第5章:ぬいぐるみは涙を知っている
「この部、もう終わりにしませんか」
その言葉に、部室の空気が凍りついた。
言ったのは、1年生の秋穂。入部したばかりで、どこか距離を置いていた少女だ。
彼女は、まっすぐ紬を見て言った。
「私、やっぱり……落語とか、ぬいぐるみとか、向いてないです。こんな“作り笑い”で人が救われるなんて、信じられません」
「……秋穂」
美織が言いかけたが、紬が手を上げて止める。
「いいよ。話してみて」
しばらく沈黙したあと、秋穂はゆっくり口を開いた。
「……去年、母を亡くしました。病気で、あっという間に」
「看病の毎日で、学校もまともに通えなかった。だから今、周りとうまく話せないのは、自分でも分かってる」
「でも、“笑うこと”が裏切りみたいで……笑えば笑うほど、忘れていくみたいで怖いんです」
その目には、ずっと堪えてきたものがあった。
言葉を失った部員たちの中で、紬がゆっくり歩み寄る。
「……ぬいぐるみってね、人の涙もちゃんと知ってるんだよ」
「私も昔、おばあちゃんが亡くなったとき、何もできなかった。毎日泣いて、布団にうずくまって……でもそのとき、枕元にあったのが、おばあちゃんが作ってくれたぬいぐるみだった」
「それ抱きしめて、ひとりで泣いて……それが、最初の落語のきっかけになったんだ」
「涙って、無理に止めなくていいよ。落語って、悲しみを笑いに変えて、でも“ちゃんと覚えてる”ってことを伝えるためのものだから」
秋穂は黙って、それを聞いていた。
数日後、手芸部の扉が静かに開いた。
そこには秋穂がいて、小さなクマのぬいぐるみを胸に抱いていた。
「……この子、母が入院中に、ベッドでずっと持ってたぬいぐるみです」
「……この子に、喋らせてみようと思います」
*
『演目:泣いて笑って、また明日』
舞台は、地域の小さな図書館で行われた“ぬいぐるみ落語”のお披露目会。
秋穂のぬいぐるみは、少しほころびのある茶色いクマだった。
静かな口調で、クマが語りはじめる。
「ボクのともだちは、最近まで、ずっと泣いてたんだ」
「夜になると、声を押し殺して泣いて、朝には何もなかったふりをしてた」
「でもある日、ぬいぐるみたちの劇を見たんだ。小さくて、ふわふわで、おっちょこちょいで、でも全力で笑わせようとしてて」
「そのとき、ちょっとだけ……“泣いててもいいのかな”って思えたんだって」
「だから今は、ちょっとだけ笑えるようになった。“笑うことは、忘れることじゃない”って、教えてくれた人がいたから」
会場には、深く静かな共感の空気が流れていた。
最後にクマが言った。
「ボクは今日も、そばにいるよ。泣いても、笑ってもいいんだよって、そっと伝えるために」
拍手は、静かに、けれど深く響いた。
秋穂は舞台袖で、ぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。
「……ありがとう、お母さん」
その言葉は、もう泣いていなかった。
涙の向こうに、やっと笑顔があった。