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この国には、昔は沢山の妖怪がいたのだそうだ。
でも今日においては その存在は稀有であるとされていて、殆どの人は その存在は非科学的であると思っている。妖怪は日本古来のアニミズムや八百万の神の思想から、人間が作り出した空想でまやかしであるというのが、圧倒的な俗説になっているらしい。
でも この世界には物の怪の類いは確実に存在している。
実際に 美波には生まれたときから、河童の末裔と寝食を共にしているわけだし(見た目はほぼ人間だけど) 筑後の方には正臣の故郷の河童の里があるのだから、その存在は確固たるものだ。
特に美波と正臣が暮らしている福岡の街には、今も数多の妖怪の伝説が受け継がれている。
例えば博多の冷泉町にあるお寺には、人魚にまつわる伝説が伝わっている。江戸時代に博多津に打ち上げらた人魚を埋めたことを示すかのように人魚塚が建立されているのだ。
他にも 現在の赤坂駅付近の大名と呼ばれる地域では、医者であった鶴原雁林に命を救われた狐が、宝暦の大火のときに 火消しをして恩返しをしたという逸話が残っていたりもする。
但し 妖怪の存在が認められているとは言え、マイノリティであることには変わりはない。彼らは積極的に自分たちの存在を公表しようとはしないから、それは当然と言えばそれまでだ。
故に この界隈は一族の絆は深いものの、閉鎖的な部分が拭えず 横の繋がりは決して多くはない。でも気心が知れた場合に限っては、多少の交流はあるのだった。
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「この前は、助かった。ありがとうな 」
「ああ。で、正臣の愛しのお姫さんは無事だったのか? 」
「……愛しの姫って部分だけは、激しく訂正をさせてもらうけどな。あのバカ、この前は終電を逃して生意気にタクシーを使ったみたいだけど。まあ、帰ってきたから安心はした。お前さんには世話になったな。はい、これ。約束してた例のブツ 」
「ハッ? まさか埋め合わせが たった これだけってことはないよな? 」
「だからお前が…… 狐太郎がご所望の南関揚げを、わざわざ熊本から取り寄せたじゃないか。それに今日の酒代も俺持ちなんだから、もう十分過ぎるだろ? 」
「いや、そうじゃない。若松の出張のときは、俺はお前がいきなり会食をトンズラしたから、一人で先方の接待をやりきったんだよ。俺は正臣と違って人間の相手は得意ではないし、お前に化けたりせにゃならんから、大変だったんだからな? 」
「……だからそれは悪かったって 」
正臣は一応の詫び言葉を口に出すと、紙袋いっぱいの南関揚を押し付けるのだった。
いま現在、正臣がテーブルを隔てて空間を共にしているのは、同期で腐れ縁の狐太郎だ。狐太郎は読んで字のごとく妖狐の末裔なのだが、正臣とは大学入学からだから、かれこれ十年以上の付き合いになる。狐太郎は変化の術を心得ているが、見た目は銀髪であることを除いては、完全に人間そのものだ。でも妖怪の血を受け継いでいる分 鼻が利くものだから、直ぐに互いの正体を見破ったという一風変わった縁がある。
「それにしても、正臣さんよ。この量の油揚げじゃ、俺の食料の三日分にも満たないんだけど? 」
「……油揚げを三日で百枚って、一体どんな食生活を送ってるんだよ? 」
「胡瓜野郎のお前にだけは、言われたくわないね。ていうか、お前さんは どうやってお姫様の飯を作ってるんだよ。胡瓜しか食わないんだろ? 味の違いが分かるのかよ? 」
「勘だよ、勘。それに味見程度には、人間の飯も食ってる 」
「でも腹を壊すんだろ? 」
「別に食いすぎなければ平気だよ 」
「ふーん。毎日毎日、熱心なことで何よりだよ。どうせ今夜もお姫様の晩飯も用意してきたんだろ? 」
「今日は…… 友達と出掛けるから 夜は要らないんだとよ 」
「えっ? それってマジ!? 美波ちゃんがいないなら、それは丁度いいな 」
「はあ? 」
狐太郎の急な態度の豹変に、正臣は思わず状態を反らす。酒が程よく回った妖狐の考えることは、どうせろくでもないことが簡単に予想できるのだった。
「あのさ、今夜はこのまま中洲にでも行かないか? 」
「中洲? って、何しに行くんだよ? 」
「最近オープンした良い店があるんだよ。スゲー可愛い妖狐が揃っててさ。幻影スペシャルって言って、狐妖術の夢の中で自分の理想の女が抱けるコースがあるんだけど、あれはマジで最高だから。今度、うちの店にも導入したいくらいだよ。あれなら風俗経営に該当しないからな。お前だって、たまには息抜きが必要だろ? 」
「……却下だ。俺はそんな訳のわからんコースに投資する余裕はない。ただでさえ今週は若松からのタクシー代やらで、出費がかさんでんだよ。普通に金がない 」
「そうか? お前って、本当に真面目バカだよな。金なんて後から考えればいいだろ。悪いことは言わないから、あれはマジで一回試した方がいいって。界隈の末裔軍団のなかでも 凄く好評だぞ? つーか、お前さんの容姿なら、先方も引く手 数多で サービスしてくれるだろ 」
「ああ、もう、どうとでも言えば良いさ。狐太郎に心配されんでも、そっちは適当に発散してるから余計なお世話だよ 」
この日の彼らは既に一升瓶を空けていて、二人のテンションの盛り上がりに比例するように、声は段々と大きくなっていた。だけど幸いにして ここは福岡妖狐グループが経営する狐太郎の実家の料亭だから、多少の醜態や下世話な話、個人情報を披露したところで大した問題にはならなかった。
「でもさ、正臣。お前は もう少し美波ちゃんのことを信用してやったらどうだ? 」
「はあ? 」
「端から見てると、子離れ出来ない親父みたいになってるぞ。もう美波ちゃんも立派に成人した大人なんだから、もう少し規制は緩くしてやらないと。束縛ばっかりしてたら、いつまでも彼氏が出来ないだろ? 」
「別に俺がどうこうしようがしまいが、アイツは簡単に恋人は作らないよ 」
「何で、そんなことがわかるんだよ? 」
「それが河童の契約の掟だからだよ。アイツが初めて他人と交わったときに、嫁に行ったって判定になるから。アイツは俺との主従関係が無効になるリスクがある以上、簡単には男に心を許さない 」
「何それ、エグっッ。それ初耳なんだけど 」
「まあ、初めて他人に言ったからな 」
「つーか、お前はヤりたい放題なのに、美波ちゃんの方は人権侵害も甚だしい契約だな? ていうか、美波ちゃんも美波ちゃんだな。律儀に約束を守ってるってことだろ? 」
「まあ、そうなるわな。アイツは俺がいなきゃ生きていけないだろうし、手放すメリットは無に等しいんじゃないか? 」
「……大した自信だな 」
「まあ、面倒は見てきたし。アイツは家事の一切は出来ないから、生活力が皆無なんだよ 」
正臣はそう言うと、胡瓜のスタミナ漬けと胡瓜の浅漬けを肴に 八女の大吟醸をグビグビと煽る。少し酔いが回ってきたせいか、着物の胸元ははだけていたが、本人はそんなことを気にする素振りは微塵もなかった。
「……いいのか? 」
「何がだよ? 」
「このまま何のアクションも起こさなかったら、美波ちゃんは近いうちに嫁に行くんだぞ 」
「それがどうした? アイツがちゃんとした男のところに嫁に行けば、俺もようやくお役御免だ。やっと研究にも集中できるし 清々するな 」
「でもお前、あの娘のために 里の方の婚約を解消しただろ? 流子ちゃんも可哀想だったな 」
「何だよ? そんな昔の話を引っ張り出して。言っとくけど、別にあのバカのためじゃないからな。親が決めた許嫁だったし、タイミングが合わなかっただけだよ 」
「でも流子ちゃんも 何年か前までは、たまに市内に遊びに来てただろ? デートしたりしてたじゃないか 」
「本当に ただ食事をしただけだよ。流子とは、一切何もなかったし 」
「ふーん 」
「何だよ? 」
「お前さ、マジであの子が他の男に抱かれてもいいのかよ? 」
「なっ、お前って…… 本当に下品の極みだな 」
「俺は事実を述べたまでだけど? 」
「……お前、たまにマジで煩い 」
「おっ、怖っ 」
狐太郎は悪戯な笑みを浮かべると、お袋煮を頬張る。河童の怒りを買うなんて、命知らずもいいところだけど、このくらいは許容範囲だと思った。