世界の終わりで、君を愛した
灰色の空は、もう何年も晴れたことがない。
風は錆の匂いを運び、雨は酸を含んでいる。
人間の肌は日に日に薄くなり、街の形は歪んでいく。
それでも、誰かを助けるという行為はまだ残っていた。
まるで、生きるための儀式のように。
僕の名前は、もう誰も呼ばない。
名前よりも、「運び屋」と呼ばれるほうが多い。
壊れた都市と都市を渡り歩き、薬や食料を届ける。
それが僕の仕事であり、生きる理由でもあった。
肺はとっくに焼けている。
右腕は金属製の義肢で、膝は一度も曲げきらない。
それでも歩く。
まだ助けを求める声がある限り。
痛みを感じるたびに、生きていると確かめられる。
それが僕の唯一の救いだった。
彼女と出会ったのは、焼け落ちたビルの隙間だった。
瓦礫の下に埋もれた少女。
髪は白金に近い金で、瞳は深い碧。
倒れた柱の影から、その光だけが生きていた。
「助けて」
そう言った彼女の声は、息をしているのが奇跡のようだった。
僕はその手を取った。
自分の腕の骨がきしむ音を聞きながら。
あの日から、彼女は僕のそばにいる。
名を「かのん」と名乗った。
彼女は、僕に生きる理由をくれた。
けれどそれは、世界にとって最も残酷な理由だった。
「どうしてそこまで人を助けるの?」
かのんがそう問うた夜があった。
薄い布一枚の下で、遠くの街が燃えていた。
風は熱を運び、雨は火を鎮めることなく、ただ煙を増やす。
「痛みを見て見ぬふりをすると、胸の奥が焼けるから」
僕の声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
かのんはしばらく黙り、やがて小さく笑った。
「ねえ、君はきっと、世界の形よりも人の涙を信じてるんだね」
その言葉の意味を、当時の僕は深く考えなかった。
ただ、彼女の目の奥にある静かな熱が、
どんな炎よりも強く燃えているのを見た。
それからの彼女は、僕の影のように動いた。
僕が助けた人々のもとに、彼女は後から現れた。
僕が与えた食料や薬を、人々が分け合うその夜。
彼女はそこにいた。
笑う者の首を、静かに切り落とした。
涙を流す者の喉を、優しく裂いた。
彼女の中では、それが「愛」だった。
「あなたの痛みを、わたしが消す。
あなたの優しさを、わたしが守る。
そのためなら、世界なんて何度壊れてもいい」
彼女の言葉は祈りのようで、呪いのようだった。
僕が異変に気づいたのは、
いくつかの集落が同時に滅びたあとだった。
物資を配り終えたばかりの村が、翌朝には廃墟になっていた。
火薬の匂い、血の跡、そして壁に刻まれた文字。
――《生かされた者は、みな死んだ》
その言葉を見た瞬間、
胸の奥で何かがひび割れた。
かのんはその夜も、いつものように笑っていた。
焚き火の明かりに照らされた彼女の頬は、
ほんの少し赤く、そして美しかった。
「ねえ、かのん」
「なに?」
「君は……僕のしていることを、どう思う?」
「優しいと思うよ」
「優しいだけじゃ、世界は変えられない」
「だから、わたしが変えてあげてるの」
その瞬間、彼女の目を見た。
その瞳の奥には、狂気はなかった。
ただ、純粋な愛があった。
愛だけが、残酷なまでに澄んでいた。
数日後、僕は彼女の足跡を追った。
街の残骸の中に、倒れた人々を見つけた。
誰も苦しんだ形跡はなかった。
皆、安らかな顔で眠っていた。
その手のひらには、白い花が一輪ずつ置かれていた。
かのんが好きな花だった。
その光景を見た瞬間、膝が崩れた。
誰かを助けようと伸ばした手が、
結局、誰かを殺す手になっていた。
それを理解したとき、
ようやく、自分がどれほど彼女を愛していたのかを知った。
夜。
かのんは僕のもとに戻ってきた。
血の跡も、疲れも見せず、
ただ穏やかな顔で、僕の隣に座った。
「ねえ、あなたは、まだわたしを愛してる?」
「もちろん」
「じゃあ、怒ってる?」
「怒ってなんかいない」
「嘘」
「怒ってなんかいないさ」
彼女はゆっくりと僕の肩にもたれた。
「あなたは優しすぎる」
「君は、愛しすぎる」
そのやり取りのあと、
しばらく沈黙が流れた。
風が吹き、焚き火が小さく揺れた。
かのんは小さく息を吸い、囁くように言った。
「あなたが痛むたび、わたしの世界が壊れていくの」
「……かのん」
「だから、もう終わりにしよう」
何かが胸に突き刺さる感覚。
視界が赤く染まり、息が漏れた。
ナイフの柄を握っているのはかのんの手だった。
震えていない。
むしろ、穏やかだった。
「ごめんね。
あなたがこれ以上痛まないようにするには、
わたしがあなたを壊すしかなかった」
「かのん…」
彼女の瞳から、初めて涙が落ちた。
「そして、あなたのいない世界なんて、いらない」
彼女はナイフを自分の胸にも突き立てた。
同じ角度で、同じ深さで。
ふたりの血が混ざり合い、
灰色の地面を赤く染めていく。
息が詰まり、視界が霞む。
それでも彼女の顔だけは、はっきり見えた。
彼女は笑っていた。
まるで、すべてを終わらせることが救いであるかのように。
「ねえ、最後にひとつだけ、教えて」
「なんだい」
「あなたは、わたしを愛してた?」
「愛してた。
世界よりも、痛みよりも、何よりも」
かのんは微笑んだ。
その唇が、血で濡れた僕の頬に触れた。
「それなら、もう充分」
彼女の声が、遠ざかる。
灰が降る。
世界の終わりのように、静かに。
空の色は、まだ灰色のままだった。
けれど、その灰の奥で、
わずかに青が見えた気がした。
愛はいつも、世界よりも短く、
けれど、世界よりも深い。
そして僕たちは、ようやく、同じ場所で眠った。




