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「鶏ガラを一キロと、手羽を二百グラム。それと もも肉を一枚下さい 」
「はいよ 」
その日、正臣はエコバッグを片手に 西新商店街で買い出しをしていた。馴染みの肉問屋で揃えるのは、今晩の水炊きの材料だ。
【西新商店街】には、【リヤカー部隊】で有名な西新中央商店街を始め、大小 二百八十の店が軒を連ねる。
ここの名物の リヤカー部隊 は全国的にも有名で、生鮮や自家製漬物、四季折々の魚介類や野菜などの食材を載せて販売している。多い日には 歩行者天国になっている商店街の通りに十数台ほど並ぶのが、お馴染みの光景だった。
「今日はマルチョウは いらない? 新鮮なのが入ってきてるけど 」
「ええ。今日は鶏だけで。でも先日頂いたマルチョウはスタミナ焼きにしたら旨かったみたいで、家族に好評でした 」
「それなら良かった。モツは美味しいけど、足が早いからね。また気が向いたときで良いから、買いにきて 」
「ええ。また近いうちに、ぜひ顔を出します 」
正臣は経木と新聞紙に包まれた鶏肉の塊を受け取ると、店主に支払いを済ませる。今月は少しだけ緊縮財政で頑張っていたから、食費用の財布にはまだ幾らかの余裕があるのだ。
【西新】は福岡市西部の早良区に位置していて、地下鉄で一駅隣の【藤崎】と共に西部の副都心を形成していいる。この街は高取家とその従者が代々暮らしている、美波が生まれ育った場所だ。
江戸時代、現在の福岡市中央区今川付近を【西町】、樋井川以西を【新西町】と呼んでいたことが由来で、これがいつしか逆転して【西新】という地名になったと云われている。そして高取家の台所であるこの【西新商店街】は、江戸時代に 豊前の小倉から、博多を通り唐津へと向かう【唐津街道】の中間地点でもあった。
美波が小さかった頃は、手を引いて よくこの辺りを散歩したものだ。商店街を抜けてからも ひたすらに真っ直ぐ歩くと、室見川にぶつかる。室見橋がある下流の付近には 河畔公園が整備されていて、多忙な旦那さまと奥さまの代わりに、よく二人でユリカモメを愛でたものだ。
あの頃は潮風に吹かれる度に、身体が小さな美波が吹き飛ばされるのではないかと 冷や冷やしていたのを覚えている。思春期に里長から仰せつかった従者という大役は窮屈に感じることもあったけど、不思議とホームシックになるような時間はなかった。それが今や終わりのない反抗期の真っ只中なのだから恐れ入る。
正臣は一握の焦燥感を覚えながらも自宅へと帰ると、着物に襷を渡して 前掛けを付けた。
博多の有名な食べ物は 安くて旨い。でも安いからといって簡単に作られているわけではなくて、どれも とにかく手間暇が掛かっているものが多いのだ。
ニンニクが効いたキャベツとニラが沢山詰まったもつ鍋は、ホルモンの下処理が重要だ。他にも博多ラーメンや長浜ラーメンは豚骨を長時間煮込んでスープを取る一方で、麺は素早く茹でられる細麺が使われている。これは元々競りなどで忙しく時間がない魚市場の人たちのために、茹で時間を短縮する工夫がされたことから始まったことに起因する文化だ。そしと細麺は伸びやすいので、器を大盛にするのではなく、麺の量は少なくして 麺をお替わりする替玉にするなどのアイディアの多くが、現在の長浜ラーメンや博多ラーメンに受け継がれていたりする。
そして、これから正臣が取り掛かる博多の水炊きも、作るのに労力が掛かる食べ物のひとつだ。
まず最初は鶏肉の下処理だ。買ってきた鶏ガラをたっぷりの水で洗うと、鍋に突っ込む。仕事の合間に様子を伺いつつ、一時間ほどアクを取り除きながら煮込むのだ。
……台所でパソコンをしながら鍋を仕込むのって、腰にくるな。
正臣は片手間に仕事をしつつ、火を点けている手前、付きっきりで鍋の世話もこなしていた。脂が染み出した台所の空気は、何とも言えない充足感のある匂いがする。そして頃合いを見て、鶏ガラをボウルに取り出すと、柔らかくなった骨を棒で叩く。さらに砕いたガラは再び鍋に戻し、弱火でさらに一時間ほど煮込む。ここまでくると、ちょっとした重労働だ。
スープの仕込みが一段落したところで、平行しながら今度は具材の下拵えをする。別の鍋に鶏手羽元と もも肉を入れ、酒を加えて三十分ほど煮て火を止める。 そうこうしているうちに スープの方は どんどんと白濁していくので、そのガラを砕きつつ、最後にザルで濾したら水炊きのスープが完成だ。
透明の水に浮かんでいた鶏ガラは、時間を掛けて煮込むことで白濁したスープへと変身を遂げる。とろみと旨味が溶け出したスープは、食欲を刺激するような香りを放っていた。
「さてと、後は具材を切っておくか 」
正臣は冷暗所からキャベツを取り出すと、それらをザク切りにする。この時期の長ネギは高いから 少なめの量を斜め切りに、人参は薄めの短冊切りだ。豆腐は美波の好きな木綿豆腐を八等分にしておく。葛切りは食べる直前に水で戻せばいいから、取り敢えずの下準備はこんなものだろう。流石に夏場に鍋物だと熱いから、土鍋は使わずに どんぶり鉢によそうだけでも十分なような気がした。
後は、美波の帰り時間に合わせて 火を入れ直せばいいだけか。正臣は傾きかけたお日様を背中にして、洗濯物を取り込みに庭へと向かった。
「ったく、下着くらいは自分で洗えよな。アイツは俺のことを一体何だと思ってるんだ 」
年頃になったら下着は自分で洗うと言い出すかとは思ったけど、美波にそんな素振りは一切ない。正臣は洗濯物を取り込んで丁寧に畳むと、自室にパソコンなどを撤収した。
これで、やっと集中が出来そうだ。
正臣は自分のデスクに着席すると、本棚から参考文献を取り出して一読する。この辺りは地理的条件から水資源に恵まれていないため、安定的な水の確保をどうしていくかを考えるのが 正臣の研究内容だった。
環境を保全しながら水源を確保する。それは人間社会の反映と、同時に自らの生まれ故郷を守ることにも繋がるのだ。
一人で家に居ると、酒が飲みたくなる……
けれどそこでアルコールに走ってしまうほど、人間社会の掟が解らないわけではない。
正臣は熱々の湯を沸かしてインスタントコーヒーを淹れると、今日最後のカフェインを堪能するように口を付けた。そして時刻を確認しようとスマホを手に取ると、一件のメールを受信していたことに気がついた。
美波……が連絡をしてくるなんて珍しい。
何だろう? もしかして忘れ物でもしたのだろうか。 つーか、タイムスタンプは昼過ぎではないか。中高大と学校が近所だったこともあり、美波が学生の頃は頻繁に体育着やら歳時記やらを届けに行かされた。さすがに もうそれはないとは思うけど、もし重要な書類を忘れでもしていたら、これは偉いこっちゃな案件だ。
正臣はドキドキしながら慌ててメールの内容を確認する。開いたメールはタイトルが空欄になっていて一文だけ、
【今日、一杯だけで飲んで帰る。ごめんね】と書かれていた。
「ああ、そうかい 」
正臣は無言でスマホを机に置くと、ふうと息を付く。予想外の内容にちょっと拍子抜けしたけど、不思議と怒りの感情は沸いてはこなかった。
家族なのに、いよいよ気を遣わせてる……
正臣にとっては、その事実を突き付けられた現実が胸に引っ掛かるような気がしたのだった。
次回は22時頃投稿します




