95 ニューチャレンジャー。
「諦めないで」
それは突然の『声』。
蜘蛛の股下から見える向こう側、
糸に巻かれた均次のすぐ近く。
居た。ジャージ姿の女の子が。
髪はボサボサ。どんな顔か判別しずらい。よく見れば整った造り…そんな雰囲気は、ある。
そんな、女性らしさに全く興味なさそうな出で立ちだが、女性らしさを主張する箇所が内側からジャージ生地を遠慮なく圧し伸ばしている。
才子ほどでないが抜群のトータルプロポーション、それを隠し切れていない。
つまりのつまり、いつもの香澄なら劣等感をくすぐられる存在であり、そんな逸材が均次のそばにいるのを見ればきっと、ヤキモキもしただろう。
だが今の香澄は戦闘と心苦に挟み撃たれる真っ最中。
ヤキモキが入る隙間なんて1ミリもない。そんな状態の彼女に向け、その女子は言った。
それは文字通り、手を差し延べるようにして。
「刀を貸して!」
心身共に進退極まっていた香澄は、その言葉と手に縋るようにして釣られてしまった。
そしてまんまと手放してしまった。唯一の得物である小太刀を、ビュン!
──カッ、と地に刺さったそれを引き抜いた女子は、
均次に纏わり付く糸を「…ぁ」
切らずに姿を「…ぇ」そのまま、
…かき消してしまった?
「……いっちゃ …た」
その、あまりな肩透かしに呆気にとられる暇はしかし、香澄にはない。
何故ならこちらの事情など気にするはずもない蜘蛛が目の前にいるからだ。
相変わらずの豪脚を振り下ろしては地を砕き、大量の礫を爆ぜ撒いてくるからだ。
ゆえに、少女を気にする余裕は早々になくしてしまった。
しかしそれもしょうがない。
今の香澄の中は『どうしようもない』と『諦められない』が絶えず交差して忙しく。
そのせめぎ合いを『無情』と『無常』が押し流そうとし、それでも身体は勝手に動いて。
肉体言語と精神言語が自問自答スタイルで異種格闘を繰り返す、そのちぐはぐな時間が、香澄に死ぬまで続くと思わせる。
しかし、それにもまた、変化が。
香澄の目から涙がなくなる。
代わりに闘志が揺らめき立つ。
一体、香澄に何があったのか?
そんな変化も、人の表情など読める訳がない蜘蛛には気付けない。
いや、香澄は無表情がデフォルトだ。均次か本人にしか分からない機微だったかもしれない。
ただ少なくとも、先程の少女についてはもう忘れているようであった──
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一方、香澄から『今は無銘の小太刀』という超がつく業物を借り受けた臼居忍は、
「ぐえ、」
「ぎっ!」
「ぎゃぃ!」
「ぐぉが、」
という抗議のうめき声を無視しながら走っていた。
見えざる糸によって地に張り付けとなったモンスター達を足場代わりに。
不安定な足場だが、魔力による補正でその足取りに危うさはない。
ただし向かう先は警察署とは反対方向。均次や香澄を救うと決意したにも関わらず、どこに向かうというのか。
まさか小太刀を借りパクするつもりか、そんな不審さ全開の彼女がようやく足を止めたのは、周辺ビルの近く。
そこで息を整え。
握る小太刀を振り上げ。
地に張り付いて動けないモンスターの首筋へ──ザシュ!
「ぎゃごぁっ!」
…振り下ろした。流石の業物。小太刀はすんなり【MPシールド】を貫通。その内側にある肉に潜り込み骨を切断。いかな進化モンスターといえ、急所をこうも見事に貫かれれば息も絶える。
そこで彼女の脳内に響き渡る『謎の声』。
『『必殺者』がジョブレベルが9に上昇しました』
聞きながら。忍は確信を深めていた。そして思い出していた。
身を隠しながら均次達の後を追っていた際に、テンションがおかしくなった彼が言った、あの言葉を。
『おら見てんだろう!?たった一体倒しただけで大量レベルアップ間違いなし!しかも入れ食い!リスクなんて考えてちゃ強くなれねぇ!いい加減それに気付けよ臆病者どもっ!』
あの言葉通りだった。
ここにいるモンスターは他所に比べ、相当にレベルが高い。
つまり経験値的にかなり美味しい。
そしてここには多くの人間がいる。今は息を潜めているが、世界に変なシステムが導入され、ジョブやレベルやスキルなんてものが実装され、夢が叶ったとばかりレベリングに夢中となった連中が、ここにはたくさんいるはずなのだ。
忍も街をさ迷っていた際、ここに誘われるように集まる人々を見かけていたので知っている。
彼らが息を潜めているのは、ここにいるモンスターが強すぎるからだ、という事も知っている。
レベルが低い内は当然『攻』魔力も低い。それに彼らが持つ武器はまだ『アイテム化していない従来品』ばかり。
高レベルモンスターを倒そうにも刃が立たない。
魔法使い系ジョブなどはもっとひどい。レベルが低い内は『知』魔力が低いのは勿論の事、そもそも魔法系スキルというものは魔攻系スキルよりも威力が低い。そして『アイテム化して魔法威力を増大する杖系統の武器』を持っている者なんて、高位モンスターの中にも見た事がない。
そんな弱者達では太刀打ち出来ない強モンスター。それがしかも、こんな多勢でいるのだから、傍観するのも仕方ない。
でも?
その多勢も今や、関係なくなっている。
そのほとんどが蜘蛛糸によって地に張り付けられている。
つまりは一方的に殴り放題となっている。
あとは…そう、低レベルの魔力覚醒者でも高レベルモンスターに止めを刺せる、そんな強力な武器さえあればいい。
そしてそれは今、忍の手中に。
この小太刀なら倒せる。
ここにいるモンスターを倒せる。
倒しまくって、大量レベルアップが出来る。
忍はそれを報せに来たのだった。この期に及んでまだ傍観を決め込む連中に。
『大家さん』から武器を奪った上に背を向けたのは、このためだった。
忍にも分かっていた。非力な自分が一人加勢したところで、どうにもならない状況だと。
ならば多くの人間が参戦すればどうかと思ったが、それでもダメだとすぐに気付いた。
低レベル覚醒者が何人加勢したところであの蜘蛛は倒せない。むしろ『大家さん』の邪魔にしかならない。
それ程にあの蜘蛛は強大過ぎる。何せ、人に負けない知恵まで備えている。
『…でも、』とそこで忍は考えた。
あの時、蜘蛛と、周りに張り付けられたモンスターと、周辺ビルの影から此方を窺う覚醒者達、それぞれをグルリ、見据えて考えた。
蜘蛛の弱点。それは、その賢さにこそあるのではないか。
その賢さこそが、あの蜘蛛に強者の傲りをもたらした。
あの蜘蛛にしてみればきっと、ビル影に隠れてこそこそするだけの人間なんて、地を這う鼠ほども驚異ではない。
だから、こんな特大の餌を晒して平気でいられる。
いや、これはもはやご褒美と言っていい。なんせ身動きが取れなくなった高レベルモンスターをこんな大量に放置してくれているのだから。
…傲慢にも程がある。こうして放置していられるのはきっと、これら高レベルモンスターですら、あの蜘蛛にとっては雑魚に過ぎないから。
そしてそんなものを倒してレベルアップしたところで人間ごとき、何が出来よう、自分には遠く及ばない、あの賢い蜘蛛の事だ。そこまで見越して放置している。
……人間を、舐め過ぎた考えだ。その傲慢に衝け入ってやる。
素直にこのご褒美を平らげて、高レベル覚醒者達を量産して、知恵者が自分だけでない事を、あの蜘蛛にとことん教えてやる。
(…と、その前に…私自身が強くなんなきゃね)
レベルが不十分な内はいくら無抵抗とはいえ、ここにいる進化モンスター達は硬くて倒せない。だからこの小太刀が必要となるのはさっきも述べた通り。
つまり高レベル覚醒者を量産するには、『ある程度レベルアップするまでという条件でこの小太刀を不特定多数に貸し出す』必要がある訳だが…。
これほどのレアアイテムだ。持ち去ろうとする不届き者だっているかもしれない。
それを防止するためには自分自身がまずは強くなる必要がある、そう思った忍は改めて覚悟を決め、小太刀を再び振り上げるも、心はやはり抵抗する、叫んでいる。
『本当に、出来るのか』
本当の非日常、本当の非常識、本当の非現実、本当の未経験、本当の未確認、本当の想定外、本当の許容外…数え上げたら切りがない。
このひと振りの後は、その全部が待ち構えている。
…本当に、出来るのか。
──だから、どうした。
自覚なら、ちゃんと、ある。
自覚が足らない自覚なら。
たったそれだけの確認、
足らないままの自分全部で、。
彼女はまた、小太刀を振り下ろした。




