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110 焦り。迷い。一心不乱。



 笑い女こと大家香澄はもう、笑っていない。


 何故か。


 それは、もう狂ってないからだ。度重なる誤算を切っ掛けに、彼女は正気を取り戻し──そして焦っていた。


  ・


  ・


  ・


  ・


  ・


( …まさか、)


 あのジャージ女子(忍の事)が参戦するとは思ってなかった。

 

(一体、何があって?)


 弱り切った心を健気に奮い起たせてはいたけど、あれは反動からの勢い任せ。縋る対象がよりもよってこんな死闘になっただけ…


(…だったはず)


 だから『ただの無謀に戦いは応えてくれない』そう思った。これは戦う事を生業とする私ですら思い知るところ。


(現に ついさっき思い知らされた。だから──)


 そんな彼女()だからこそ、託せた。均次くんを。



(なのになんで──ううん、分かる。多分また、何かした。均次くんが…)



 『何とかなる』


 そう思わせる『何か』が、均次くんにはある。だから愛せたのかもしれない。こんな私でも。


 もし他の誰かを愛してもきっと、『(さと)』の呪縛は解けなかった…ううん、それ以前の問題…彼と出会わなければ、私に人を愛する心なんて備わるはずはなかった。


(才蔵…さんも、)


 きっと同じ。家に引きこもって一歩も出られないほど世間を恐れて遠ざけていた彼ですら、均次くんを無二の親友だと疑ってない。彼のためなら人外武士(鬼怒守義介)大妖怪(ヌエ)に、凄みまでした。


(才子ちゃんだって…)


 兄妹の壁も超えて才蔵さんに愛を注ぐ彼女もきっと、他人にさほどの興味を持てない人種。そんな彼女ですら、均次くんを二人目の兄と想っている。


(鬼怒守、義介…あのヒゲも…)


 今世では初対面であるはずのあの男も、均次くんに『何か』を感じたようだった。仕方なしといえ、一度は殺意を向ける馬鹿をしたけど、今は鬼怒恵村の未来を託してる。



 この現象は人だけにとどまらない。



(ダンジョンボスですら…)


 原則無敵。ついた名は『無双ムカデ』。そんな存在にとってレベルゼロの人間など塵芥にもなれないはずだった。なのに均次くんはそんな状態で、『強敵』と認めさせた。


(可哀想な阿修羅丸も…)


 この世界にとってイレギュラーであるモンスター。その中でもイレギュラー中のイレギュラーであるネームド(名前憑き)。そんな彼ですら均次くんに憧れた。死に際では心臓を捧げまでした。


(無垢朗太さんなんて特に…)


 前世の怨敵、今世の宿敵。背負った不幸大部分の元凶。そんな存在ですら、均次くんは自身の一部に取り込み、今では相棒と呼んでいる。


(ヌエ──あの愚かで猿な猫だって)


 数百年も憎しみ抜いた無垢朗太諸とも均次くんを殺そうとして、実際に殺したあの大馬鹿者ですら、再び殺す事はもう諦めている節がある。あれもきっと彼の『何か』にやられてしまった。



(そして……)



 あの、赤いコスチュームで身を包んだ変人達──もとい、謎の助っ人集団、と…おじさん。きっと彼らもそうなのだろう。


 均次くんが無自覚に放つ『何か』にあてられた。だから一歩踏み出そうとしていた……と言っても、私が魔法を使って無理矢理に後押ししなければ踏み込んではこれなかっただろうけど…


(…ううん、それを 臆病とは思わない。それが当たり前)


 『死なないために殺す事』は出来ても、何の訓練もなしに『戦って死ぬ覚悟』までは決められない。不可能に近い。

 それでも。『均次くんを助けたい』という想いはあったはず。なければ私の能力で思考誘導など出来なかった。


( いつもそう… )


 周りを巻き込む。そんな均次くんを誇りに思う。…けど、今回ばかりはそれが裏目に出てしまった。予定が狂ってしまった。


(ううん…元はと言えば…)


 この蜘蛛を私が一人で倒せばいいだけの話だった。でも、 


(……間に合わなかった…)


 奥の手なら残してる。バフやスキルは今も制限していて──でも、


(全力で戦えるのは一度きり…それも少しの間だけ…)


 その全力をもってして、この蜘蛛は倒せない。それが分かる。分かってしまった。


(もっと弱らせないと…倒し切れない)


 その弱らせる時間がもうない。血を流し過ぎた。身体が限界にきている…もうすぐ、戦えなくなる。


 こんな身体では負荷を受け止める事も出来ない。つまりスキルをこれ以上強化する事も、もう出来ない。ここが今の私の限界点。


(このまま、私が戦えなくなれば…?)


 あの謎の助っ人集団は即座に殺される。そして均次くんも──なんでこうなったのか。それは分かりきっている。


(私のせい…)

 

 自分が恥ずかしい。彼らの戦力など始めから宛にしてなかった。それなのに巻き込んだ。それは何故か、



(…均次くんを、逃がすため…)



 せめて蜘蛛を足止めする。そのサポートをさせようと…つまりは、蜘蛛への生け贄としたのだ。私は。均次くんを救おうとしてくれた、彼らを。


「 ……… … 」


 あのジャージ女子にだけ思考誘導を施さなかったのも、均次くんを逃がすためだった。彼女のスキルは自身だけでなく同行者の存在まで消してしまえる。そしてこんな死闘に参戦出来るほどの強い心は持ってない。つまりは…



(均次くんを逃がすのに 丁度良かった。そんな打算があったから…それなのにあの娘は──戦って、くれてる。あんなにも──均次くん、何を したの?)

 


 そんな事が出来る均次くんが誇らしい。


 こんな事をしでかした自分が情けない。


 巻き込んだ人達は本当に申し訳ない。


 そしてこの蜘蛛は──


(均次くんを、追う。どこまでも。確実に滅ぼすまで。それが分かる…でも、今の均次くんは──)


 …戦う力を失っている。完全に。


 どうしてそうなったかは分からないけど、彼から魔力の一切を感じなくなったのだから間違いない。


 あんな状態では戦えないどころか、逃げる事すら……だからあの娘が一緒に逃げてくれたら──そう想って…でも彼女が参戦してしまった以上、それも叶わなくなった、今、


(もう倒すしかない…でも…どうやって?)


 血を失い過ぎた。もうすぐ戦えなくなる。時間はない。全力を出せるのは一度きり。その全力でも届かない。倒し切るには弱らせる必要がある。時間がかかる。



(だからッ、その時間が もう…ッ)



 …ない。つまり倒せない──このまま全員死ぬ。ならせめて、均次くんだけでも──だからそれも出来な──どうする──どうすれば…どうすればどうすればどうすればどうすればどうすればどうすればどうすればどうすればどうすればどうすればどうすれば──


 『どうすれば』


 『どうしようもない』から解脱したが思考は堂々を巡る。解決策を見出だせないまま。



 大家香澄は、焦っていた。



  ・


  ・


  ・


  ・


  ・


 そんな香澄の懊悩を、一号こと長田一子はいつもの如く粗方分かっていた…が、しかし。


 どうすればいいかまでは分からな──いや、それも分かっていた。



 見捨てればいいのだ。



 利用してきたのは向こうの方。このまま道連れなど論外だ。


(でも、忍ちゃんは?)


 きっと……残る。ああなった彼女はあの二人を見捨てられない。それも分かってしまう。危ういと思ったのはこの事だ。


(ここは地獄…)


 そんなところにあんな少女を残してゆく。そしてあの蜘蛛を放置すれば地獄は溢れる。赤月市全体が地獄と化す。それも分かってしまってしまっている。



 そう、分かり過ぎる一号だからこそ、迷っていた。



 しかし彼女らは全員が県外出身。聞けば倉敷正治もそうだった。だから関係ない。そう言っていい立場にある。


 そもそもとして、レッドフルのメンバーは地元にいる家族を助け出すために、強くなろうとしたのだ。


 だからレベルアップを求めた。追い求めた末にたどり着いたのがここだった。聞けば倉敷正治もそうだった。


 だから、そう。関係ないのだ。そう言って良いはずだった。なのに参戦してまった。何故か。それは、


(あのヒーローをあてにしたから…)


 しかしそのヒーローもどうやら戦えない。【魔力視】で彼を見れば魔力はゼロ。だからこれ以上は──もう、



(…付き合い 切れない…)



 そうだ。あの二人を、見捨てるのだ。

 例え忍まで見捨てる事になっても。

 優先順位を考えろ。

 仲間が大事…そのはずだ。

 そして彼らにも自分にも家族がいる。

 通信が途切れた今、その安否は不明だ。


 ここで命を粗末にする理由が、どこにある?どこにもない。


(だから、だから…っ)


 それでも、

 迷いを振り切れない。

 それでも、

 決断した。そして遂に、



「みんな聞いて──」言おうとした、瞬間!



 ──ガガガガガガッッッ!!



 香澄との戦闘に集中していた蜘蛛が急に180度向きを変え後ろを向いた。


 吐き気を誘う醜悪なる頭部。初めて見たそれに備わる八つの単眼が、遂にこちらを見た。


 紛れもなく生誕以来最大の危機。全身が警報を鳴らしている、それなのに、



 何故、自分まで振り向いている?



 確かに、目を反らしたい気持ちはあった。しかし危険をそのまま物質化したようなこの蜘蛛を前にして、背を向けるなどあり得ない。


 なのに後ろを振り向いてしまった。それも一号だけではない。


 彼女の周りにいた全員が『蜘蛛が見ているもの』を見ようとしていた。


 つまりは蜘蛛も同じ。一号達など見ていない。


 香澄以外、その場にいる全ての者が背筋で感じ──いや、そのさらに内側。背骨が捻れるような悪寒を感じた。その捻れに従い振り向いて見た。そして思った。



『一心不乱』



 据わり過ぎて、そこだけ時間が止まったような眼差し。どこを見ているのか分からない。


 いや、あの風圧の中でよく目を開けていられる、そう思ってしまうほど出鱈目なスピードで迫ってくる。


 その圧を受け止める下顎はだらしなく下りてガクガクと動いている。そこから垂れる涎が後方へ真っ直ぐ、細く糸引き光って──


 度を越した集中が不気味だった。


 それを裏切る躍動感が禍々しかった。


 もはや正か邪か区別がつかない。


 でも、


 あれこそが悪寒の元凶──それだけは分かった。悪寒して当然という理解があったからだ。

 


( あれが… ヒーロー? )



 …一号がヒーローと認めた彼は、彼女が待ちわびた姿からあまりに駆け放たれていた。


 両手も動員、地を抉って駆ける四足走行。ケダモノの走り。


 すぼまり切ったか開き切ったか…異光放つ瞳孔は純粋な暴力意志を宿していて…そこには粗暴が裸足で逃げ出す『素暴』があった。





 怪物が、解き放たれていた。

  

 



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