98 蜘蛛の傲慢。
実を言うと、巨大蜘蛛は既にこの狩場を見限っている。
そうなった切っ掛けは、ジェネラル級などの高位モンスターの殆んどを均次と香澄に狩られた事にあったが、これはきっかけに過ぎなかった。主な理由は他にあったのだ。
まずこの蜘蛛にとってチーフ級やノービス級モンスターは、レベル差がありすぎて経験値の足しにならず、ここからまた進化を促す気にもなれない。何故ならジェネラル級まで育てば確かに経験値たりえるも、その経験値が育てるまでの手間と釣り合うかと言えば否だからだ。
つまりはもう、割に合わなくなっていた。
この『モンスターが集まる狩場特性を利用した狩法』自体が、この蜘蛛を満足させる事が出来なくなっていた。
それに、ここを離れた番の事も気になっていた。なのでそろそろ引き上げ時と思っていた、その矢先に乱入してきたのが均次達だったのである。
この間の悪い珍入者達から蜘蛛が感じ取ったのは、底知れぬ不気味さ。だから『これ以上育つ前にここで討つべし』と、即座に判断する事が出来ていた。
その判断があればこそ、油断せず戦略を立てられた。だから今も有利に戦えている。
ただ、こう思ってもいた。
ひたすら長かったこの狩りからようやく解放されるというタイミングで何故、こんな厄介な連中が現れるのか、と。
そう、警察署の屋上から均次に向けていたのは獲物を奪われた怒りではなかった。あれは予定を狂わされた者の苛立ち。
つまり、使命感としながら実は八つ当たりも含まれていた。
そしてこの苛立ちこそが慎重なこの蜘蛛に普段ない思い切りをさせていた。
あの、有利な地形をあえて放棄した奇襲はそういった経緯で敢行されたのだが、それが均次という最大戦力の最速無力化を成功させたのだから、この強大な蜘蛛にとっても望外の戦果であり──多少の『運』が絡んでいた事も承知していた。
命を懸けた闘争をこそ当たり前とし、その全てを征してきたこの蜘蛛にとっても戦闘とは水物。
つまりは『運』が絡んで当然のもの。
これは、『運』を強引に引き込むには『思い切りの良さ』が時に勝敗を分ける良い例となったかもしれない。
…などと思えるが実は、その原因は均次にこそあった。
思い出して欲しい。あの奇襲を受けた彼が、どうなってしまったか。
『魂に危険が及ぶを承知しながら大量の魔食材を吸収する』という博打に賭けるしかなくなった。
しかしそれはマイナスにまで振り切った『運』魔力を忘れた行為であり、そんな無謀は当然として失敗する。
しかもそこで終わらなかった。彼の窮地を救うはずの新スキルが反乱を起こしたのだ。
その暴走は均次を昏睡状態に陥らせてしまった。
それだけではない。その過程で均次の魔力を根こそぎ奪いとりまでした。
その結果、均次は全魔力を失い、魔力に覚醒してないも同然の状態となり、蜘蛛だけに収まらず、この場にいる全モンスターに第一の標的と認定されてしまった。
一寸先は闇と言うが…しかし、これはさすがに、不自然だ。
そう、
世界の暗躍は功を奏していた。
マイナスの『運』魔力は、均次の因果を着実に蝕んでいた。
彼にとってこれは…もしかすれば取り返しがつかない弱点に………いや、
赤月市の破滅的未来を回避するには『警察署の崩壊を阻止する事』が唯一残されたルート。そう考えればまだ息を残している以上、均次はそのルート上ギリギリにぶら下がっている状態でつまり、まだ諦める段階ではない。
というより、ここで均次が諦めてしまえばどうなるか。
この蜘蛛は立ち去る前には警察署内に閉じ込めておいた署員達を、皆殺しにするつもりでいる。
さらに言えばその檻として使っていた警察署も破壊するつもりだ。
そこまでする理由は、この狩場を他の何者も利用出来なくするためなのだが…。
この余計な徹底こそが、赤月市の地獄門を開く事になる。
通信が全く使えない今の状況で警察署という拠点まで失えば、赤月市の警察機構は統率の術をほぼ失う。
その喪失は警官同士の連携どころか、人員の確保すら困難にしてしまう。
そして警察署が更地になった事実は、悪人達に対し大々的なキャンペーン効果をもたらすだろう。
犯罪抑止の権威が地に落ちる。反比例して重犯罪者が大量に発生する。そうなると対抗勢力として正義の輩まで荒くれ立つ。
そしてそれこそがこの街にトドメを刺すのだから…この世界はやはりだ。残酷と言う他ない。
何故そうなるかと言えば、悪の側も正義の側も魔力覚醒者であるからだ。
控えめに言って超人。そんな者達で構成された集団がしかも、無法下でぶつかり合うのだから、ただの騒動では済まされない。
もはや治安だけの問題ではない。街そのものが復元不能なレベルで壊される。
──正義を便利に謳ってんじゃねえ!確かに俺が生まれ育った街は地獄と呼んでちょうど良くなっちまった…だからってお前らの遊び場にして良い理由にはならねえッ…違うかよ──
これは均次が前世、歪な正義に酔った覚醒者に向けて堪らず放った言葉で──あの頃。
暴力は必要悪としての地位を必要以上に確立してしまっていた。
悪党は言うに及ばず、正義の輩も大義を掲げた同類でしかなく、均次だってそうだ。自身を例外だと思ってなかった。
今世の彼も分かっている。人に何かを言う資格なんてない。程度の差があるだけで、あの頃はみんな…狂っていた。
そんな悲惨な未来を知る均次としてはやはり、蜘蛛が立ち去る前に間に合った事は幸『運』とすべきだ。
対して、今の蜘蛛はどうか。
手にした豪『運』にも翳りが…いや、もはや不『運』の沼に脚先を浸けつつあるかもしれない。
この蜘蛛のプランに、綻びが生じ始めているのだ。
その綻びの元凶とは、昏睡から未だ抜け出せてない均次に代わり、この蜘蛛と死闘を演じ続ける──大家香澄。
蜘蛛自身も思っていた。忍び寄る不吉を感じながら。彼女を忌々しくも用心深く見つめながら。自身の強大さを疑わず、それでいて慎重さも崩さずに──
──確かにこの人間は並ではない。
感じ取れる魔力(※MPの事)は自分以上だ。凄まじいまである。だがそれを容れる器(※器礎魔力の事)が十分には育っていない。
不気味な仕留めにくさなどは特に認めるところだが、自分を殺せる攻撃を持たないのだから脅威とはなりえない。
何より身体が小さ過ぎるし軽過ぎる…こうして改めて分析してみれば実力差以上に侮って当然の相手……しかし、それでも油断出来る者ではない。
『ここで逃がせばどんな災いに成長するか分からない』
その不安は今も感じているしやはりだ。勘違いではなかった。何故ならこの人間はいまだ、立っている。
これは異常なしぶとさだ。
ここまで相当な圧をかけてきたはずなのに、相当な消耗であるはずなのに、仕留めにくさはさらに磨きがかって見える。
ならば得意の糸で手っ取り早く…そう思ったが止めるしかなかった。この、小さくも得体の知れない何かはその糸をこそ、待っているからだ。大きな隙を見せてこない限りは発射しないほうがいいだろう。ではどうするか──
…この蜘蛛は肝心な事に気付いていない。
それも、悉く。
自身に『運』を引き寄せた思い切りの良さ、それが今や見る影もなくなっている事にまず、気付いていない。
そうなったのはこの香澄に知らずの内に恐怖し始めているからだという事にも気付いていない。
こんな分析でその恐怖を否定し、紛らわせてしまうのは、忍が言う傲慢に侵されているからだと気付く訳もなく。
そして、そんな蜘蛛らしからぬ賢しさが選ぶこの慎重さこそが今、自身の首を絞め続けているという事実にも──
この蜘蛛にとっても、そう。
『世界はそんなに、甘くない』




