どうせ考えても無駄、考えるな感じろの精神で
弟の様子が気になった。どうにも今回の一件、放っておくにはいささか問題の質が悪い気がする。
返ってきた彼のあの目……アレは、5年前に太一が不登校になった時にしていた、仄暗い感情を孕ませた眸。
不破と喧嘩した時でさえ、あんな目はしていなかった。まるで、感情がずっと深い領域にまで逃げ込んでしまったかのような。
5年前……不登校になった太一は何に対しても無関心で、目を開けていてもじっと動かず、虚空を見つめ続けていた。どんなに姉が声を掛けてもほとんど反応せず、一時は食事もほとんど口にしてくれなかった。
さすがにあの時は涼子も焦りを覚えた。徐々に頬がこけ、淀んだ眼窩。本当に弟はこのまま死ぬのではないかと、本気でそんな可能性が脳裏をよぎった。
両親に反発して家を空けることが多くなっていた当時の涼子は、太一の好きな食べ物も、興味のある事柄も把握できていなかった。
どうしていいか途方にくれ……そんな時に、偶然掛かってきた祖母からの電話。涼子は藁にもすがるような思いで、太一の現状を話し、
『それじゃ、しばらくうちで預かろうかい?』
と、提案された。ちょうど今くらいの時期だったか。涼子は弟を祖母に任せてみることにした。自分だけでは限界を感じていたし、或いは環境が変わればなにかしら弟に良い影響があるかもしれない。
折よく時期は夏休み。涼子は弟と共に、祖母の家の厄介になることになったのだ。
――結果的に、この試みは功を奏した。
夏休みも終盤になる頃には、弟も僅かに食欲を取り戻し、瞳にも精気が戻って来ていた。
やはり環境の変化か……それとももっと別になにか弟の心境に影響を与えるような何かがあったのか。それは分からない。
ただ、思い返してみると……あの時、弟はたまに一人で、どこかへ出かけていたように思う。涼子は心配したが、祖母が『この辺は車もほとんど通らんから、大丈夫だよ』と言って太一を見送っていた。
どこへ行っていたのかは、今となっても分らない。それ以前に、太一にその時の話をしても『覚えていない』と……
さすがに涼子も首を傾げたが、約一ヶ月の祖母宅での生活で、太一の状態は改善されたのは確かだ。
自宅に戻ってきてから、とにかく涼子は太一の世話を焼き、彼の勉強を見てやった――そうして、次の桜が咲くころに、なんとか彼を復学させることができたのだ。
もう、あんなのは沢山だ。
……太一。
祖母宅の廊下を早歩きで、弟の姿を探す涼子。
……さっき、麻衣佳ちゃんたちと一緒にいたみたいだけど。
もしかしたら、彼女たちの部屋にいるのかもしれない。だとしたら、悪いが今だけは少し連れ出させてもらおう。話をしなくてはならない。
姉弟として……また、あんなことにならないように。
ギャル3人に宛がわれた中間の前まで来た。
すると……
『あの……変なこと、訊いていいですか?』
襖越しに、太一が事情を語り始めた。盗み聞きになることを分かりつつ、涼子は耳を澄ませる。
そうして分かったのは、5年前……なぜ弟が不登校になってしまったのか、その原因。
そして、彼を不登校にまで追い込んだ張本人が発した言動の数々……
全てを語り終えた太一。途端、涼子の耳に飛び込んできたのは、
『くっ、だらね~!!』
という、不破のあまりにもあけすけな物言いだった。太一も呆気に取られたような反応をしているのが襖越しにも分かる。
いささか乱暴にも思える不破の対応。
しかし、
……ああ、そっか。
海でも感じた、どこか寂しい感じが胸中を突く。
……あの子にはもう、
自分以外に――ちゃんと支えてくれる存在がいるんだ。
不破は粗暴に粗忽に、彼の悩みに深く無遠慮に、切り込んでいく。
圧倒されている様子の弟の声に、涼子はクスリと笑みをこぼす。
……うん。大丈夫そう。
今の彼には、きっと自分ではなく、あの子たちの言葉こそが一番の特効薬になる。
5年前から、ずっと弟には自分がいなくてはいけないと思い、支えて続けて来たつもりだ。それが、決して彼にとっての最善にはならないと理解しつつ……それでもわずかな慰め程度にはなれればと、傍にいつづけた。
それも、
……もう、いいのかしらね。
太一の抱えた問題は、子供同士のもの。すれ違い、未成熟ゆえの無理解と無知。それでも、彼らは今――自分達だけでその問題と向き合い、解決のために言葉を尽くしている。
なら、
……私がでしゃばるのは、あの子たちじゃどうしようもないことを起きた時だけ。
なんでもかんでも面倒を見てやらねばならない時は、もう終わったのだ。これから、弟は一歩ずつ、時には躓きながらも、前へと進んでいくだろう。
きっと、あの娘たちが彼をもっと変えていくだろう。
ただ、やはりそこに、一抹の寂しさを感じずにはいられない。
涼子は足音を立てないよう、静かにその場を後にした。
大人は時に、だまって子供の成長を見守らねばならない時がある……きっと、今がその時だ。
……頑張れ。
涼子は胸中で、弟にエールを送った。
(ง •̀ω•́)ง ᶠⁱᴳʰᵀᵎᵎ
『お前のこと! 男として好きって以外、ありえねぇだろうが!!』
直前の不破の発言が脳内で何度も何度も反響する。
……ヤヨちゃんが、僕を――好き?
『好き』
この言葉のカバーするところの守備範囲は無駄に広い。有機物(人含む)から無機物、果ては現象に至るまで、あらゆるジャンルにおいて人がそれに心引き寄せられた時に「好き」と発する。
同時に、人が特定の相手に向けて抱く、『LIKE』~『LOVE』といった感情にまで、この『好き』という単語は適用されてしまうのだ。
なんたる汎用性の高さであろうか。あまりにも有用すぎて逆に扱いに困るヤツだ。人類がいまだ言語を用いてコミュニケーションを取らざるを得ない中、この曖昧すぎる『好き』という言葉にどんなニュアンスが含まれているかを我々は常に想像し続けてなくてはならない。
俗に言う、『察しろ』というヤツである。
が、今この瞬間、不破は確かにこう言った。
『お前のこと! 男として好きって以外、ありえねぇだろうが!!』
男として……つまるところ、異性として太一を意識している? そこから導き出される結論は、
『I Love You』
バカみたいに聞こえるかもしれないがそういうことだ。そもそもクソ真面目に語ることでもない。
だが……
「……ありえないですよ」
だって、
「彼女は僕を、友達じゃないって……」
それはつまり、嫌い、ということではないのか?
「その女が、あんたを嫌いつったの?」
「え?」
それは……
思い出す。彼女の言動を。初めて会った時から、昨日までのことを、出来るだけ細かく。
しかし、
……あれ?
「あの……」
「言われてねぇんだな?」
「は、い」
「はぁ~~~~~~~~~」
不破はこれ見よがしに溜息を吐いた。
「はいもう話終わり~ガチ恋かくて~」
「ちょっ、そんな! 僕は」
「んだよ。良かったじゃん。陰キャこじらせまくったあんたを好きって奴がいてよ。なに? 嬉しくねぇの?」
「それは……」
嬉しいか、嬉しくないか……ハッキリ言ってしまえば、分からない、というのが正しい。
そもそも、不破が言うように大井暁良は本当に太一に恋愛感情を抱いているのだろうか。
自己に対して自身のない太一は、まずそこを肯定的に受け取ることができない。
己を卑下し続けてきた代償とでも言えばいいのか。
太一にとって、自分は何においても不足した人間であり、他者に好かれることなどない……もし仮に相手が自分を褒めてくれたとしても、それはお情けであり、決して本心ではない、と思ってしまうのが、彼のデフォルトな心理状態なのだ。
不破と喧嘩した時、彼女に掛けられた肯定的な言葉を素直に受け取ることができなかったのは、このマインドが原因の大部分を占めるを言っても過言じゃない。
判りやすく言えば、太一にとって『ダメな自分』というのが『普通』なのであり、誰かから『肯定的された自分』というのは『異常』なのだ。
不破たちと接するようになり、太一もギリギリ自己肯定ができるようにはなってきた。
だが、それはまだ、相手の『好き』を受け止められるほどには育っておらず……
「僕、は……」
「ふんっ!」
「いっ!」
不破からデコピンが飛んできた。思わず額を押さえる。
「ああそうだったあんたはいつもそうだよな! 自分に自信なんかまるでねぇ。だから自分を好きな奴なんていねぇって思ってんだよな!?」
不破が眉を吊り上げて、普段とは少しだけ様子の違う怒りを露わにする。
「じゃああんたがマジで女から好かれる男かどうかはこの際どうでもいい! どうせ相手の気持ちなんてハッキリわかんねぇんだ! ただな!」
不破は太一を指さし、
「自惚れだろうが自意識過剰だろうが! あんたを好きそうな奴がいて、あんたはその相手を好きなのかどうかってだけの話なんだよ!」
「僕が……」
大井暁良を、どう思っているのか。
「自分に自信がねぇのはいい。男として足んねぇのも後からどうとでもすりゃあいい。それでも今、あんたを見てる奴の気持ちに応えるか応えねぇかくらいは自分で決めろ」
霧崎も鳴無も、ゲームの手を止めて太一に視線を注いでいる。
不破は捲し立てていた口をいったん止めて、少しだけ息を整えると、
「……もし……それからも『自分なんか』って言い訳して逃げんなら、マジで男として……いや、人間として『ナシ』だ。アタシは全力であんたを軽蔑する」
太一の目を真っ直ぐに覗き込み、ドンと胸を押してくる。
もうこれ以上は面倒を見ない後は自分でどうにかしろ、と言うかのように。
不破は太一から離れ、ゲームのコントローラーを握り直す。
「おら、まだゲーム終わってねぇぞ。つぎ牛チチの番」
「はいはい。ようやく再開ね。きらりんってば話長いんだもん」
「うっせぇよ最下位」
「ここから大逆転するもんね~。もしここからきらりんに勝っちゃったら~……ワタシの言う事ひとつ聞いてもらっちゃおおかな~」
「上等。やれるもんならやってみろや」
「は~い言質取りました~。マイマイも太一君も聞いてたよね? じゃあ、本気出しちゃおっかな~」
まるで何事もなかったかのようにゲームを再開する不破と鳴無。霧崎はちょこんと太一の傍に位置を変え、ゲームの画面を注視したまま、
「キララじゃないけど……自分の気持ちくらい、自分で決められないとね」
――それはウッディのモノで、他人のモノじゃないんだからさ。
「……」
呟くような霧崎の言葉に、太一は無言で頷く。
「まぁ難しく捉えないでいいんじゃない? 考えるな、感じろ……ってね。ウッディの場合、考えたって答えなんて出ないんだから」
最後の霧崎の失礼な発言に……しかし太一は、少しだけ気持ちの霧が消えたような気がした。
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