滅んでくれてありがとう世界
朝起きると、世界が滅んでいた。正確には、人類が。
午前七時。いつも通りに目を覚まし、リビングに向かうと、朝ご飯を作っているはずのお母さんがいなかった。
寝坊かな。珍しい。
一先ず、顔を洗おう。鏡に映った眠た気な自分の顔を睨みつけ、冷水で眠気を流す。
リビングに戻りテレビをつけると、どこも砂嵐しか映らない。
故障か? まあ、結構古いテレビだからな。
それにしても、誰も起きてこないというのは、些か不自然だ。
妹の部屋のドアをノックするが、返事はない。寝ているのだろうか。
部屋に入ると、妹の姿はなかった。
両親の寝室に向かう。
お父さんもお母さんもいない。
仕事に行くにしても、学校に行くにしても、まだ早すぎる時間だ。
皆どこに行ったのだろうか。私を置いていくにしても、書き置きくらい残してほしい。
とはいえ、いないものは仕方ない。適当に朝食を食べながらダラダラしていると、違和感に気づいた。
音がしない。
テレビをつけていないから、とかそういうレベルではない。不気味なくらい、音がしない。
ベランダに出て街を見下ろす。マンションの八階に位置するこの部屋からは、大通りが見える。
六車線の道を、一台たりとも車が走っていない。
そんな事があるだろうか。いや、ない。
人がいなくなっている? どうしてそんな事に?
考えられるとしたら、この辺り一帯に避難指示が出された?
そうだとしたら、家族が私を置いていくはずがない。
わからない。他に理由が思いつかない。
なら、逆に考えてみよう。なんで、私だけが残されているのか。
そう考えると、答えは自ずと見つかる。
そう、これは夢だ。私の夢だから、私だけがここにいる。
頬を引っ張る。痛い。
ふむ、夢では無さそうだ。では、周囲一帯の人が忽然と姿を消し、私だけが取り残されたこの現状を現実と仮定する。
何故ガスや水道、電気が使えるのか。
消えたのはこの周囲の人だけなのか。
消えた原因はなんなのか。
疑問はいくらでもあるが、ここで考えていても何もわからない。
時刻は午前八時。普段ならば家を出ている時間だ。
とりあえず、
「学校行くか」
制服に着替え、家を出た。
静かだ。たまに聞こえる鳥の鳴き声が、私の正気を保ってくれている。
頭がおかしくなりそうだ。
間も無く学校に着くが、一〇分程歩いて、人は一人も見かけなかった。
この辺りまで来れば、通学中の他の生徒が大勢いるはずなのに、一人もいない。
この世界には、私だけしかいないのだろうか。
正直、学校に行くのは怖い。ウチの学校は避難所にもなっているから、何かがあったのだとしたら、この辺りの人は逃げて来ているはずだ。
でも、もし、誰もいなかったら。少なくとも、この辺りには、もう私しかいない、という事だ。
こんな静かな世界で、一人で生きていく自信なんてない。
怖い。でも、なんとなく、行かなければならない気がした。
だから、私の足は学校へと向かう。
学校に着いた。やはり、というべきか、避難して来ている人はいなかった。
頭では落胆しながら、私の足は自然と教室へと向かった。二年三組、昨日まで当たり前のように通っていた教室。
いつもは皆の話し声が廊下まで届いていたが、今はシン、と静まり返っている。
引き戸の取っ手に手をかける。いつもより冷たく感じたのは気のせいだろうか。
ガラガラ、と音を立ててドアを開くと、吹きつけて来る突風に思わず腕で顔を覆う。
窓が空いていたようで、ふわりとカーテンが舞う。
風と踊るカーテンから覗く、黒いタイツに覆われた足。
人だ。人がいる。しかし、上半身はカーテンが隠し、誰かはわからない。
床に縫い付けられたように足が動かない。確かめたいのに、私の体はそれを許さない。
あなたは、誰?
風が止む。落ち着きを取り戻したカーテンは、舞台の幕を開けるように、そこに立つ人物を露わにする。
私の物とは違う制服。肩辺りまで伸びる焦茶色の髪。クリッとした大きな黒い瞳に、幼さの残る顔立ち。小柄でスラッとした体つきは、小動物のような愛らしさを醸し出す。
私は彼女を知っている。だって彼女は、私の親友だったから。
「よっ」
元親友、朝日奈陽は片手を上げて気楽な挨拶をする。
どうして朝日奈がここにいるのか。今の状況について何か知っているのか。
聞かなければならない事はたくさんあるのだろう。
それでも、この言葉が私の口をついて出た。
「よっ、じゃないんだよ、バーカ!」
私の渾身の罵倒をへらへらと受け流し、朝日奈はこちらへ歩み寄って来る。
「まあまあ、取り敢えず、遊びにいこーぜ、月島」
「はあ? アンタ、今の状況わかってる?」
月島、とあの頃と同じように、私の名前を呼び、あの頃と同じように、私を遊びに誘う。
世界がこんな事になっても、朝日奈はあの頃と変わらない。
「人がいなくなってる事? そんな事どうでもよくない? 私と月島がいれば、それで良いじゃん」
なんだそれ。全然良くない。家族も、友達も、皆いなくなったんだぞ。
良いわけない。それなのに。
「そう、だな。遊びに行こうか」
「おお、行こう行こう! 人はいないけど、電気も水道も使えるからな! なんでもやりたい放題だぞ!」
どうして、こんなにわくわくしているのだろう。まるで、あの頃に戻ったように。
気が済むまで朝日奈と遊んだ。ショッピングモールでウィンドウショッピングしたり、ゲーセンで朝日奈をボコボコにしたり、アミューズメント施設のスポーツコーナーでボコボコにされたり。
失った時間を取り戻すように、たくさん遊んだ。
そして、私達は学校に戻って来た。
封鎖されていた屋上に出て、空を茜色に染める夕日を眺める。
「あー、楽しかったー。相変わらず、月島は運動が苦手だな」
「うっさい。朝日奈こそ、ゲーム下手過ぎでしょ」
一日を思い返しながら、二人で笑い合う。
太陽が沈み、少しずつ空を黒が覆っていく。
「ねえ」
「ん?」
「どうして、教室にいたの?」
私の問いに、朝日奈は微笑を浮かべた。
「行かなきゃって思ったんだ。誰もいなくなったこの世界で、月島だけはいるって。それだけは確信したんだ」
朝日奈は不思議な奴だ。けど、私は今まで、何度も朝日奈に救われた。今日だってそうだ。
「そっか」
「うん」
静寂が心地良い。あれだけ不気味だった静けさが、今では愛おしくすら感じる。
「ねえ」
「ん?」
朝日奈の言葉を待つが、俯いた朝日奈から続く言葉はない。
暫くして、意を決したように朝日奈は顔を上げた。
「あの時はごめん」
「……怒ってなかったって言ったら嘘になる。でも、もういいよ。こうして、また一緒に遊べたから。ただ、理由は教えてほしい。どうして、私に黙って志望校を変えたの?」
私と朝日奈は親友だった。いつも一緒にいて、この先もずっと一緒にいる、と思っていた。
同じ高校に行く約束をした。しかし、朝日奈は私に黙って志望校を変えた。
それ以来、朝日奈とは話していなかった。酷い言葉をかけてしまいそうで、理由も聞かなかった。
けど、今なら大丈夫だ。
「理由、か。聞いても怒らない?」
「理由による」
「……私が志望校を変えた理由は、月島が私の事を好き過ぎたからだよ」
「は?」
なんだコイツ。舐めてんのか?
「だから、月島が私の事を好き過ぎたから、一緒にいると私が月島の人生を歪ませちゃうと思ったんだ。いや、勿論好かれるのは嬉しかったよ? 私も月島の事好きだったし。でも、だからこそ、月島の人生を歪ませたくなかったんだ」
真剣な表情でそんな事を宣う。
ぶん殴ってやりたい所だが、私の貧弱な体では大したダメージは与えられないだろう。
「お前、ふざけるなよ」
「うっ、やっぱり怒った」
「当たり前だろ。勝手に私の気持ちを決めるな」
夜の帷は下り、人のいない世界は真っ暗だ。表情の見えない朝日奈の顔を真っ直ぐ見つめる。
「歪めろよ」
「へ?」
「お前になら、歪められても良いよ。それくらい、朝日奈の事を好きだったよ」
見えないが、朝日奈がどんな表情かは容易に想像できる。
ポカン、と口を開け、アホ面を晒しているだろう朝日奈の手を取る。
「案外、ここは良い世界かもな。何でもできて、どこへでも行ける」
見上げれば、満天の星空が私達を見下ろしていた。
「私は、お前になら人生を歪められても良い。朝日奈はどうだ? お前の人生、歪めても良いか?」
「……良いよ。良いに決まってる」
今、朝日奈はどんな顔をしているだろうか。笑っているだろうか。泣いているだろうか。
どちらでも良い。最後の表情は決まっているから。
「大好きだよ、朝日奈。人生を歪められても良い、と思うくらい、大好きだ」
「私も、大好きだよ、月島。人生を歪められたい、と思うくらい、大好きだ」
ゆっくりと体が傾いていく。下に流れていく世界の中で、朝日奈だけが変わらない。
その表情は、あの時と変わらない、私の大好きな笑顔だ。
良かった。朝日奈と仲直りできて良かった。また、この笑顔が見れて良かった。
滅んでくれてありがとう、世界。