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美波は 今にも泣きそうな顔をして、涙を堪えていた。
正臣に婚約者がいただなんて、知らなかった……
でも もっとショックだったのは、自分がその事実に たじろいでいることだ。
美波は来た道を逆走するように那珂川へと向かうと、中洲懸橋からネオンライトを眺めていた。
どうしても家に帰りたくなくて、夜の街に戻ってきてしまった。用事なんてないし、荷物は重いし、少しは酔いも回っている。
今は正臣と顔を会わせたくない。でも、逃げられる場所もなんて どこにもない。
まだ微かに温い潮風は、容赦なく美波にも吹き荒んでいた。
正臣に婚約者がいたなんてことは知りたくなかったけど、でもこれで腹を括れる気もする。
いつまでも正臣に甘えていけはいけない。正臣に自由という立場を与えられるのは、高取の娘である自分だけなのだ。
「お嬢さん…… もしかして家出でもしたの? 」
「…… 」
すれ違う通行人に紛れて、美波に声を掛ける影があった。こんな時間にナンパだなんて 冗談も休み休みにして欲しい。でも残念ながら、今夜の美波には 他人へ思いやりを向けるような余裕はない。本音では、この衝撃を紛らわしてくれる静けさが欲しかったのに、そうは問屋が卸さないようだった。
「あの、ご心配は結構です。もう家に帰りますから 」
「そう、ムキにならないでよ。高取さん。まあ、強がってるところも、可愛らしいけどさ 」
「えっ? 」
何故か自分の名前を呼ばれて、美波は思わずその声の主を振り向いた。
見た目は完全に人そのものなのに、本性を知ってからは色眼鏡で見てしまう。先方は 相変わらず人間の形をしていたけど、闇夜の中に 隠しきれない妖艶さと適度な甘さが溶けている。美波はその人とは二度と関わりたくないと思っていた。
「……福重さん? 」
「高取さん、久し振り。といっても、二ヶ月も経ってないか。どう、元気にしてた? 」
「……質問には答えません 」
「冷たいことを言わないでよ。わざわざ僕のテリトリーに来てくれたから、てっきり嫁入りの決心が付いたんだと思ってたよ 」
「どうしたら、そんなに自分に自信が持てるんですか? そんな訳が あるわけないでしょう。あなたが誘拐未遂なんかしなければ、私は今も平穏に…… 」
「おいおい、よしてくれよ。君が従者とギクシャクしようと、喧嘩をしようと、それは僕には関係のないことだよ 」
「………… 」
美波は言い返す言葉もなく ギュッと唇を噛むと、水面に反射する中洲のネオンに背を向ける。福重は からかっているだけかもしれないが、こちらとしては真剣な悩みだ。それを こんなにも軽く扱ってくるなんて、本当に腹立たしいとさえ思えた。
「私は帰ります 」
「そう。それは残念。また、気が向いたらいつでも遊びにおいで。僕も仕事帰りは、この辺りをほっつき歩いてるから 」
「……もしかして、もう別の会社で働いてるんですか? 」
「まあね。人魚の宮も 緊縮財政が続いてるから、現金収入は大切なんだよ。幸い僕は人間界に溶け込んで 仕事をするのが得意なんだ。でもまあ、高取さん一人くらいなら充分に養っていけるから、興味が沸いたらいつでも嫁に来るといい 」
「金輪際、お断りです 」
「あはは。知ってるよ。僕も河童に福岡の街を破壊されたくはないし、君を奪ってもデメリットしかない。それに迎えも来たみたいだしね 」
「えっ? 」
美波は福重が指差す方向を振り向くと、反射で その人を探していた。
紺の背広を腕に掛け、ストライプのシャツに身を包んだ影が一人、こちらを物凄い形相で睨んでいる。正臣はビジネスバッグを下げ、少しだけ肩で息をしていたが、瞳の奥の瞳孔は完全に人魚を捉えていた。
「おいおい、勘違いはよしてくれ。もう俺は高取さんには手は出さないよ。たまたまバッタリ出くわしただけだ。そんなに怒るな 」
「…… 」
正臣は福重の弁明を軽く無視すると、すぐに美波の前まで移動する。首筋には じんわりと汗が滲んでいたけど、それを気にする様子は微塵もなかった。
「このアホ美波。ちょっと目を離した隙に、人魚野郎と逢引なんて いい度胸じゃないか 」
「……ちょっ、違うっ。って、正臣? 」
正臣は美波に駆け寄り手を掴むと、ついでに風呂敷包みも取り上げる。そしてグイグイと引っ張ると、あっという間に福重と距離を取った。
「正臣? ちがっ、本当に福重さんとはバッタリ会っただけで…… 」
「…… 」
「高取さーん。僕に頼りたくなったら、いつでも来るといいよ。そのときはお詫びの印に、抱いて抱いて抱きまくってあげるから 」
「「ちょっっッ……! 」」
抱いて抱いての連呼に、美波も正臣も激しい抗議を見せたが、あいにく福重は気にする様子はない。思わず固まる美波と正臣を横目に、福重は満足そうな笑みを浮かべていた。
「じゃあね、高取さん。河童に飽きたら、いつでもウェルカムだよ 」
「なっ…… 」
福重は自分の唇をペロリと舐めると、着衣のまま勢いよく 那珂川へとダイブする。その様子を見た美波は暫く呆気に取られていたが、正臣は一瞥すると 直ぐ様タクシーを探し始めた。
「ったく、アイツは一体何なんだ? 」
「さあ 」
「美波、帰るぞ。もう那珂川の辺りには一人で来るな 」
「えっ、あっ、ちょっ…… 」
正臣はそう言うと、美波の手を引き 思い切り方向転換する。その手は うっ血するのではないかと思うくらいに、一本一本の指が強く握られていて、美波の自由を完全に奪っていた。
「正臣…… 」
「なんだよ 」
「ちょっと手が痛い 」
「自業自得だ 」
「……空港から中洲まで 直接来たの? 」
「そうだけど 」
「何で、ここにいるって分かったの? もしかして私にGPSでも付けてるんでしょ? 」
「んな訳ねーだろ。そんなことをしなくても、お前が何処にいそうかくらいは分かる。従者を侮るなよ 」
「…… 」
狐太郎さんたちが、もしかしたら正臣に連絡してくれたのだろうか?
そうだとしたら…… また迷惑を掛けてしまった。
正臣に絡められた掌は、脈を感じるまでに熱かった。
でも この手は 他の誰かを触ったことがあるし、他の人と生きていく権利もある。正臣は自分と距離を置こうとしているのに、結果的にいつも彼を振り回してしまっている。そう思うと、美波は苦しくて苦しくて仕方がなかった。
「……そんなに過保護にしないでいいよ 」
「はあ? お前が危なっかしいから、俺が見張ってるんだろ。ったく、油断も隙もあったもんじゃない 」
「…… 」
「俺はさ、お前に もしものことがあったら困るんだよ。いい加減に学習しろ 」
「…… 」
「返事は? 」
「……うん 」
正臣は無理やり美波の返事を取り付けると、タクシーを止めて 自宅の住所を伝える。
その横顔が、今日は別人みたいに知らない人のようだった。
叱られても、文句を言われても、最後の最後はやっぱり助けに来てくれる。
見慣れないスーツ姿の正臣に、ドキドキしてしまうし、隣にいてくれると安心する。
繋いだ手はいつまでも握られたままで、子ども扱いが今は悔しい。
ああ、そうか。やっと分かった。
どうして、今まで気が付かなかったんだろう。
私はお嫁に行きたくないんじゃない。
私は本当は「お嫁に行け」って、好きな人に言われたくなかっただけなの。
だから、こんなにも 心が痛くて、悲しいんだね……
次回は昼頃投稿します




