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92 香澄愁了。



 香澄の窮地は続く。



 あの均次をして反則技と言わしめた運属性魔法も悉く跳ね返されてしまっている。


 いや、


 さすがの蜘蛛も不可侵にして不可避の『運』、これを操る魔法に干渉なんて出来る訳はない。実際に『幸運による回避』や『幸運による命中』はしっかりと発動している。


 しかし、それもひっきりなしの連撃や礫を避けていれば強制的かつ無為に発動させられてしまう。つまりこの蜘蛛にしてみれば特別に何かをしたつもりもない。偶然に無効化してしまっただけ。


 それを幸運と呼ぶならあまりな皮肉だろう。何故なら本家本元の運属性魔法使いである香澄のお株を、見事に奪った形となるのだから。


 ともかくこうして呆気なく。香澄の全ては完封されてしまった。



 一体、ここから──



「 どう やって──」



 均次が囚われている以上逃げる事は許されない。


 かといってこの蜘蛛は自分一人で倒せる相手ではない。


 なのに仕切り直す事も許されない。見事に八方を塞がれた。



 こんな状況を覆す一手など──




「 ──ない…?」もう、何も?




「…ぁ」つまりは、





「詰ん…」でしまった。




 …遅かった。


 気付いた時には出来上がっていた。


 均次を救うどころか、自身が助かる見込みすらもはやない。



 そんな、絶望が。



「もう、どうしようも──」



 そこまで言いかけた時、足下からゾワり。這い上がるものを感じた。



 それはかつて慣れ親しんでいた、懐かしの、虚無。



 それを思い出す──



 生まれた『(さと)』で生きていた頃を…もしくは、生かされていたあの頃を──


 その『(さと)』の命令で様々な地に赴き、魔を払い、時には取り込み、さらには人を殺す事すら生業にしていた──


 

 あの頃──



 香澄の心には虚無しかなかった。



 それは劣等感からくる自己否定だったり、反社会的思想を元にした全方位への敵視だったり、厭世感からくる孤独とも違う。ただただ、虚無に支配されていた。


 何故そうだったかと言えば、物心がついた頃にはもう、思い知らされていたからだ。



 呪縛とも言える『(さと)』の支配を。それからは決して逃れらない宿命を。



 だから自分を含め、人も、敵も、国も、世界すら、あらゆる概念を虚しく脆く儚いものとして見ていた。


 なので『(さと)』を大事だと思った事なんて一度もない。


 ただひたすらに『(さと)』という存在が絶対過ぎた。


 その理不尽を忌む事自体、馬鹿馬鹿しく思えるくらいに。つまりは、



『どうしようもない』



 これだけを理解していた。理解したなら無理でも信条として生きるしかなく、だから全てに現実味を持てず、『生きる』と『死ぬ』の境界すら曖昧にして、その時がくればそうなるだけと、何も選べないのだからただそう思うしかなかった。



 だから、今回もそう。



『どうしようもない』



 あの頃の自分に戻るだけ。



『どうしようもない』

 


 今思えば便利な言葉だ。



『どうしようもない』



 そう思えば全てに諦めがついたのだから。だから、今回も同じ。



『どうしようもない』



 そう思えばいい。それが難しいならこう思えばいい。均次の死を見ず先に逝ける、それだけでも救いがある。他にやりようがあるなら足掻きもするが、もう



『どうしようもない』



 だからもういい。このままこの蜘蛛に、、、



 そう、


    思うのに、、、っ、




「──なんで、、」この身体は、、




「なんで…」攻撃を避ける?耐える?




 あの連撃に当たれば即死。楽に逝ける。簡単に終えられる。辛かった過去も。今さら辛い現実も。


 そう思うのに何故、この身体は動くのか?いい加減息が上がって苦しいのに。集中力も限界なのに。キロメートル単位上空で、ミリの太さしかない線上で、前にも後ろにも行けずただただ佇む、それしか許されていない、そんな状況であるのに、何故?


 その答えは単純だ。



 諦められない。それだけだ。



 でも、それこそ何故だ。



『どうしようもない』



 これは魔法の言葉だったはずだ。


 これさえ思えば諦められるはず。


 空っぽでいられるはず。


 それなのに──



「均次くん──」



 …生まれて初めて覚えた最愛…。


 たった一人で『私の虚無』を埋めた人。


 彼のためなら、そう…彼のためなら、彼の、ためなら、なんとしたって。どうしてもそう思ってしまうから。でも、そう思っても、



「均次くん…っ」



 世は無情だ。


 どんなに愛しても、どんなに大事に想っても、その想いが届かない現実なんてありふれていて事実、自分は今、どうする事も出来ないでいる。



「均次くんっ!起きて!」



 世は無常だ。


 こうしてダンジョンやモンスターや魔物なんて存在が現実となった事が証だろう。絶対なんてあり得ない……なら、『(さと)』の存在は?そうだきっと、絶対ではなかった。


 だから、自分は均次の愛に飛び込めた…しかし。無常なればこそ、彼という特別も世界は『絶対』としてくれない。



 ……ここまで理解して。それでも、



「均次くん… …あ  ぐ…う、う」



 ……諦め、られないッッ



「どう して、どうして!」



 いつの間にか呪っていた。蜘蛛脚の挙動を絶望の目で見上げながら、そのさらに向こうでこの状況を嫌味に照らす、晴天を。


 

「…どうして、どうして、どうしてっっ!」



 どうして与えた?こんなに容易くこぼれてしまうものを、どうして今になって、こんな自分にっ。


 こんなに想って、大事になって、それなのに守れない、こんな不完全で惨めな自分に、どうして彼のような特別を与えたのか。


 惨めなままで良かった。空虚なままが良かった。こんな残酷に苦しむのならッ!


 …そう思うのに身体は動く…どうしても諦められないと勝手に脈打つッッ!



「………………どう して…」



 でも無駄結果は同じ均次は救えず自分も死ぬ運命は決まっているもしくは決まっていたどちらでもいいどうせもうどうする事も出来ない、、そう、



『どうしようもな──






 「…本当に?」





 本当にもう、『どうしようもない』のか。


 本当にそうなら何故、信条とまでしたこの言葉にこんなにもッッ、


 憎しみと、悔しみをぉッ、感じて、いるッッ!



「きん、じく…均次くん、均次くんっ!」



 覚えたての涙が滲む。これを教えてくれたのも彼だった。


 しかし涙など流せば当然視界もぼやけて滲む。


 そうなれば回避が難しくなる。それは均次くんを救う事も、逃げる事も難しくする。


 なのにこの身体は…一体、何がしたいというのだろう。


 勝手に足掻いてもがいて、避けて耐えて、そのくせ、その邪魔となる涙を流して。


 己の滑稽な生を、我が身というもう一つの自分が試して笑っているような…そうか、そうくるのか、でも、それでも、今はこの、



 『身』勝手こそが、、っ



 あの恐るべき呪いの言葉に唯一、対抗して──!



『やめろ もうどうしようもない』



 うる さい…



『どうしようもないのだ』



 …黙 れっ



『どうしようもないのだから』



 言うなっ!



『無駄 もう諦めて』



 そんなこと、ないっ!!



「 …だって、まだ、」



 ほら… …、



「 …動くっ 」



 こうして『(さと)』の呪縛に心底から逆らったのは、初めてかもしれない、その事に呆然とした、その時。




「諦めないで」──え。




 …聞こえた。




「…今、の…」




 確かに聞こえた。過去の自分に抗う自分、それを後押しするような、声。



「…誰?」



 神の啓示か、もしくは我知らずと自身で発しただけなのか。



 …いまだ揺れ動いて止まない香澄の心は、咄嗟に理解出来ずにいた。


 

 

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