③
◆◆◆
『正臣が熱を出した』と美波が連絡を受けたのは、夕日が真っ赤に染まり始めた刻限だった。
美波がショッピングモールから帰宅して程なくすると、玄関の方面から車とは違う大きな物音がする。美波が慌てて引戸を確認しに行くと、家の前にはピタリと牛車が着けられていて、その車箱の中からは軽快な足取りで狐太郎が姿を現した。
「あっ、美波ちゃん。ごめんね、急がせてしまって 」
「いえ。こちらこそ、先日からご迷惑ばかり掛けてすみません 」
「いいのいいの。正臣と美波ちゃんには、いつも世話になってるし。逆に僕としては蘭ちゃんとも知り合えて、感謝しなきゃいけない立場だよ 」
狐太郎は顔にマスクを装着すると、美波との間に一定の距離を保つ。いくら最近は蘭で免疫がついてきたとは言え、美波の放つオーラは特別だった。
「そう言って頂けると、気が紛れて助かります。えっと、あの、この乗り物って…… 」
「ああ。ごめんね。病人を黒ずくめにしてタクシーに乗せると、いくらなんでも目立っちゃうからさ。正臣は牛車で運んできたんだ。美波ちゃんは契約の印の所有者だから牛車がハッキリ見えてるけど、一般の人には乗用車に見えてるから安心して 」
「そうでしたか。すみません、ちょっと仰々しくて動揺したもので 」
美波は胸を撫で下ろすと、安堵の表情を見せる。すると、そんな美波の仕草を見た狐太郎は、からかいついでに美波の耳元でこんな言葉を口にした。
「あっ、でも蘭ちゃんには見えるかもしれないな 」
「えっ? それって、どういうことですか? 」
「だって蘭ちゃんは僕と深い関係にあるでしょ? 妖怪と交わってると、そのうち色んなものが見えるようになるんだよ 」
「なっっ 」
「なーんてね。まあ、それは冗談だけど。美波ちゃんは相変わらずピュアだね 」
「ちょっ…… からかわないで下さい。私は大人の会話に、免疫がないんですから 」
「あはは。ごめんごめん。正臣がボンヤリしてるときでないと、美波ちゃんには冗談ひとつ言えないからね。ほら僕らは地獄耳だしさ 」
狐太郎はチャラついた笑顔を見せると、再び車箱へと戻る。そして次にガサゴソと音を立てながら、美波の元に戻ってきたときには、右肩に正臣を抱えていた。
「正臣っ? 」
「…… 」
美波は正臣を覗き込むが、それに対しての反応はない。狐太郎は正臣を落とさないように、八つに別れた自分の尻尾を絡めているから、細かい表情は読み取れないけど、明らかに苦しそうに呼吸をしていた。
「いやー、正臣を見苦しい感じにしちゃってごめんね。最近、うちらの界隈で流行ってる遊びがあってさ。俺が無理矢理勧めちゃったもんだから 」
「えっ? 正臣は酔っているわけではないんですか? 」
「いや。そうだね、何と言ったらいいか。どちらかというと、発じょ…… ではなくて、オーバーヒートしてる感じなんだよね 」
「はい? オーバーヒート? 」
「そうそう、そんな感じ。疲れが溜まってたみたいで、熱を出したらしい 」
「そうですか。あの、正臣は重くはないですか? 」
「あはは。大丈夫だよ。一応、僕も妖怪の末裔だから、力はあるんだ。正臣みたいな大妖怪を抱き上げるなんて経験は二度とないだろうし、気にしなくていいよ 」
「大妖怪? 」
「ああ。あの里の河童さんたちは、怒らせると怖いから。俺も出来れば穏便でありたいよ。喧嘩を吹っ掛ける根性があるのは、人魚くらいだろうな。本当に命知らずな連中だよ 」
「そうですか…… あの、正臣の部屋はこっちです 」
狐太郎が言っていることの意味は良く分からなかったが、ここは深追いはしないほうが得策なのだろう。美波は玄関を開くと、黙って狐太郎を案内した。
「美波ちゃんの家って、平屋なんだね 」
「ええ。うちは江戸時代から続く家屋を、代々修繕して住んでるんです。うちの二本向こうの道路の先は、よかトピアの開発で埋め立てが始まるまでは、海だったらしくて。だからうちの家は、かなり昔から海の近くにある木造家屋なんです。私はよかトピアは全然知らない世代だけど、パビリオンがあったときには楽しい街だったんでしょうね。まあ、正臣すら生まれてないし、私も博物館の模型でしか見たことはないですけど 」
美波は廊下の角を曲がると「こちらです」と言いながら奥へ奥へと進んでいく。外から見た感じでは、それ程大きな印象はない家屋であったが、中に入ると思いのほか広く感じられている。廊下の隅までキチンと掃除が行き届いた室内には、所々に河童の置物や美波の幼少期の写真が飾られていた。
「あの写真 」
「ああ。あれは私の父と、従者の一臣さん…… 正臣のお父さんの写真です 」
「正臣のお父さん? 」
「ええ。私の父が母と結婚するまでは、一巨おじ様が父の従者をして下さってたそうなので 」
「なっ? ちょっ、計算が合わないんだけど? 」
「えっ? 」
「だって河童の従者は未婚でなきゃいけないんじゃないの? 」
「いえ? そんな決まりはないと思いますけど 」
「えっ? 」
「一巨さんは父の従者をしながら里で結婚をしてからは、定期的に西新に通って下さってたそうなんで。ずっと一緒だったわけではないみたいです。今は時代が時代だし、本当は正臣ももう少し自由にしてくれても良いんですけど。私が頼りないから、心配みたいで…… 」
「……マジか。正臣って、想像以上に拗らせてるな 」
「はい? 」
「あっ、いや。ごめん、こっちの話 」
「……? 」
美波は頭の中にクエッションマークを浮かべながら、正臣の部屋を開けると、陽射しを遮るように障子を閉める。そしてベッドの布団を捲ると「こちらにお願いします」と狐太郎に声を掛けた。
「美波ちゃん。今日はあんまり正臣に近づかない方がいいかも 」
「えっ? 何でですか? 」
「正臣は神経が興奮してるかもしれないんだよ。これ、念のために匂い玉をあげるね 」
「匂い玉? 」
「ヤバイと思ったら、正臣に投げつけて。鎮静剤みたいなものだから。まあ、美波ちゃんが嫌でなければ使わなくてもいいけどね 」
「はあ 」
一体、正臣は何事に手を染めてしまったのだろうか……?
美波は事情が良く分からないながらも、狐太郎から匂い玉を受け取ると ポケットにしまう。人間の自分には無臭であるけど、正臣たちには毒みたいなモノなのだろう。狐太郎は自分の手から匂い玉が離れても、しばらくの間 鼻を押さえていたのだった。




