第1章「電子の海への誘い」
ピッ、ピッ、ピロリロリロ——ギュイーン、ガーッ、ガチャガチャ……。
奇妙な電子音が県立東陽大学理学部棟の古い研究室に響き渡った。深夜0時を回ったばかりの部屋では、ブラウン管モニターの青白い光が本郷直樹の眼鏡に反射している。
「ほら、見てください。つながりました」
本郷は誇らしげに言った。20歳、教育学部3年生のこの痩せた青年は、サブカルチャー研究会(通称:おたぴぽ)の中では最もパソコンに詳しいメンバーだった。彼の前に座る北見透は、非常勤講師という立場ながら、このサークルの歴史的生き証人として今もなお関わり続けている。
「これが……パソコン通信か」
北見は目を細めながらモニターを覗き込んだ。そこには緑色の文字で「WELCOME TO ASCII-NET」という文字が表示されている。そのすぐ下には複数のメニュー項目と、全国からログインしているユーザー数が示されていた。
「今、日本中の同じような趣味を持った人たちとリアルタイムで会話できるんです」と本郷は興奮気味に説明する。「SIGというのがあって、そこは特定のテーマについて語り合う場所なんです。『ANIME』とか『SF-FAN』とか」
「ふむ……一種の電子会議室といったところか」
「そうです!しかも時間や場所を選ばないんです。東京にいる人と、ここ地方都市にいる私たちが同時に会話できる。素晴らしいと思いませんか?」
北見はしばらく画面を見つめていた。彼にとってこれは単なる新しい技術ではなく、これまで物理的距離によって隔てられていたオタク・コミュニティの在り方そのものを変えうる可能性を秘めたものに思えた。
「接続料金はいくらくらいかかるんだ?」
「そこがネックなんですよね……」本郷は少し表情を曇らせた。「この学校から市内電話でつながるアクセスポイントがないから、いまは長距離電話料金とアスキーネットの基本料金で、一時間あたり千円近くかかります」
「千円か……」
北見は小さくため息をついた。彼もまた大学の非常勤講師としての収入はそれほど多くない。バブル景気とはいえ、サブカルチャーを愛する者たちにとって、その恩恵はあまり及んでいなかった。
「でも、これから必ず普及します」本郷は自信たっぷりに言った。「モデムの価格もどんどん下がってきていますし、いずれ全国のアクセスポイントも増えるはずです。それに、パソコンの価格も下がってきていますから」
そういって彼は愛機のNEC PC-9801VM2を優しく撫でた。今では30万円を切る価格で手に入るようになった、と自慢げに語る本郷だが、大学生にとっては依然として大きな出費だ。いかに鉄道模型のためなら親を説得して小遣いを貯めてきた彼でも、これは半年以上の倹約の末に手に入れた宝物なのだ。
「なるほど……」
北見は感心したように頷いた。学生たちが新しい技術に目を輝かせる姿は、彼が大学生だった70年代から変わらない。しかし、今目の前で起きていることは、単なる技術的進歩を超えた何かがあるように感じられた。
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翌日の昼下がり。サブカルチャー研究会の部室は昼食後の眠気と古本の匂いが混ざり合う空間だった。かつての歴史学研究室を改装したこの部屋には、壁一面に漫画本の棚、アニメポスター、プラモデルが所狭しと並んでいる。
「パソコン通信?ああ、あの電話回線でピーヒョロロって繋ぐやつか」
高塚修がぶっきらぼうに言った。彼は大学を卒業して今はアニメ制作会社でアルバイトをしながら、同人誌制作を続けている。昔ながらのアニメーターを目指す彼にとって、デジタル技術はどこか相容れない存在だった。
「そう、それそれ!」本郷は目を輝かせる。「昨日、北見さんと一緒につないでみたんだ。これがすごいんだよ。全国のアニメファンやSFファンとリアルタイムで会話できるんだ」
「へえ、すごいじゃん」
部屋の隅で同人誌の原稿に目を通していた村上雪が興味を示した。彼女は卒業後、小さな出版社に就職しながら、女性向けの同人活動も続けている。
「でも、電話代ってバカにならないでしょ?」と村上は実務的な視点から質問する。
「うん、それがネックなんだよね……」
本郷が少し沈みかけたその時、部室のドアが開いた。
「やあ、みんな揃ってるね」
大学院生の橋本和也が入ってきた。彼は哲学科の院生で、アニメやマンガを記号論的に分析するという特異な研究をしている。レイバンのサングラスと黒いジャケットという出で立ちは、どこか小難しい印象を与える。
「橋本、聞いてよ。本郷くんがね、パソコン通信ってのを始めたんだって」村上が声をかける。
「ああ、パソコン通信か」橋本は少し顎をしゃくって言った。「面白い文化現象だよね。電子空間における共同体の形成過程として注目している」
「またお前は難しいこと言って」と高塚が目を回す仕草をする。「要するになんなんだよ」
「要するに」橋本は眼鏡を直しながら続けた。「人々は物理的な距離を超えて、共通の興味関心で繋がる新しい社会を形成しつつある。これはある種の革命的現象と言えるだろう」
「革命?」本郷が目を丸くする。
「そう。これまでのコミュニケーションは、基本的に物理的な距離に制約されていた。同人誌即売会にしても、結局は同じ空間に集まらなければならなかった。でも、パソコン通信は違う。空間の制約を取り払うんだ」
「なるほどねえ……」
北見が静かに頷く。彼は70年代からのSFファンとして、そしてアニメファンとして、多くの変化を見てきた。同人誌文化の誕生、コミケットの拡大、アニメ専門誌の登場……そして今またこの新しい波が来ようとしている。
「私はね、実は先月からNIFTY-Serveっていうパソコン通信に登録してるのよ」
村上の発言に全員が驚いた顔で振り向く。
「えっ、雪さんもやってたの?」本郷が驚きの声を上げる。
「ええ。女性向け同人誌の情報交換のためのグループを作ろうとしてるの。『乙女の電脳空間』っていうの」
「乙女の……電脳空間?」高塚が眉をひそめる。
「そう。女性だけのクローズドな環境でね、好きな作品やカップリングについて、遠慮なく語り合えるような場所。地方に住んでいて、なかなか同志に会えない人たちのためにね」
「それは素晴らしいアイデアだな」橋本が真剣な表情で言った。「サブカルチャーにおける女性コミュニティの電子的遷移と自律化の過程……興味深い現象だ」
「また難しいこと言って」村上は笑いながら手を振った。「でもね、思ったより盛り上がってるのよ。秋葉原で同人誌買えない地方在住の人とか、自分の趣味を周囲に知られたくない人とか、いろんな人がいるの」
本郷は目を輝かせていた。「僕も早く、SF-FANのSIGに参加してみたいなあ。きっと濃いディスカッションが繰り広げられてるんだろうな」
「まあな」高塚がプラモデルの箱を開けながら言った。「でもよ、結局のところ、紙の同人誌がなくなるわけじゃないんだろ?ディスプレイでやり取りするだけじゃ、絵を見るのも不便だし」
「それは確かに」と村上が頷く。「現状では画像の送受信は難しいものね。テキストがメインになるわ」
「でも、いずれはきっと……」
本郷が何か言いかけたその時、部室のドアがまた開いた。
入ってきたのは、黒いジャケットを着た痩せた男性だった。誰も彼が入ってくるのに気づいていなかったようで、皆少し驚いた様子だ。
「あ、水沢さん!」
北見が立ち上がって迎える。水沢健一は大学のどこかの研究室に所属しているという噂だが、実際に何をしている人なのか、誰も正確には知らない。年齢も定かではないが、いつ会っても変わらない姿で現れる不思議な人物だった。
「久しぶりです」と北見。「最近はあまりお見かけしませんでしたが」
水沢は小さく頷いただけで、何も言わない。彼はいつも寡黙で、話すときも必要最小限の言葉しか発しない。それでも、サブカルチャー研究会の古参メンバーにとっては、彼の存在自体が一種の安心感をもたらすものだった。
「水沢さん、良かったら聞いてください。本郷くんがね、パソコン通信を始めたんですよ」村上が声をかける。
水沢は黙って本郷の方を見た。その視線に促されて、本郷は少し緊張しながらも自分のパソコン通信体験を語り始めた。アスキーネットの仕組み、そこで行われる電子会議の様子、全国のファンとのリアルタイムでのやり取り……。
水沢は黙って聞いていたが、その目には微かな光が灯っていた。
「……面白そうだな」
珍しく水沢が言葉を発した。彼は部屋の隅に置かれた本郷のパソコンに視線を向け、わずかに頷いた。それだけだったが、本郷には大きな励ましのように感じられた。
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その夜、北見は研究室で一人、本郷から借りたパソコンとモデムと向き合っていた。本郷の熱意に押されて、彼もアスキーネットに入会申し込みをしていたのだ。
「さて……」
彼は本郷が教えてくれた手順通りに、モデムの電源を入れ、通信ソフトを起動した。
ピッ、ピッ、ピロリロリロ——。
懐かしさを感じるその音を聞きながら、北見は思い返していた。彼がSFファンになったのは高校生の頃、『宇宙戦艦ヤマト』に衝撃を受けてからだった。それ以来、大学のSF研究会に入り、同人誌活動を始め、多くの仲間と出会ってきた。時代と共に変わるもの、変わらないもの……。
ガチャン。
「つながった……」
モニターには「WELCOME TO ASCII-NET」の文字。その下には「PASSWORD:」という入力待ちの表示。北見は自分が設定したパスワードを慎重に入力した。
数秒の沈黙の後、画面が切り替わり、メインメニューが表示された。
「これが……電子の海か」
北見はメニュー画面から「SIG(Special Interest Group)」を選び、その中から「SF-FAN」を探した。画面が切り替わると、そこには数十件の投稿(電子会議室ではこれを「レス」と呼ぶらしい)が並んでいた。全国各地のSFファンたちの熱のこもった議論の痕跡。『ニューロマンサー』や『銀河英雄伝説』について、また来月のコミケットの情報交換、アニメ『メガゾーン23』の考察……。
北見は思わず笑みを浮かべた。彼が初めてSF研究会に足を踏み入れた時と同じ高揚感がよみがえってきた。
「初めて来られましたか?」
突然、画面に個人メッセージが表示された。発信者は「NOVA_X」というハンドルネーム。
北見は驚きながらも、キーボードに向かって返信を打った。
「はい、今日が初めてです。よろしくお願いします」
「Welcome to the electronic sea... 電子の海へようこそ」
その瞬間、北見は背後に人の気配を感じて振り向いた。しかし、研究室には誰もいない。窓の外には満月が輝いているだけだった。不思議に思いながらも、彼は再びモニターに目を向けた。
「ありがとうございます。これからよろしくお願いします」
彼はそう打ち込みながら、この新しい世界がこれからどこへ向かうのか、胸の高鳴りを感じていた。それは期待と不安が入り混じった感覚だった。
物理的な距離を超えて、共通の趣味を持つ者同士が出会う場所——。かつて同人誌が果たしてきた役割を、この「電子の海」はどのように変えていくのだろうか。
もう一度窓の外を見ると、月の光が研究室の床に四角い影を落としていた。それはまるで、もう一つの世界への入り口のようにも見えた。
北見は深く息を吸い込み、再びキーボードに指を走らせた。電子の海への航海は、いま始まったばかりだった。
(つづく)