④
狐太郎が帰宅してからも、正臣は布団のなかで魘されていた。風邪を引いたわけではないとは言っていた。だけど明らかに体温は上昇をし続けているようで、正臣の頬はどんどんと赤くなっている。美波は見様見真似で濡れタオルを用意すると、正臣の額に宛がった。
熱がある正臣なんて、ここ数年は見たことがない。一体どんな事情があって、正臣がこれ程までに苦しそうなのかは分からないけど、何かのトリガーがあったのは間違いない気がしていた。
「正臣? ……熱は大丈夫? 」
「…… 」
美波が声を掛けても、正臣はうんともすんとも言わない。でも美波もここで引き下がる訳にはいかないので ぎゅっと口を結んで覚悟を決めると、正臣の身体を激しく揺らすのだった。
「ねえ、正臣。薬を飲むのに、何か食べなきゃだけど 」
「…… 」
「ねえ、どうせ狸寝入りでしょ? 返事くらいしなさいよ 」
「……耳元で煩い 」
「なっ。人がせっかく心配してるのに、何よ、その態度は 」
「俺のことは放っといてくれ 」
「ちょっ 」
正臣は覚束無い足取りでベッドから這い上がると、美波を部屋の外へと強制退場させる。さすがの美波も正臣の急な態度の豹変には驚いたようで、抵抗することも出来ずに目を丸くするしかなかった。
無情にもドアが閉められると、何だかとても腹が立つ。美波がピンチなときは、正臣は無条件に飛んできてくれるのに、逆の立場になった途端に 戦力外みたいな扱いをされたことに悔しさもあった。
「なによ。正臣なんて大っ嫌いっっ 」
「ああ、何とでも言え 」
「んっ…… ふんだっ 」
美波はあまりの やるせなさに一人で怒りを振り撒くと、正臣の部屋を後にする。でも今は怒りの感情よりも、素直に心配な気持ちが勝っていた。
◆◆◆
プルルル プルルル……
呼び出し音が 妙に長く感じた。
美波はスマホをスピーカーモードに変えると、先行するように冷蔵庫を開ける。正臣に薬を飲ませるためにも、何かを食べさせなくてはならないのに、残念ながら美波には料理のセンスはまるでない。でも正確に表現するのならば、料理が出来ないのではなくて、しないというのが合っているのだろう。
「んっ? もしもし、美波? 」
「あっ、お母さん? 」
美波が電話を掛けたのは、東京で暮らす母親だった。
遠く離れている両親に心配を掛けたくないから、普段は極力は頼るようなことはしないようにしている。だけど今のこの用件だけは、母しか聞く相手が思い付かなかったのだ。
「あらっ、急にどうしたの? いつもは電話なんて掛けてこないのに。もしかして正臣くんと、喧嘩でもしたの? そういう苦情だったら、ママはお断りだからね 」
「いや、そんなことはなくて。……あちゃら漬けの作り方を教えて欲しいんだけど 」
「あちゃら漬け? 」
「うん。正臣が具合が悪くて、何か食べさせないといけなくて。小さい頃、正臣が体調を壊すと よくお母さんが作ってたような気がしたから 」
「あら。正臣くんったら、風邪でも引いたの? 珍しいわね 」
「いや、風邪ではないみたいなんだけど…… まあ、体調不良と言うか、オーバーヒートってやつみたい 」
「オーバーヒート? 」
「あっ…… 」
「まあ、そうね。オーバーヒートをしてしまったら、正臣くんも可哀想だったわね。きっと日頃の我慢が疲れに出たのよ 」
「はあ…… 」
母の微妙な反応に、美波はバツが悪くなる。
オーバーヒートという表現は、もしかしたらデリケートな単語なのかもしれない。今更だけど 正臣の名誉のためにも ペラペラと口にしていい内容ではない気がしていた。
「そういえば…… 正臣くんは具合が悪いと、何も食べなくなってたわね。でも、あちゃら漬けだけは、確かに食べてたわ。まあ あちゃら漬けは少し時間は掛かるけど、美波みたいな料理初心者でも簡単に作れるよ。これから夏も本番だし お盆の定番料理だから、お嫁に行ったときにも覚えておいて損はないかもね 」
美波の母はそう言うと、ふふふと笑い声を上げる。美波としては不名誉ではあるけれど、そこは否定を出来るような実績もないので黙るしかなかった。
「まず胡瓜は麺棒で叩いて、適当に一口大に切るの。胡瓜は叩いた方が、味が染み込むのよ。正臣くんが場所を変えてなければ、麺棒は上から三段目の引き出しの中にあるから。手を切らないように気を付けなさいね 」
「はーい 」
美波は胡瓜のイボに気を付けながら表面をゴシゴシとあらうと、ヘタを小さく切り落とす。そして綿棒を取り出すと、台所の角にまな板を置いて バンバンと胡瓜を叩いた。
「本当は あちゃら漬けには お大根とか牛蒡とか、木耳や凍り蒟蒻を入れるのが定番なんだけどね。正臣くんは食べないだろうから 胡瓜だけで良さそうね。
胡瓜の下準備が終わったら、ボウルに塩を入れて、手でよく揉み込んで。そうしたらラップをかけて冷蔵庫で十五分くらい置くの。
その間に調味料の準備ね。お鍋を準備したら、お酢と醤油と砂糖と胡麻油を入れて中火でひと煮立ちさせて、水気を絞ったお野菜に熱いうちにかける。粗熱が取れたら、冷蔵庫で一時間くらい冷やして味を馴染ませるのよ 」
「ママ。ちょっ、待って…… メモが追い付かないっ 」
「メモなんかしなくても、これくらい覚えられるでしょ。本当に美波は料理の才能が怪しいわね。食品会社に勤めてるのに、ママは心配になっちゃうわ 」
「なっ、それとこれは話が別だもん! それに明太子はぜんぜん作り方が違うし 」
美波はいつの間にか素で母のことをママ呼びし始めると、広告の裏紙に必死にメモを取っていた。
「はいはい。言い訳はわかったから、取り敢えず落ち着きなさい。美波も、少しつづ正臣くん離れをして、これを機に料理の腕を磨きなさいな 」
「なにそれ。ママまで私に早く嫁に行けって言うんでしょ 」
「まーた、そんなことを言い出して。……大事な一人娘にさっさと嫁に行けなんて言う親がどこにいるのよ。自意識過剰もいいところよ 」
「えっ? 」
「ママは、出来るならば美波も呼び寄せて東京で暮らしたいわ。美波が結婚しちゃうなんて寂しいもの。きっとパパだって、同じことを言うに決まってる 」
「…… 」
「仕来りに縛られているのは、美波だけではないのよ。それだけは、忘れないでね。美波も正臣くんも、もっと素直になりなさい 」
「ママ……? 」
「あらっ、いけない。もう、こんな時間だわ。今日はね、パパと久し振りにディナーに行く約束をしてるの。美波も何でもいいから、夜ご飯はきちんと食べるのよ。あと、正臣くんに あんまり迷惑を掛けないこと 」
「うん。ありがとう、ママ 」
美波はスマホのスピーカーを切ると、しばらくの間 水分を失い始めた 胡瓜を見つめていた。
ご先祖さまの習わしに振り回されているのは、自分だけではない……か。
首筋の印が疼いているような気がするのは、きっと気のせいだ。でもこんなに心が苦しく感じられるのは、気のせいではないのだろう。
美波は全てのモヤモヤを吐き出すように溜め息を付くと、鍋を火にかけるのだった。
次回は19時近辺に投稿します




