④
◆◆◆
美波が塩らしくしていると、こちらまで調子が上がらない。
正臣は自室の縁側から空を見上げると、深い溜め息をついていた。
美波に不必要な嘘を付いてしまった。
仕事を終わらせて帰ってきたなんて真っ赤な偽りで、明日は朝イチで再び若松に戻らなくてはならない。
ああ見えて慎重な性格だから、夜遊びの心配はしてはいない。変な男にも簡単には引っ掛からないはすだ。だけど美波は直ぐに無理をするから、放っておけない。美波を無事に嫁に出すのが 自分の使命だ。でもアイツに万が一のことがあれば、今までの自分の努力は水の泡になる。それだけは何としても避けたいのが本音だった。
正臣は少し考えるように顔をしかめると、何かを振りほどくように部屋を出る。あれから一時間は経ったはずだけど風呂場からピクリとも音がしないことを考えると、とてつもなく嫌な予感がした。
「……ったく、意外性が全くないな 」
もしやと思って正臣がダイニングに戻ると、まだ電気が点いていた。案の定と言ったところか、台所では美波がスースーと気持ち良さそうに寝息を立てていて、テーブルに頭を伏せている。
「食って直ぐに寝落ちかよ。せめて食器くらいは洗えよな 」
正臣は溜め息混じりに うどんのお椀を下げると、美波を凝視する。くるんとした睫毛が揺らしながら熟睡するその姿は、子どもの頃から変わらない無邪気さが残っていた。
「おいバカ、起きろ。こんなところで寝てたら、風邪引くぞ 」
「…… 」
「美波、いい加減に起きろ。俺もそんなに気は長くはないからな 」
「…… 」
正臣は暴言を織り混ぜつつも、主人である美波に声を掛ける。肩を揺すっても、頭を小突いてみても起きる気配はまるでなかった。
「俺が今晩 帰ってこなかったら、半裸で寝落ちだったな。このバカ美波 」
正臣は仕方なく美波を抱き上げると、彼女の部屋へと連れていく。酒を飲んだ気配もないのに、何をされても熟睡が続いているというのは、ちょっとした茶番だ。こちらの気も知らないでと思うと些か腹が立つが、美波の油断とだらしなさは今に始まったことでもない。相手にするだけ無駄なのは、自分が一番良くわかったことだった。
「爆睡だな。少しは身の危険を感じろよ 」
「…… 」
正臣がどんなに問いかけても、美波は無反応だった。美波の生身の肌には久し振りに触れた気がするが、いつの間にか すっかり大人の肉付きになっている。美波の身体には、今までの交遊関係とは違う別の種類の匂いが入り交じり 気分が悪い。新しい世界に飛び込んでくれるのは構わないが、いちいち心配しなくてはならないのは面倒だった。
正臣は、その艶やかな潤いと 柔らかな感触を振りほどくように舌打ちをすると、美波をベッドに粗雑に投げ捨てる。旦那様と奥さまが家にいたときは、美波をぞんざいに扱ったことなどは一度もなかった。でも今はこのくらいで丁度いい。そうやって適度な距離を保たないと、こちらも身が持ちそうにないのだ。
正臣は美波の寝顔をチラリと確認すると、部屋の中を物色する。最近は自室くらいは本人に片付けさせようと思い、部屋への入室は止めていたが これは酷い。まるでこの空間だけが別次元のようだ。足元には漫画と良く分からない仕事の資料が散乱し、床が見えないくらいに散らかっている。それでも部屋のなかには、美波のいい匂いが充満していた。
正臣は頭を抱えながらも 何とかサイドボードに手を伸ばすと、目覚まし時計に手を掛けた。美波は明日の出勤は午後からだと言っていたが、一体何時に起きれば間に合うのかは良くわからない。正臣は適当に十時ちょうどに針をセットすると、ハアと溜め息を付いていた。
一応、明日はモーニングコールもしてやるか…… つーか、俺の方が何だかんだで過保護が抜けないんだよな。
正臣はベッドの端に浅く腰を下ろすと、美波の体に薄手の布団を掛ける。そのついでに頭を枕に納めると、顔に掛かる髪の毛を左右に分けた。やがてその手は額に触れて 頬をつたい、唇へと辿り着く。その血管が透き通るような白い肌は、大人の女性になって さらに洗練されてきたようにも感じられた。
「…………まさおみ 」
「えっ? 」
急に自分の名前が囁かれて、正臣は硬直する。
身体中が熱くなって、心臓が全身に高鳴る。調子に乗って触り過ぎたかと 一瞬ドキッとしたが、美波は相変わらず瞳を深く閉じたままだった。
「ったく脅かすなよ。つーか、どうせ寝言を呟くなら、もっと口に出すような名前は沢山あるだろ 」
正臣は深呼吸を繰り返すと、再度 美波の様子を確認する。相変わらず規則正しい寝息は、あどけなくて狡い。正臣は一瞬 頭の中を過った感情に蓋をすると、美波の身体に肌掛けを広げるのだった。
「んっ…… 」
「えっ? あっ ちょっ、まだ起きるなっ 」
「……っっ 」
ヤバっっッ ……起きたかもしれない。
肌に触れた異物に反応したのか、美波が寝返りを打ちながら声を上げていた。
いや、こちらが焦るような不純なことなど一切ないわけで、自分はただ面倒を見てやってる立場なのだから堂々としていればいいのに、そうは問屋が卸さない。
美波が目を覚ましたら最後、正臣が喰らうであろう理不尽な仕打ちの数々は、用意に想像がつくのだった。
「んんっ…… まさおみ、そんなに食べられないよ。んー むにゃむにゃ 」
「はい? 」
「…… 」
コイツはまだ腹でも減ってるのか?
どうせ美波は、また食べる夢でも見ているのだろう。一人で寝言とは思えない台詞をハッキリと呟くと、引き続き深く目を閉じている。夢の中でもまだ食ってるのかと思うと、食欲だけはブラックホールとしか思えなかった。
馬鹿馬鹿しい、部屋に戻ろう。
こちらも明日は始発で若松に とんぼ返りをせねばならないのだ。正臣はそう思い直すと、ベッドから立ち上がる。すると服が引っ掛かるような違和感があって、正臣がその付近に目をやると、美波が彼のズボンの裾を掴んでいたのだった。
「ったく、おいバカ離せ 」
「私ね、正臣の が…… 好きなの 」
「はっ? 」
「…… 」
コイツ…… 今、俺のことが好きとか言った?
って、聞き間違いだよな?
正臣はゴクリと唾を飲み込むと、更なる自分の鼓動の早まりを自覚する。予想だにしない単語を耳にすると、人はこれほどまでに動揺するのかと、どこかで自分を客観視していた。
「美波 」
寝言に返事をしてはいけないと聞いたことはある。だけど正臣は無意識に美波に声を掛けていた。
言葉の真意が知りたいわけではない。でも声を掛けずにはいられなかったのだ。
「……だからね、正臣 」
「んっ? 」
「私…… 今夜は 正臣が作ってくれた水炊きが食べたい 」
「えっ? って、ハアッっ? 」
「ね、お願い 」
「おいっ、って…… あっ 」
美波は意味不明な寝言を呟くと、今度は正臣のシャツに手を掛ける。
その勢いで正臣は一瞬、美波の寝込みを襲うような破廉恥な体勢になったが、寸前のところで堪えるのだった。
「ふざけるな。この我が儘娘…… 」
「…… 」
微熱を含むような呼吸音が、正臣の頬を掠めていた。
近い将来、美波が嫁に行く。
これから先は 自分が今まで美波と過ごしてきた時間よりも、短い時間しか一緒にいられないのは確実だ。
一生懸命に育てた娘が嫁にいっても、自分の元に里帰りに戻ることはない。美波が結婚したら、血の繋がりのない自分と彼女の縁はそれで終わりだ。そう思うと、やっぱり一抹の寂しさは募る。
でもっ……
やっぱり、まだまだこんな放っておけないバカ姫を嫁に出すなんて無理だ。いろんな意味で世界が破滅しかねない。
正臣は大きく頭を抱えると、再びため息をつくしかなかったのだった。
続きは今晩18時に投稿します