⑥
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手のひらが、むず痒い。
不必要に絡めてしまったし、離せなかった。
生身の美波にこの様では、いよいよ重症かもしれない……
正臣は 誰もいない研究室で壮大な溜め息を吐くと、デスクにある小物一式を手当たり次第に握り始めた。
華奢な手首に、細い指。弱々しい握力に、整えられた爪先。
考えたくないのに、頭から離れない。
あの手の感触を一刻も早く上書きしたい。
でも考えれば考えるほどに、火照った感覚が蘇ってきて心臓に堪える。
何とかして、美波との距離感を見直さなくては。
正臣はウーンと天井を仰ぐと、深く息を吸い込むのだった。
「ただいま、戻りましたー 」
「あっ 」
鈍い引戸の開閉音がして、正臣は慌てて姿勢を正す。大学の専任講師を拝命している手前、社会人として最低限のマナーは守らなくてはならないのに、完全に油断の二文字が先行していた。
「なんだ、狐太郎か。驚かすなよ 」
「なんだって何だよ? 珍しいな、正臣がそんなに慌てるなんて。ははーん、さては不埒なことを考えてたな? 」
「阿呆っ、そんな訳ないだろ。少し考え事をしていただけだ 」
「ふーん。その割には 自分の世界に入り込んでたみたいだけどな 」
「…… 」
正臣は図星を言い返す言葉もなく、黙り込むしかない。するとそんな正臣の様子を尻目に、狐太郎はニヤニヤとしながら、両手いっぱいの荷物をデスクへと並べ始めた。
「つーか、狐太郎。お前は一体、両手に何を持ってきたんだ? 」
「ああこれね。これは、福岡市所有のダムで採取した水だよ。分析に使うんだ。飲むなよ 」
「……飲まねーよ。つーか、お前も一応 研究とかするんだな。ポーズだけだと思ってたよ 」
「そんな訳がないだろ。この街にとって水源の確保は、重要な課題だからな。狐グループは雁林先生の教えだけは 絶対なんだよ。福岡の市民の生活を守ることは、妖狐の末裔の俺らにとっては 最大のご恩返しだから 」
狐太郎は珍しく真面目な返答をすると、採取ボトルを律儀に並べていく。福岡市の地形は人口に対してのダムや河川が少なく、安定的な水源の確保に関しては 常に開発が進められている。海水を淡水化する施設を作るなど、その研究は常に留まることはないのだ。
「そうか。俺はてっきり狐は 夜な夜な複数戦を楽しんでるだけのやつらだと思ってたよ。それなら同僚としても安心だ 」
「はい? 」
「タクシーの中で、美波に質問されてな。【さんぴ】って何なのかって聞かれて、誤魔化すのが大変だったんだぞ。お前らが遊ぶのは自由だし、何をしようと興味はないけどな。うちの美波に高度な内容を吹き込むな 」
「アハハ。それは悪かったな 」
狐太郎は罰が悪くなったのか、ニヤニヤと苦笑いを浮かべる。一気に形勢は逆転だったが、狐太郎は そんなことでは動じなかった。
「あっ、そうそう。正臣、これを渡しておくよ 」
「あっ 」
「匂い玉。うちの玉藻が端正込めて作ったんだ。大切に使えよ 」
「ああ、ありがとう。って、全然 匂いがしないんだけど? ちゃんと効くのか? 」
「玉藻には 一応 全部 人間用で作らせた。まあ、怪しむ気持ちは分かるけど、問題はない。試しに人間向けの媚薬を蘭ちゃんに使ってもらったら、効果は抜群だったからな 」
「あのさ、俺は媚薬はいらないんだけど…… 」
「そんなことはわかってる。媚薬は作るのが難しいんだ。他人に譲る余裕はない 」
狐太郎は いつになく真剣な表情で ペラペラと自分の主張を続けると、正臣に中身の確認を促す。綺麗なちりめんの中に収納された匂い玉は、見た目からは良薬にも毒薬にも見えなかった。
「但し、眠り用の匂い玉は 一個しか渡さない 」
「なっ 」
「当たり前だろ。眠っている人間を相手に非合法なことで匂い玉を悪用されたら、妖狐グループ末代までの恥だからな。それは美波ちゃんを河童の里に連れて行くときだけに使え 」
「……非合法って 」
「疑っている訳じゃない。だけど俺も正臣とは長い付き合いだからな。お前が優しいことも、たまに強引なことも 知ってるんだよ 」
「…… 」
正臣は言い返せるような台詞もなく、黙って正論を飲み込む。狐太郎の無言の釘の刺し方が 胸に痛い。でも それを否定できるほどの自信も持ち合わせてはいなかった。
「こっちが 記憶を混乱させる匂い玉。特殊な生薬を練り込んであるから、人間が変温動物を認知しづらくなる特殊な効果がある。これを使えば、河童に関するある程度の記憶は 分からなくなるはずだ 」
「そうか 」
「但し 言っとくけどな、どちらもきちんと 美波ちゃんの許可を得てから使ってくれ。騙し討ちとか、不意打ちとか、そんな悪どい使い方をしたら、俺は許さないからな 」
「分かってる。ありがとう。狐はたまに情に熱いよな。恩に着る 」
「……雁林先生の教えだからな。俺も常に己の性欲だけで生きてる訳じゃないんだよ 」
狐太郎は真面目な顔をして、堂々と恥ずかしいことを言い放つと 研究室を後にする。その足取りは、いつもよりも心なしか早い気がした。
匂い玉の力はなるべく借りない。
あとは、己の力で何とかする。
正臣はそう胸のなかで決心をすると、匂い玉を鞄の中へとしまうのだった。




