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ああ、疲労困憊だ。
地下鉄で椅子に座れることが、これほどまでに極楽浄土に感じたことなどあっただろうか。
美波はハアと小さくため息をつくと、腰ポケットから真新しい名刺入れを取り出した。努力をして、やっと入社した憧れの企業のはずだった。それなのに自分の名前が刻まれた紙切れを眺める度に、見えない重圧に押し潰されそうな気分になる。
既にラッシュアワーを通り越した時間帯では、乗客は疎らにしか見当たらない。これから毎日、毎日、まーいにち、四十年近くの歳月の間、こんなふうに日々を繰り返さなくてはならないのかと思うと気が滅入る。大人になることは理不尽かつ、まるで一から全てをやり直すかのようで あまりにも無謀だ。
今日は一日中、挨拶回りに駆り出された。移動距離に比例するように、ヒールで圧迫された爪先は痛くなっていくし、ふくらはぎはパンパンに浮腫んでいる。着なれないジャケットは窮屈で、身体が今にも縮こまってしまいそうだ。
社会の洗礼に関しては、ある程度は覚悟していた。けれど使用期間が明けた途端に、月曜日からこれ程までに体力を削がれては、残りの四日間はどうやり過ごせばいいのだろう。しかも一番疲労がピークになっている金曜日には、天神だの中洲だの繁華街に繰り出すのがこの部署の定番なのだというのだから恐れ入る。世の中の大人たちは、みんなこの荒波を潜り抜けているのだから、今更ながらに尊敬の念が沸いてくるのだった。
本来ならば一分一秒でも早くベッドにダイブしたいのだが、美波の帰宅の歩は進まない。
家に帰ったところで、励ましの言葉をくれそうな両親は不在だし、疲れた顔をしていたら、アイツに何か言われそうなのが癪だ。そういう人間の細かな機微に疎いのは、やっぱり彼に流れる血がそうさせているのだろうと確信せざるを得ない。
美波は十分余りの穏やかな揺り篭から下車すると、ゆっくりと地上へと向かう。もはや階段は休み休みにしか昇れないし、これなら遠回りしてでもエレベーターを使うべきだったかと後悔の二文字が浮かぶ。それでもやっとの思いで地上の風景を捉えたときには、冷たい粒がぽつりぽつりと肌に伝わる感覚がした。
外界では、雨が降っていた。
ここから数キロ程度にしか離れていない会社を出たときには、空がぐずつく予兆などなかったはずなのに、梅雨時の天気はこうも変わりやすい。
美波は顔をしかめながら、一応鞄の中に手を突っ込んでみたものの、そこに折り畳み傘がある訳もなかった。
「こうなったら、仕方がないっッ 」
美波は誰もいない階段の踊り場で 盛大な独り言を呟くと、着ていたジャケットを脱いで、鞄の中に無理やり詰め込む。スーツの替えは一着しかないから出来れば汚したくはないし、鞄の表面はツルツルとした加工がされているから 簡単に水が染みてしまうことはないだろう。
美波は覚悟を決めてシャツを捲ると、再び雨水が滴る階段を昇り始める。本当は裸足になって駆け出すのが 最善策な気もしたけど、ここまできたらパンプスで突っ切るしかなかった。
信号が変わるまでは 屋根の中にいることにして、青になったら一気に勝負を懸ける。その後は なるべく街路樹の下を歩いて、雨を凌ぎながら帰ればいい。
美波は頭の中で帰路の立ち振舞いのイメージを膨らませると、見慣れた風景の中に信号を探した。交差点にぼんやりと揺らめく歩行者信号は、全てに赤いランプが灯っている。
次に【とうりゃんせ】が流れたら決行だ、と思った……そのときだった。
視線の向こうには、見知ったシルエットが一名、傘を差しながらも腕を組んでいて、明らかにこちらに強烈な視線を注いでいる。街灯の僅かな光から伺える表情からは、ムスっとした態度が滲みまくりだった。
信号が変わっても、美波は走り出す必要がなくなっていた。
先方は、襟足まで伸ばされた玉虫色の髪をサラサラと靡かせ、素足で履いている下駄をびしょびしょと鳴らしている。裾の辺りは雨水が跳ねたのか、着物にはまるで模様が刻まれたかのようなグラデーションが広がっていた。そして美波の元まで一直線に近付くと、もう一つ拵えていたビニール傘を差し出したのだった。
「このバカ主人。大雨の中を生身で突っ切ろうとする奴が、どこにいるんだよ? 傘がないなら、コンビニで買えば良いだろ 」
「…… 」
美波は顔をしかめながら#正臣__まさおみ__#を見上げたが、すぐに視線を逸らす。またいつもの説教が始まるかと思うと、面倒臭くて仕方がない。
「お前さん、今日はわざと折り畳み傘を置いていったな? 」
「……なんで、正臣にそんなことが分かるわけ? 」
「今朝、玄関に投げ捨ててあったからな。見たままを話したまでだ 」
「だって…… 雨の予報なんてなかったから 」
「荷物を軽くしたい気持ちは理解出来なくもないけど、この時期は天気が変わりやすいんだから備えとけよ。ずぶ濡れで外回りをするなんて、みっともないだろ 」
「もしかして、ずっと私を待っててくれたの? 」
「まさか。俺がそんな時間の無駄みたいなことを、わざわざするかよ。お前さんの足音が聞こえたから、駅まで迎えに来たんだよ。雨に濡れて、風邪でも引かれたら困るからな 」
「…… 」
美波は無言のまま差し出された傘を受け取ると、頭を少しだけ下げて 一応の謝意は見せる。悔しいけど、助かったのは事実だった。
「それと美波。お前さ、足を怪我してるだろ? 」
「えっ? 何で、そんなことまで知ってるの? 怖っっ 」
「俺はお前さんたちと違って、鼻が良いんだよ 」
何だ、それ。
ただの河童の末裔のくせに、五感が妙に優れているのが腹が立つ。普通に生活している分には 見た目は殆ど人間と変わらないのに、元々の備わった能力が高いだなんて狡すぎるではないか。
「別に大丈夫。少し靴擦れして、足に力が入らないだけだから 」
「そうか? 」
「えっ? ちょっ…… 」
正臣はいきなり美波の腰の辺りに手を回すと、まるで自分の肩に布団でも掛けるかのように抱き上げる。その手には今は殆ど退化してしてしまった水掻きが残っていて、腕周りには 薄らと広がる河童の鱗を隠すように、包帯が巻かれていた。
「アホ。傷口からバイ菌が入ったら、人間は直ぐにくたばるだろ? お前さんには無事に嫁に行ってもらわないと、俺は困るんだよ。意味もなく傷を広げんな 」
「……ちょっ、降ろしてよ。つーか、降ろしなさいっッ! 誰かに見られたら、恥ずかしいでしょっ? 」
美波はギャーギャーと声を上げたが、正臣はお構い無しとばかりに、どんどんと帰路を進む。正臣は片手に傘を差しているにも関わらず、美波を持ち上げても 相変わらず涼しい顔をしていた。
「嫌だね。つーか、こんな深夜にこの辺を歩いているような働きマンたちには、他人の動向を気にする余裕なんて残っちゃないよ。荷物だけは、自分でちゃんと持っておけよ 」
「ふざけないで。これは命令よ。主人の言うことが聞けないの? 」
「アホ。そんなの却下に決まってるだろ。都合が良いときばかり偉ぶるな。俺に担がれるのが嫌なら、明日からは見栄なんて張らないで、ヒールの低い靴で仕事に行くんだな 」
「なっ…… 」
美波は正臣の背中に一発グーパンを仕掛けたが、それが彼には何のダメージも与えることが出来ないのは、自分がよく知っている。悔しいけど正臣の言っていることは正論で、大人の真っ当な意見には敵うはずもない。
美波は盛大なため息をつくと、しばらくの間 黙って正臣の背中に揺られるしかなかった。