろす。手の甲を見る。名前は最後。撃たない理由を、先に言う。

 それが、今夜ユウが繰り返す、さよならの演習だった。

 テントの外で、風がひとつ、砂を運ぶ。

 砂の音は合図にはならない。ただの音だ。

 ただの音があるおかげで、合図の音は際立つ。

 ユウは目を閉じ、未送信の紙の重さを胸の上で確かめた。

 終わらせたい。

 その続きは、明日の場に置く。

 置いた言葉が、明日も“こちら側”に残るように。

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