少なくとも私には不要です
「――さようなら、オスカー伯爵。もう二度とお会いする事はないでしょう」
「くっ、待て、これは何かの間違いだ! そうだろうエリス!? なぁ!?」
「言い分は後程たっぷり聞かせてもらおう。別の場所でな」
「エリス、エリスーーーー!!」
こちらに助けを求めるように片腕を伸ばしたオスカーを、しかしエリスは一瞥する事なく、伸ばされた腕の事も見えていないとでも言うように視界から外す。ふい、と首ごと逸らされた事にオスカーは尚も助けを求めるようにエリスの名を呼んでいたが、結局彼女がオスカーの事を視界に映す事は彼が連行され見えなくなるまでなかったのである。
「ありがとう、ありがとうエリス! おかげで助かったわ!」
「本当に、もうあの人がここに来ることはないのでしょう!?」
「あぁ、あぁ、本当に、今日はなんて良い日なのかしら!!」
エリスの周囲にいた娘たちが口々にエリスへ感謝の言葉を述べる。
この日、エリスは彼女らの救世主となった。
――事の発端は、と言われると果たしてどこからが正しいのだろうか。
オスカー伯爵、そう呼ばれた男がこの世に生を受けたあたりだろうか。いや、流石にそれは遡りすぎる。
先程連行されていったオスカー伯爵は、自称でもなんでもなく伯爵である。若かりし頃は女性たちからも騒がれる程の美貌を持っていたのだが、婚期を逃し気付けばもう誰も結婚相手になどと言うような事もなくなってしまった男だ。
若いころは結婚相手に是非にと望む者も多かったが、その頃はまだまだ他にもっといい人がいるに違いない、と選り好みし、そうしているうちに周囲の娘は他の相手と結婚し、気づけば年を重ね同年代の女たちのほとんどは結婚し、相手がいなくなってしまったのである。
とはいえ、年を重ねたとはいえまだまだ現役、自分よりも若い娘を結婚相手に、と狙いを定めたものの既に婚約者のいる娘はオスカー伯爵の求婚に首を縦に振るはずもなく。
婚約者のいない娘もいたが、そちらは彼の好みに合わず、自分にはもっと相応しい相手がいるはずだ、と更なる選り好みをしていくうちに年齢ばかりが重ねられ、気づけば彼と結婚したいなんていう者はすっかりいなくなってしまったのである。
ここらで素直に自分と結婚したいという相手の中から選べばよかったというのに、そういった者たちは年をとっているではないか、と自分の事を棚にあげオスカーは頑として譲らなった。
昔から彼を一途に思い続け未婚のままだった女たちも、いよいよここらで現実を見る他なかったのである。
そうして気付けば、若い娘に狙いを定め結婚しようと詰め寄る迷惑な中年貴族が誕生した。
いくら若かりし頃はハンサムだった、などと言われても若い娘から見ればとっくに脂ぎったおじさんである。伯爵とはいえ、けれど家が裕福かと問われれば、まぁ伯爵家の平均からちょっと下、といったところか。これで莫大な財産があればその財産で家を建て直したいとかいう若い娘が自らの身を差し出したかもしれない。
金目当て? 愛がないのだからそりゃそうなる。
けれども肝心の金も大して無いときた。
これはオスカーが若かりし頃に散々散財した結果である。輝かしい未来がずっと続くのだと信じて先を見据えなかった結果だ。
とはいえ、まぁ、細々とした生活を続ければ生きてる間は貴族として生活できるだろう。そんな、まぁちょっと贅沢し続けたら没落コースが目に見えている――それが、貴族たちの周知でもあった。
気付けば自分の周囲は皆結婚し、とっくに子も生まれ、早いところはその子が家の跡継ぎとなっている、なんてところもちらほら出てきた。
ここでようやくオスカーは自分の現状に不安を抱き始めたのである。
自分も勿論子が欲しい。跡継ぎは必要だ。となれば、結婚相手は子を産める若い娘しかありえない。
何、自分の友人たちとて若い娘と結婚したのだから、自分だってそれは可能なはずだ。
そんな、これっぽっちも現状が見えていないままオスカーは結婚相手を見つけるべく、若い娘を見定めるようになったのであった。
オスカーの考えは一部間違っている。
友人たちは確かに結婚した。当時は確かに若い娘であった妻は、今は夫とともに年を重ねている。既に成人した娘や息子がいる友人たちと、オスカーはスタート地点がとっくに異なってしまっているのだ。
当時、彼らが結婚した年齢の娘と結婚しようなど、オスカーが考えたところで相手が了承するはずもない。既に親子ほどの年齢差があるというのに、若い娘がオスカーにほれ込むような部分もなければ結婚など夢のまた夢だ。
自身も若いうちに、まだ相手を選べる状態だったころに結婚していたならともかく、とっくに誰も相手にしなくなった男と結婚しようなどという若い娘、そういるはずもない。
年上の男性が好き、などという娘がいたとしても、それらは大抵年を重ね経験を重ねた、雰囲気からしていかにも紳士といった相手を想定しているのであって、若いころと変わらず暴飲暴食を繰り返した結果すっかり体型は若いころと比べ丸くなり、脂ぎったテカテカのおっさんを選ぶ可能性はほぼ無いに等しい――という事をオスカーは理解していなかった。
見た目も悪く金もないのだ。愛がない娘が相手にするはずがない。それをオスカーはわかっていなかった。
若いころの価値観そのままに、自分が愛を囁けばいけると思いこんだ結果が、ある意味で事の発端だったのかもしれない。
オスカーは周囲の貴族の娘たちに目を付けた。
政略結婚が未だ多くはあるが、生まれた時点で結婚相手が決まっている、なんていう家は今ではほとんど存在しない。あるならそれは王家などの血を絶やしてはならないようなやんごとない身分に連なる者だけだ。
それ以外の貴族たちは結婚相手を見繕うにしても、ある程度の年齢になるまでは正式に決めることもない。一時期早い段階で相手を決めてしまったものの、その後真実の愛をみつけたなどといって婚約破棄を行う者が増えたりした結果でもあった。
既に婚約者が決まった相手は、ほとんどが伯爵家の令嬢たちだ。侯爵家や公爵家も同様。まだ婚約者が決まっていないという令嬢は大半が子爵か男爵家の者であった。
一代限りの騎士爵を賜った家はオスカーの中では端から対象外だ。
若いころに散々遊びまわって見てきた結果、平民の若い娘ならそりゃいくらでも手が出せるだろうと思ったが、やはりこう……日常の所作が違うのだ。遊び相手としてならともかく、生涯を共にと考えると有り得なかった。それに平民の娘はこちらが少し遊んでやろうとしただけで、すぐに金を要求してくる。同じ金を支払うなら、それこそそういったプロに払うに決まっている。
そういう考えであったオスカーが、平民の娘を愛人に、などと思わなかったのはある意味で平民の若い娘たちにとっては良かったのかもしれない。
身分が下ではあるものの、一応は令嬢として生まれた時からそれなりに教育されている娘たち。そこからオスカーがじっくり吟味して選んだ娘は、大半がとっくに婚約者を決めていた。決まったばかりであるなら、まだこちらにもチャンスがある。そう考えて娘に声をかけたけれど、大抵の娘はイヤそうな顔をしてオスカーに近づこうとはしなかった。それどころか、娘の両親を通じて「関わらないでください」という手紙が届いたほどだ。
伯爵家の人間に対してなんたる無礼か、と思ったがその無礼な家を潰そうにも悲しいかな、今のオスカーの家にはそこまでの力はなかったのである。
社交の場に赴いても、若い娘たちはオスカーを見るなりさっと隠れてしまう。目を合わせてはならない、と陰で言われているらしかった。
それでもめげずにオスカーは己の妻となりえそうな相手を見繕う事に余念がなかった。
若い娘、それも美しいとなればオスカーに目を付けられる。
勿論貴族なので政略結婚はまだ当たり前の認識でもあるが、だからといって可愛いわが子でもある娘を、いくら伯爵とはいえ没落が目に見えかけてる家の、でっぷり太った脂まみれで頭頂部も薄くなりかけてきた男に嫁がせようと考えるまともな貴族はいなかった。娘が不幸になるばかりか、下手をすれば伯爵家が傾いた時に娘の実家にまで害が及びかねない。
娘がどうしてもオスカー伯爵と結婚したいの! という熱意でも持っているのならまだしも、まだ結婚相手が決まっていない令嬢たちはこぞって両親に顔を青くさせて縋り付くのだ。
「お父様、お母様、もしかしてと考えたくもありませんが、わたくし、まさかあの伯爵のもとへ嫁げなどとは仰いませんよね……!? あの方だけはイヤです。結婚相手を決めるなら、あの方以外でお願いします……!」
まるでそれは、魔王の生贄にでも選ばれた憐れな娘のようだった。
そういった令嬢たちが多かったのだ。
結婚相手を見繕うべく吟味しているオスカーの視線は若い娘からすればなんとも気持ちの悪いものであった。ねっとりと絡みつくような、背筋から怖気が走るような視線をたっぷり向けられた娘たちの嫌悪感は如何ほどか。まだ潔癖さを残した娘たちからすれば、性的な目で見られることの恐怖はそれこそ化け物を鎮めるための生贄に選ばれたかのよう。
まだ結婚とか早いと思います、なんてのらりくらりと避けていた娘たちはこのままではオスカーと結婚という最も避けたい未来が存在するという事実に気づき、こぞって両親へと掛け合ったのである。家のための政略結婚、気乗りはしませんが、彼以外ならもうむしろどなたでも構いません!
それくらい形振り構わないものだった。
結婚に乗り気でなかった娘たちの婚約があっという間に決まったのは、ある意味でオスカーのおかげと言えなくもない。彼は知らず自分の行いのせいで、多くの嫁候補を失う事になったのである。
結婚相手が決まるのはまだ先かな、なんて思っていた令息たちは思わぬ速度で結婚が決まり、オスカーとの結婚という未来を回避したい娘たちは婚約者として紹介された令息にぐいぐいと迫り、あっという間のスピード婚を成立させた。
政略とはいえ望まぬ結婚を無理に結べば、いずれは破綻する。
過去にそういった事例があったからこそ、ある程度そこら辺の法律も緩くなりつつあったのだが。
一人の男が嫁を求めた結果、とんでもない勢いで結婚ラッシュが巻き起こったのである。
白い結婚だからなんて理由で離縁されてはたまらない。そんな感じで結婚したばかりの令嬢たちは夫になった相手にそれはもうあの手この手で迫り、男たちも積極的な妻にまんまと誘惑され――多分近々ベビーラッシュが発生するだろう。
見ようによっては一人の男の存在が多くの貴族たちを結び付けた結果と言えるのだが、当の本人からすれば何もめでたくはない。自分が結婚できないのに、周囲はどんどん結婚していくのだ。目を付けた若い娘はほとんどが人妻になってしまった。
他の男のものになってしまった女を無理矢理手籠めにする、というのは重罪であるのでオスカーは手出しができない。
数少なくなってしまった未婚女性の中から、どうにかして自分の妻を――!! と意気込んで、彼の行動はエスカレートするようになってしまった。
未だ婚約相手が決まらない令嬢は数名いた。
とはいえ、それは候補が誰もいないというわけではない。
隣国へ留学しているだとかで、戻ってきてから改めて、だとかのそれぞれの家のそれぞれの事情が絡んでいた。とはいえ、それでも婚約者がいない令嬢という事実に変わりはない。
留学する前に婚約だけ結んでいけばこうはならなかったかもしれないが、いかんせん昔にそうした挙句留学先で真実の愛に目覚めただとかで盛大に拗れた事件がいくつかあったので、法改正してしまった結果でもあった。
自国内ならまだしも、隣国だとかの相手も巻き込むとなると法律も途端に複雑さが増すのだ。
どの国も正直そういった面倒ごとに率先して関わりたいわけではない。
留学先で厄介なのに目をつけられた、なんてケースもあるようで、近々同盟国内での法律の一部改正が求められているがそれはまた別の話である。
ともあれ、数少ない婚約者のいないフリーな令嬢たちに目を付けたオスカー伯爵は積極的に彼女らと接点を持とうとした。挨拶ついでに口説き、事あるごとに夜会へ誘う。相手がドン引きしていてもお構いなしに押せ押せであった。
外に出るのを怖がって屋敷の中に引きこもった令嬢数名。
仕事柄外に出ざるを得ない令嬢たちは気丈に立ち向かいオスカーの誘いを毅然とした態度で断ったものの、一度や二度断られた程度でオスカーは諦めなかった。
諦めたらそこで嫁ができないことが確定なので、諦めるという文字がそもそも存在していなかった。
あまりのしつこさにしかるべき機関への相談がなされたが、オスカーは決して嫌がらせをしているわけではない。ただ愛を囁き伝えているだけであると断固として言い放った。
国の法律に愛を囁いてはならないというものは存在しない。悪戯に悪意を振りまいてはならない、というものはあれど、愛や感謝といったものは積極的に伝えるべきだという教えがあった。
オスカーはただそれを実践しているだけなのだ、と言い切ったのである。
いくら相手がその愛は迷惑であると伝えたところで、オスカーも決して退く様子がない。
お互いに理解しあうつもりなどこれっぽっちもない、とても不毛なものだった。
それどころかオスカーはいずれはこの愛が通じるはずだと信じて疑ってすらいなかった。
正直他の理由でしょっ引くことができればよかったのだが、この時点でそれはできなかった。
確かにオスカーは愛を伝えているだけだ。それを相手がとても迷惑に思っていたとしても。
相手が迷惑だから、というだけでまだそこまでの被害が出ていないのも、オスカーをどうにかできない理由であった。
迷惑だからしょっ引く、というのがまかり通ってしまうと、その迷惑の括りが個人の気軽な気持ちであってもいずれそうなりかねないので。
迷惑であり、尚且つ何らかの損害が出た、という明確な被害が出ればまだしも、この時点でのオスカーはまだそこまでの事をしていなかったのである。
令嬢からすればたまったものではない。
オスカーは数撃ちゃ当たる方式なのか、数少ない未婚の令嬢を見かければしっかりと声をかけていた。一人に絞った場合、早々にその令嬢が引きこもってしまったこともあったからだ。
他の令嬢たちからしても、一人に押し付けてしまえば他に被害はないとわかっているが、自分がその犠牲になるつもりはない。誰かに押し付けた結果、今度は自分に押し付けられないとも限らない。
少数の婚約者のいないフリーの令嬢たちの中では暗黙の了解で、みんなで何とかしましょうね、となりつつあった。情報を集めるために茶会を開き、あれと遭遇しないために行動範囲を調べ上げ、ついでに夜会に参加するときはなるべく固まって行動して一人にならないようにするだとか、身内の男性、それこそ親戚を巻き込んででも……などと対策を練っていた。
その中に、エリスはいた。
彼女もまたオスカーに迷惑を被っている一人である。
週末、孤児院へいき手伝いをしたりしているところにやってきてはやれ君は美しいだの、その美しさは私の隣で輝くべきだだの、耳が横滑りしていくようなどうでもいい言葉ばかりを羅列され、正直手伝いの邪魔でしかない。そもそもオスカーはエリスを口説くだけで手伝おうとは一切しなかった。
まぁ、まんまるになってる手で細やかな作業ができるとは思えないし、正直加齢臭漂って孤児院の子たちからも不評だし、下手に子供たちの中に交ざられても子供たちとて困るだろう。
貴族たちの支援でどうにか成り立ってる孤児院、というのはそこにいる子供たちも理解はしている。
だからこそ、いくら脂ぎってテッカテカの遠くない未来ハゲが確定している男であろうとも貴族は貴族。下手な事はできないと理解していた。下手に誰かがやらかした結果、他の子たちまで巻き込まれるというのは、集団生活をしていれば嫌でも理解できてしまう。
とはいえ、だからといって手伝いにきてくれたり一緒に遊んでくれたり時として文字の読み書きだとかを教えてくれるエリスを助けないわけにもいかず。
それっぽい話を振って何とか遠ざけようとしてくれたりもしていた。とはいえ焼け石に水だったが。
それどころか子供たちの世話をしているエリスを見て、子が好きならば、将来的にたくさん子を儲けても問題はなさそうだ、なんてそれはもうねっちょりした視線で見られたエリスは思わず身震いしたほどだ。
貴方と子を作るくらいなら犬と交尾した方がマシです、と割と本気で口から出そうになった。むしろ犬の方がまだエリスの邪魔をしないだけ分別はある。
毎回邪魔をされるわけではないが、下手に行動パターンを覚えられると移動先に先回りしている事もあって、エリスのみならず他の令嬢たちからもオスカーは最早存在が害悪レベルにまでなっていた。
とはいえ、令嬢一人でどうにかできる相手ではない。身分的には相手の方が上。いくら没落が目前に迫っていそうとはいえ、それでも現時点での身分は向こうが上なのだ。身分を笠にこちらに無理矢理迫るような真似はしてこないのは、それをすれば即座に犯罪になるからであって、相手はそこらへんを理解している分とても厄介であった。
もういっそ、夜に呼び出して闇討ちして亡き者にしてしまおうかしら……
などと思いつめた令嬢がちらほら出てきたのは、オスカーが未婚の令嬢たちに狙いを定めた時点で確定していた事なのかもしれない。
流石にそれは問題がありすぎる。いくら迷惑を被ったからとて、それで殺してしまっては今度はこちらが罪に問われる。そうなれば家族や周囲の者にも迷惑がかかってしまうのは明らかだった。
けれども、令嬢たちの精神はそこまで追い詰められつつあったのだ。
限界はそう遠くない。
令嬢たちの様子を見て、エリスは確信していた。
というか、エリスも正直限界だった。
「……オスカー伯爵をどうにかする方法を思いつきましたの。協力してくださる?」
ぽつり、と呟くように言えば、周囲は途端水を打ったかのように静まり返った。
「本当に?」
「本当にどうにかなりますの?」
「教えてくださいまし、それは一体どのような?」
「神殿の巫女、フローラさまの協力も必要なのです。どなたか連絡を入れていただいても?」
「わたくしが参りますわ! 任せてください!」
まだどんな方法かも聞いていないうちから、茶会で対策を考えていた令嬢たちの行動は素早かった。
それ程までにエリスの言葉は救いの福音ですらあったのだ。人間追い詰められるとろくなことにならない。
この日、この瞬間の令嬢たちの動きは下手な軍隊よりも俊敏であったと言える。
――今までオスカーが声をかけていた令嬢の大半が街で見かけることもなくなり、狙いは自然とエリスへとむけられるようになってしまったが、オスカーとしてはこのころになるともうエリスを自分の妻にする事に意識が向いていたのか、どうにも他の令嬢の事は気にしていないようだった。
相変わらずエリスの態度はそっけなく冷たいものであったが、それでも最近はオスカーと二言三言程度の会話が成立するようになってきたのだ。
このままいけば、もしかしたら……! オスカーは内心で浮かれていた。第三者が見れば決して望みはないだろうとわかるようなものであったというのに。
そもそも会話といっても「はぁ」「そうなんですか」「それはそれは」といった相槌でしかないのだ。これで仲が良くなったと思える方がどうかしている。
周囲の女性が放っておいてくれなかった若かりし頃なら間違いなく脈なしだとわかっただろうに、悲しいかな今のオスカーはそんなことすらわかっていなかったのだ。
最近のエリスは孤児院の手伝いではなく神殿での手伝いをする事になったようで、毎日のようにそちらに足を運んでいる。
ほぼ毎日なので、オスカーも特に何も考えずともそこに足を運べばエリスと会うことができた。
神殿の温室。そこで花の世話をしているエリス。
可憐な少女と花、という光景はオスカーの目を楽しませた。
温室には誰でも入れるというわけではなかったが、オスカーはエリスと共にいる時間を少しでも増やそうとして神殿に頼み込んで入れてもらった。多少の寄付をする事になったが、エリスとその分長く居られるのでむしろ安いものだろう。
決して花を荒らすような真似はするなと言われていたが、いくらなんでも踏みにじるような事をするつもりはない。あくまでもオスカーは、エリスと共に時間を過ごしたいだけであったのだ。
何度か温室での逢瀬――だと思っているのはオスカーだけだが――をして、オスカーはすっかり浮かれ切っていた。エリスがこちらの話に耳を傾けてくれているというそれだけで、すっかり気持ちは天にも昇るようであった。
普段も愛を伝えているが、これはそろそろ二人の仲も進展するのではなかろうか……!?
そんな期待を持ってしまい、オスカーは早速エリスに贈るプレゼントを見繕う事にした。自分の欲望駄々洩れで最初思わず下着を選ぼうとしかけたが、流石にそれは早すぎる。彼女との婚約が決まり、結婚してからでも遅くはないはずだ。頭の中でいくつかの下着のデザインを思い浮かべ、エリスならどんなものでも似合いそうだとほくそ笑む。
エリス本人が知れば「死ね下郎が」とのたまいそうな想像であった。
浮かれていたオスカーが気付くこともなく、彼は着々と終わりへと突き進んでいた。
終わりは、呆気なく訪れた。
連日エリスは神殿の温室にいる。それがわかっているのだ。オスカーは焦って探す必要もない。だからこそ悠々と神殿へ出向き、そうしていつものように入場料代わりに寄付をして温室へと向かう。
温室で、エリスは歌っていた。
讃美歌。そういやすっかり聞かなくなっていたな、とどこか懐かしむような気持になりながらエリスは歌も上手いのだな、とその歌声に聞きほれながらもそっとオスカーは彼女の隣へ移動する。
それが、オスカーにとっての終わりになるのだと、彼は気づく事すらなかっただろう。
唐突に歌が止まる。隣にやってきたオスカーに気付いて止めた、というよりは何かが近づいたから止めた、といった様子で。
そうしてエリスは隣に立ったオスカーを見た。
驚きに目を見開いたまま。
歌っている姿を見られての事だろうか、とオスカーはその時点でのんきにそんなことを考えていた。けれども。
「きゃあああああああ!! 誰か! 誰か来てえええええええええ!!」
劈くような悲鳴。まるで今にも殺されると言わんばかりの悲鳴であった。
その声にすぐさま駆け付けたのは、神殿内部の守りを任されている者たちである。次いで、神官長。それからやや遅れて巫女。
その他に、たまたま神殿に訪れていただろう者たち。
顔を覆うようにして「あっ……あぁ」と声を出しているエリスと、いきなり叫ばれて何が何だかわかっていないオスカー。
しかし彼らは何が起きたかわかっていたかのように、速やかにオスカーを捕らえた。
「なっ、何をする!?」
「もうやめてください、本当に迷惑なんです!」
オスカーが叫んだのと同時、エリスもまた叫んでいた。
「エリス!? 何を」
「何度も言ったじゃないですか。貴方の愛は必要ありません、と。そんなものいらないのだと」
確かに言われていた。
けれども、それでもオスカーはエリスに愛を囁き続けた。伝えていけばいずれはきっと、という思いがなかったわけではないのだ。今は伝わらなくてもいずれ。
この頃にはオスカーはすっかりエリスに心を奪われるようになっていた。誰彼構わず声をかけていた時とは違い、控えめで穏やかで清楚なエリスという存在に骨抜きにされていたといってもいい。
逆に言えばそれは単純にエリスしか相手をしてくれなかったから、というのもあるのだが。この頃にはともあれ、オスカーにとってエリスはいずれ自分の妻になる女で、だからこそこのような態度に出られるとは思ってもみなかったのだ。
一方通行の愛でしかないというのに、しかしオスカーはいずれ伝わるはずだと信じて疑わなかった。
伝えようとすればするほど、エリスの心は遠ざかるなど考えた事もなかったのだ。そもそも最初から伝わる事などなかったのだが。
「神官長様、巫女様、この人を捕まえてください。彼は罪人です!」
「何を。愛を伝えるだけでは罪にはならぬ。エリス、君は何か勘違いしているんだ」
「勘違いじゃありません。見てください、この人の足元を。彼は、イリーシアの花を踏みにじったのです!」
「は、花……!? あ、あぁ、確かに申し訳ない事をした。けれど、花を踏んだのだってわざとじゃない。これくらいで罪に問おうというのはいささか大袈裟ではないかね」
「衛兵! この者を捕まえて!」
オスカーの言葉に、しかし巫女フローラの鋭い声が飛んだ。
彼らは花を踏まないよう細心の注意を払いながらも、オスカーを捕らえ花のない場所まで引っ立てる。
「なっ、何をする!?」
「何をする、はこちらのセリフですわ。オスカー伯爵。言いましたよね、決して花を踏みにじってはならないと。よりにもよってイリーシアの花でそれをやるなんて。何てこと」
フローラのあまりにも刺々しい声に一瞬ひるんだ様子であったが、しかしオスカーも負けじと叫び返す。
「イリーシアの花などそこら中に咲いているではないか!」
確かにその通りではある。
街中、至る所にこのイリーシアの花は確かに咲いているのだ。それらを摘み取ったからとてそれが罪になるという事はない。けれども、それは普通のイリーシアの花の場合だ。
「かつて、この国を救いたもうた聖女様によってもたらされたイリーシアの花。それはこの国の象徴となり、国中で咲き誇る事となりました。えぇ、確かにそこら中に咲いていますね。
ところで、この国に存在する霊薬の材料をご存じ? 高位貴族の女性たちにこよなく愛されている美容液の原料は? あぁ、知らないでしょうね。知っていたらそんなこと言えるはずがありませんもの」
「オスカー伯爵。私、言いましたよね。花の世話をするのに邪魔をしないでほしいと。私が世話をしていたのは、霊薬の原料になる花です。最近数が足りなくなってきて、だからこそその世話の手伝いをと名乗り出たのですが、貴方はその私の横で延々と邪魔をしてばかりでした。下手に話に耳を傾けると余計騒がしくなるので相槌だけは打ちましたが、それでも時々伝えましたよね。迷惑ですと」
巫女とエリスに言われ、ようやくオスカーはこれが冗談でもなんでもなく本当の事なのだと理解し始める。
「確かにそこらに咲いているイリーシアの花は白く可憐な姿です。が、薬の材料となるイリーシアの花にはある程度の魔力が必要になるので世話をする者が毎日魔力を注ぐ必要があるのですよ。それも少量では意味がない。かなりの量をね。
注ぐ人間が変われば魔力の質も変わる。そうなると上手く育たない。
そうして毎日コツコツと多くの魔力を注いだイリーシアの花は、白から鮮やかなピンクへと変化します。そして、その花から採れる蜜こそが、万病に効果ありと謳われる薬の原料であり、多くの女性たちを魅了する美容液の材料にもなるのです」
補足するように神官長が告げれば、オスカーは今更のように視線を下へとむけた。
今しがた彼が踏みにじる事となってしまったイリーシアの花は。
無残にも潰れてしまった花は。
綺麗なピンク色であった。
これでは蜜の採取は無理だろう。
一目でわかる程だった。
「普段は神殿の者たちだけで育てていたのですが、何分此度は入用の方々が多く。世話をするにも手が足りなかったのです。だからこうして人手を募ったのですが……困りましたね。薬を今か今かと待っていらっしゃる方は多いというのに、折角育てた花をこのような事にされては……伯爵、言いましたよね、花を踏みにじるなと。
どうしてくれるのです、これは明らかな罪ですよ。
愛を囁く? えぇ、それは罪ではありません。
ですが、薬の原料をダメにした。これはれっきとした罪になります。
この花から採れた蜜で、ゴーガン公爵家への薬を納品するはずでした。
他にもミディオム侯爵家、アライール伯爵家、アンドレッド公爵家……出来次第順番に届けることが決まっていたのに。納品予定日が大幅にずれてしまいました。伯爵、貴方のせいで」
巫女の口から次々に出てきた家名を聞いて、オスカーは何かの冗談ではないか、と思いたい気持ちでいっぱいだった。
明らかに自分よりも立場が上の人間ばかり。その家を敵に回せば貴族でいられるかも疑わしいような家の数々。
「事情を説明すれば理解してくださるような方々だとは思いますが……さて、下手人には一体どのような裁きを彼らは下すのかしらね」
連行しなさい、とばかりに巫女が合図を出せば、オスカーを取り押さえていた者たちは言葉通り彼を連行し始めた。
「――さようなら、オスカー伯爵。もう二度とお会いする事はないでしょう」
「くっ、待て、これは何かの間違いだ! そうだろうエリス!? なぁ!?」
「言い分は後程たっぷり聞かせてもらおう。別の場所でな」
「エリス、エリスーーーー!!」
かくして、誰にも必要とされなかった愛を伝える男はいなくなった。必要としていた者がいたうちに、そのいずれかに捧げていれば別の未来があったはずだがそれももう過ぎた話だ。
オスカーの姿が見えなくなり、エリスの名を呼ぶ声も聞こえなくなってそこでようやくエリスはホッと息を吐いた。
「さて、協力したのですから、その分しっかりと頼みましたよエリス」
「わかってますよフローラ様。駄目になった分含めてイリーシアの花育てさせていただきますとも」
「他のご令嬢たちも協力してくれたので、駄目になった分はまぁそこまで大きな損害ではありません。当面は先程言った家に納品できれば問題ないので、是非とも頑張って」
オスカーを誘導するためにいくつかの花をあえて植え替えて、踏まれやすい位置にした。
とはいえ、とても高価な薬になるはずだった花を台無しにするのだ。
神殿の協力が得られなければできない作戦だった。
毎日花に魔力を注ぐのも面倒であったけれど、しかし終わりが見えてきた。
邪魔者はいなくなったのだから。この清々しさを考えれば、今から花の百や二百を鮮やかなピンクに染めるのは容易い事のように思えた……いや嘘だ。流石にそこまではできない。やったら魔力枯渇して死ぬ。
正直やりすぎたかなぁ、と思わなくもないのだ。だが、散々貴方の愛とやらを受け入れる気はありませんと言ったにも関わらずこっちの意思は一切無視してきたのだ。それ以前に殺害計画まで持ち上がってたのだから、それを考えればやりすぎにしてもまだ温情がある方だ。恐らく賠償金とかを請求されて家は潰れる可能性が高いが、命まではとっちゃいない。一部の令嬢は男性恐怖症一歩手前までいったのだから、むしろこれくらいで済んで生易しいとさえ思い始めてきた。
もっとも、平和を得るための代償としてこれからまたイリーシアの花を育てなければならないのだが。
「ま、いっか」
自らで支払える代償であるのなら、全然安い方だ。
他の令嬢たちも手伝ってくれるのだから、駄目にした分もすぐにどうにかなるだろう。
フローラと交渉した際に頑張って沢山育てたら蜜を多少分けてくれるとの事だし。
今まで散々ストレスしかかけなかった自分へのご褒美に美容液を分けてもらうのも悪くはない。
面倒なのに目をつけられたな、と思ったときは心底うんざりしたものの、しかし解決した途端それら全てがどうでもよくなるのだから。
人間とは現金なものである。